第43話 奪われたあなた

 草津温泉旅行で英気を養った俊也と佐紀音。


 佐紀音の3D化がお披露目される、【蔵屋敷リオン4周年記念ライブ】が一週間前に迫っていた。



 佐紀音は、運営からの3D化の打診のメールがあり、それに返信したところ、会社側とリオンと協議を重ね、リオンとステージに立つことが決まって、俊也とケンジは、通話でゲスト出演することが決まった。3人は、リオンと仲の良い【仲良し4人組】である。


 今日は、3Dライブ当日の流れを確認するためのリハーサルが、都内にある【ハルカなる】本社ビルのスタジオにて、行われる予定だ。



 ベッドから起き上がって、階段を駆け下りた佐紀音。仕事の準備をしていた父と母に「おはよー」と、挨拶を交わした。「「おはよう、ツバキ」」と、両親は声を揃えた。


「俊也……?」


 洗顔をするために、そして、俊也をこちらの世界に呼ぶために、洗面台の鏡の前に向かった。


「な、なんで……どうして……」



――鏡が、亀裂を走らせて、割れていた。破片の数々が、洗面所の台の上に散乱している。



――残っていた鏡に反射して映っていたのは、女の【赤首ツバキ】だった。「俊也」がいるはずの世界は、そこには映っていなかった。


「俊也!!俊也!!!」


 必死の呼びかけも、虚しく、叫びが洗面所に響くのみ。割れた鏡の破片が、窓から差し込む陽の光を受けて、キラキラと輝いている。



 恐れていた事態が起きたのだ。洗面所の鏡が、互いの世界を結ぶトンネルの役割を果たしていたが、それが、機能しなくなった。


 涙の熱さが、眼球の裏側からあふれ出した。


 まだ、一緒にいたい。まだ、一緒に配信がしたい。まだ、私のマネージャーでいてほしい。


「ど、どうした、ツバキ!?」

「ど、どうしたの……」


 父と母が、叫びを聞きつけて、洗面所へと駆け付けた。


「鏡が割れてて……」

「ああ、ほんとだ。ケガはないか?」

「ウチは、大丈夫……だけど……」


 俊也に、会えない。


 そんなことを言っても、両親は理解できないので、言葉を飲み込んだ。


「ええと……お父さんが後で片づけておく。歯磨きしたいなら、化粧台の鏡でも使いなさい」


「そうだ、化粧台は……」


 鏡は、洗面所だけではない。残っている鏡で、彼の世界と通じていた鏡は、母と共用の化粧台の鏡と、持ち運び用の手鏡だ。


 佐紀音は、洗面所から飛び出して、部屋の棚に置かれている化粧台を手に持った。



「俊也!!」


「さきねぇ!!」



 なんと、彼の声がした。


 半ば絶望に打ちひしがれていた佐紀音は、我慢していた涙をすべて溢れさせて、彼を「配信上」の名前で呼んだ。


「俊也、俊也……!!」


「だ、大丈夫。落ち着いて。俺、ここにいるから」


 声が近く、大きくなると同時に、鏡には、確かに、「彼」の姿が映った。佐紀音と同じ黒髪、同じ黒い目、同じ身長で、同じような低い地声の彼の姿が、たしかに鏡の向こうに映った。


「もしかして、さきねぇのほうの鏡も、割れてる?」


「うん……今起きたとこなんだけど、俊也を呼ぶために洗面所に行ったら、割れてるのに気が付いて……」


「俺も同じ感じだ。とりあえず、会えてよかった」


「ほんとだよ……もう、一生会えないかと思った……」


 震えた声をこぼす佐紀音。化粧台をがっしり掴んで、絶対に離すまいとする。この鏡を離してしまったら、知らないうちに割れて、俊也の世界とこちらの世界との繋がりが断たれるんじゃないかという不安が、佐紀音の心の内側で膨れ上がっていた。


 俊也は、いたって冷静だった。しかし、声が震えていて、心の内では、やはり焦っているのではないかと、佐紀音は、彼の心中を察した。


 俊也は、化粧台から手を伸ばした。どうやら、鏡を超えられないか、試しているようだった。


 彼の腕は、無事に、鏡を通り抜けた。安心感を得たいがまま、佐紀音は、彼の手をぎゅっと握った。



「うお……狭すぎて、通れないな……」


「俊也……」


 20歳の男が通るには、化粧台の鏡は、あまりに小さすぎた。肩までを入れるのが精いっぱいだった。


「さきねぇ、手鏡はどう?俺、映ってる?」


「確認してみる」


 佐紀音は、手に汗を握り、息が切れ切れになりながら、クローゼットの中にしまってあった斜め掛けのカバンの中を漁った。



「あった……!」


 取り出した手鏡には、確かに、鮮明に、「ゆずる」の居る世界が映し出されていた。白い天井と照明が見えることから、たぶん、彼の世界の手鏡は、リビングのテーブルの上に置かれているのだろうなと、推察した。


 手鏡の柄をぎゅっと強く握りしめて、しばらく待っていると、俊也の顔が手鏡を覗き込んだ。


「よかった、映った……!」



 改めて、手鏡越しに、手を握った二人の【赤首ツバキ】。


「なんで、洗面所の鏡が割れたんだろう……」


「誰かが割ったとかか?」


「でも、家にいるのってウチらと、ママとパパだけだよ」


「ああ、そうか……わざわざ鏡を割る理由が見当たらないな……」


 二人揃って、手鏡の中を見つめ合って、鏡が割れた理由を考察してみる。しかし、心当たりがまったくない。



……ふと、俊也と佐紀音が気になったのは、金髪で、狐のお面を被った「救世主」の存在だ。人智を超えたあの存在が、鏡の異変を引き起こし、二人の「赤首ツバキ」を巡り合わせたのだから、この鏡が割れたのも、もしかしたら、あの救世主のせいなのかもしれないと、思い至った。


 だが、狐のお面の救世主と会って話をしたというのは、自分だけであろうと思った俊也と佐紀音は、その話題を挙げなかった。


「とりあえず、化粧台の鏡と、手鏡は繋がっているから、安心して。落ち着こうよ」


 常にそわそわとして、体が左右に揺れている佐紀音。そんな彼女の不安を、少しでも紛らわすことができればと思って、俊也は、柔らかく声を届けた。



「たぶん、俺たちにできることはない。強いて言えば、鏡を新しく買い替えるぐらいだな」


「じゃあ、どうすればいいの?ほんとに、できることって、無いの……?ウチ、正直に言って、俊也と別れるなんて、嫌だよ」


「まあまあ、とりあえず、これでお別れって決まったわけじゃない。鏡なら、あと二つあるし、目の前のことを全力でやろう。――リオンさんとの3Dライブ、成功させようよ」


 鏡が割れた原因が分からないままであるが、時間は、そんなことはお構いなしに進む。だから、より有意義に、二人で過ごせればと、俊也は考えた。


 彼は、手鏡を手に持ちながら、自室に向かって階段を駆け上がり、ノートパソコンを起動させていた。



「でも、もしも……化粧台の鏡と、手鏡、どっちも割れちゃったら……」


「うーん……考えても、どうしようもできないし、深く考えて気を病むぐらいなら、考えないようにしよう」


「ウチ、俊也みたいに器用じゃないよぉぉ……」



 俊也は、考えていても仕方がないと割り切った。他方、佐紀音は、いつ、鏡が効力を失うか分からない不安に苛まれるばかりであった。


 化粧台の鏡を通して配線を繋ぎ、二人は、予定していたゲームの配信を始めた。


 俊也の声も、俊也が操作するゲームキャラクターも、何ら問題なく、配信上に反映されていた。



 その日のうちは、化粧台の鏡と手鏡を通してのやり取りで済んだ。



――しかし次の日、化粧台の鏡にも、手鏡にも、俊也の姿は、映らなくなっていた。映っていたのは、女の「赤首ツバキ」だった。


 至極当然。自然の理に従って、鏡は、目の前にあるものを反射して映していたのだった。

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