第一話-5

 冬雪たちが訪れたベルフィ湾は、冬雪が借りている物件の所有者であるベルフィ不動産の本社がある土地だ。ベルフィ湾には海水浴場や港があって水産や貿易、観光業などが盛んであるほか、例えばギルキリア地方工業大学をはじめとする学校施設、軍務省海軍庁の基地や軍務省航空軍事開発委員会の研究施設などの国防施設が設置されている。あるいは冬雪などは、この近辺に特別情報庁が逮捕した囚人を収容する情報刑務所が、ひっそりと存在していることを知っていた。


 要するにベルフィ湾──ギルキリア市港東こうとう区は、人口の密集する地域だった。幽灘や零火たちのように遊びに来るものも多いが、公務員はむしろ、仕事のために訪れることも多い。冬雪が今日二人をここへ連れてきたのは、先に挙げたギルキリア地方工業大学において、大規模な展覧会が行われているからだった。端的に言えば、学祭のようなものが行われているのだ。


「こっちの大学祭も、一般の人が入っていいんですか?」


「そのための大学祭だからね」


 大学ごとに開放する度合いには差があるものの、大学が一般向けに敷地を解放するのには、主に二つの意味があるとされている。一つは開放することで新規入学者を募ること、もう一つは、研究の成果を外部に公表することだ。無論ただ開放するだけでは人は集まらないので、祭りと銘打つことで人を集めやすくするのだ。実際、一般来場者の九割九分は、上記の理由で訪れている。


 例外は、冬雪なのだ。


「おや、これはどこかで道を間違えたかな」


 人気のない通路を進み、誰にも会わないことを不審がる冬雪。同行者である幽灘は大人向けの案内や見慣れない建物名に困惑し、零火はそもそも共和国公用語を読み取ることができない。しばらく歩き回っていると事務室が見えてきたので、冬雪は一度、そこで現在地を訊くことにした。応対に出てきたのは、赤と黒の二色の髪を持つ事務員だった。


「なんだ、迷子か」


「どうも道を間違ってしまったみたいでしてね、申し訳ない」


 事務員は、地図を持ち出してくると、指で指し示しながら経路を案内した。


「もう迷うんじゃないぞ」


「助かります」


 事務員から聞いた情報を頭に入れると、冬雪は事務室の外に待たせていた幽灘と零火を連れ、再び歩き始める。今度は迷うことなく通路を進み、無事に解放された区域に出ることができた。


 というのが、表向きの行動だった。


「……お前さん、本当に銀魔力なんだよな?」


 事務室に残った冬雪・・・・・・・・・に向かって、事務員が疑わしげな声で話す。


 ヴェルナー・アイスナー三等工作員。コードネームは『冷鳴れいめい』。『幻影』所属、特別情報庁の防諜工作員の一人だ。ギルキリア地方工業大学に事務員として潜入している、冬雪の同僚である。名前から分かる通り、『烈苛』のアーニャ・イルムガード・アイスナー三等工作員は彼の妻だ。自他ともに認める愛妻家でもある。


 彼の問いに対し、冬雪──否、その場に残った銀魔力は、あたかも生きた人間であるかのように肩を竦めて見せた。


「どこからどう見ても、ただの人間なんだがなあ……」


 これが、冬雪がこの学祭を訪れた、本当の理由だった。彼は道に迷ったふりをしてこの事務室を訪れ、ヴェルナーのもとに自身の分身──銀魔力でかたどった人型を残していったのだ。幽灘たちとともにいるのは、正真正銘本物の冬雪である。本体にもこの分身の視界は共有されているが、ここにいるのはただの銀魔力に過ぎない。


「まあ任務を果たせるなら何でもいいんだが……詳しいことはオレの精霊が全部知っている。一体貸す。本当にこれだけでいいんだな?」


 銀魔力の人型は、静かに頷いた。


 ヴェルナーは、精霊術師だ。一三の準精霊と契約しており、その力を借りて任務を遂行する工作員である。精霊術師の戦力はその機転によるが、ヴェルナーの場合、大抵の敵に後れを取ることはほとんどない。後れを取ったのが、今回冬雪の手を借りている理由だった。


 彼の任務は、主に大学に潜入している敵を発見し、拘束することだ。事務員の立場を利用して学生や教員の情報を精査し、不審点を発見することで、他国のスパイや国内の売国者を突き止めることができる。証拠さえ集めればあとは隙を見て拘束するだけなのだが、普段は本当に、その拘束は問題なく行えるのだ。


 ただし、稀に失敗することがある。常在する事務員が防諜工作員だと敵に知られれば、二度は出ることはできない。一度接触すれば情報が漏れるのは必然であり、以降の行動に支障が出る。そこで、敵に知られていない仲間を頼るしかない。今回その役目を受けたのが、冬雪だったのだ。

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