僕は蛇の抜け殻に触れられなかった。

郷倉四季

第1話 同じ外見の恋人が突然現れた時、その見分け方はあるのだろうか?

 桜が散った頃から家の鍵がスムーズに開かなくなった。一緒に住んでいる深水紗希は問題なく解錠できる。「聖が髪色をピンクにしたから嫌われたんじゃない」と紗希は言う。

 聖の髪色は関係ないだろうけれど、誰かの意思は感じる。


 二人が住む一軒家は聖の祖父母が住んでいた場所だった。祖父が亡くなったことをきっかけに祖母が老人ホームで生活するようになり、空いた家を聖が使って良いとなった。丁度、紗希と同棲しようと言う話が出ていたのもあって、一も二もなく引っ越をした。

 それが丁度、半年前のことだ。

 当時から鍵は変わっていないので、誰かの意思があるとすれば祖父だろうか。


 鍵を抜いて再度差し直す。左に回す。何かに阻まれているように止まる。二度、三度、四度目で開錠された。

 玄関で靴を脱いで鍵を閉める。靴は聖のものだけだった。

 なのに、リビングに進むと紗希が横になっていた。

 今日は聖が先に帰ってくる日だった。朝そんな会話を交わしたし、紗希は仕事が終われば連絡をくれる。

 体調を崩して早退したのだろうかと声をかけようとして紗希の瞼が開く。


 紗希は体を起こして周囲を見渡す。

「ただいま。今日、早かったんだね」

「聖だ……」

 戸惑ったような表情を浮かべる紗希に聖は不安を覚える。

「聖さんですよ。どうしたの? 体調悪い?」

「どうしたんだろ。体調は」

 言って、自分の姿を一度見て「大丈夫そう」と続ける。

「そうなの? じゃあ、ただ仕事が早く終わっただけ?」

「どうだっけ」

「疲れてる? 今日の夕食はなしにする?」

「今日? あ……、えっと、神戸にご飯へ行くんだっけ?」

「そうそう。けど、絶対今日じゃなきゃダメってわけじゃないし」

「ううん。今日の夕食はずっと前から楽しみにしてたし、行きたいんだけど。ただ……」

「うん?」

 紗希が何か喋ろうとした瞬間、聖のスマートフォンが鳴る。紗希からのLINEだった。


 今日、一旦帰ってから神戸だったよね?

 もうすぐ帰ります~

 今日のご飯、楽しみ☆


 目の前には紗希がいて彼女の手にはスマートフォンがある。LINEに予約送信の方法があるのかは知らないが、目の前の人間に予約でメッセージを送る理由が分からない。

「このLINEさ、紗希が送ったの?」

 とスマートフォンの画面を紗希に見せる。紗希は不思議そうに自分のスマートフォンを見てから首を振った。


 聖はその場で紗希に電話する。もし、目の前の紗希が持っているスマートフォンに繋がれば、このLINEを送ったのは彼女だ。

 コール音が鳴る。紗希の持つスマートフォンは微動だにしない。

 三つ目のコール音で電話口に紗希が出る。


『もしもし、聖? どうしたの?』

「あのさ」と言って聖はリビングでさきほどまで横になっていた紗希を見る。「紗希って、今日仕事行った?」

『うん、行ったよ。さっき終わったとこ』

 スマートフォンの向こう側にいる紗希は少なくとも朝一緒に部屋を出た紗希に思える。確証はないけれど。不自然な点はない。

 では、目の前の彼女は何者だろうか?

「ちなみに、紗希って双子の姉か妹っている?」

『え、なに、突然? 妹はいるけど聖も知ってるよね? 二人姉妹だよ。双子がいるとは聞いてないかな』

 目の前の紗希は聖と神戸で夕食を取る約束を知っていたし、聖の視覚情報を信じるなら彼女は紗希だ。


「紗希、今から変なことを言うんだけどさ」

『なに?』

「目の前にも紗希がいるんだよ」

『どういうこと?』


 ●


 まったく同じ外見の恋人が突然現れた時、その見分け方はあるのだろうか?

 これが例えば、アニメや漫画であれば紗希と同じ外見に変身できる敵っぽい存在がいて、その敵には分からない質問をすることで見破れる。

 けれど、同じ記憶を有して外見もまったく同じだった場合、社会的な要因によって確認する他なくなってしまう。


 今回で言うとスマートフォンだ。

 今どきスマートフォンが身分証明書になるのは常識だが、同じ人間が突然現れたというファンタジーな事態にも同様の方法が用いられるとは思わなかった。

 聖がかけた電話を取った紗希は少なくとも今日の朝、聖と一緒に部屋を出て会社に行き一日働いていた。

 対して部屋にいた『紗希』の記憶は曖昧だ。気が付いたら目の前に聖がいて今日の記憶はない。また、スマートフォンは紗希が持っていたものとカバーの傷も含めて全て一緒だが、電波は受信していない。


「私がおかしいのかな?」

 と『紗希』が言う。

 状況は確かにおかしい。けれど「『紗希』がおかしいわけじゃない」と聖は言った。

「分からないよ」と紗希が絞り出したような声で言う。「何かがおかしいのは間違いない。ただ、私というより、私たちがおかしいと言うべきなのかも」

「そうだね。私“たち”だね」

「その“たち”に僕は入ってるのかな?」

 二人の紗希が首を振る。


「聖は違う」

「けど、『紗希』を見つけたのは僕だし、この家では僕と紗希が生活をしている。もしこれが何かの事件なら容疑者の一人は僕だ」

「これは事件じゃないよ。おかしなことは起こっているけど」

 断言するように紗希が言う。

「誰も死んでいないし何も失われていない。ただ、増えただけ」

 と『紗希』が自虐的に笑う。

 増えることも事件だろうと思ったが、聖は口にはしなかった。なんとなく紗希たちはこの現状をなんでもないことのように扱いたい。そんな共通の意思を感じた。

「なんにしても、このままってわけにもいかないよね」

 紗希が言った。

「そうだね」

「増えたのは目の前にいる私が着ている服とスマホ。他は何も増えていない」

「うん。悪いけど、キャリーバッグと靴を借りるよ」

「二人とも同じ人間だから借りるはおかしくない?」と聖が口を挟む。


「けど、多分増えたのは私だから」

「原因は分からないじゃん」

「そんなもの最初からないのかも」

「本当にそう思う?」

「わかんない。今、ちょっと頭混乱してて何がどうって判断できないかも」

「それは私も」

『紗希』がクローゼットからキャリーバッグを出して着替えを詰めはじめる。

「え、なに? これからどうするの?」と聖が言う。

「一旦、私が実家に帰るよ。記憶がないの私だし。スマートフォンも使えないし。本物の私がこの先も会社で働いて聖と生活した方がいいでしょ?」

「会社は代わりに行ってくれてもいいんだよ」


 口の端を歪めて『紗希』が笑う。

「せっかく働かなくていい自由を手に入れたんだから、好きに日常を謳歌させてもらうよ。聖、本借りて行ってもいい?」

 突然話を振られて聖はうろたえてしまった。

「もちろん良いよ。良いけど。何も実家に帰らなくても良いんじゃない? 三人で一緒に暮らすって言う選択肢もあると思うけど」

「それは無理かな」

 と紗希が言った。「聖は、分かってないよ」

「何を?」

「自分が一人増えるって恐いんだよ」


 紗希は『紗希』が本棚で本を選んでいるのを片時も逸らさず見つめていた。

 本当に怖いものと出会った時、目を反らしてはいけない。

 おそらく、それは正しい。目を反らしてしまった瞬間、本当に怖いものは悪い想像へと裏返ってしまうから。

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