第38話 幸福の桎梏に繋がれた

 苦しい。


 苦しい苦しい。


 苦しい苦しい苦しい……


「ぷはっ!?ごえぇっ、ごほっ……」



 川に飛び込んだ俺は、奇跡的に生還したらしい。自力で、岸部に泳いで、地上へとよじ登った。無意識下で。


 肺や気道に入り込んでいた川の水を、思いっきり吐き出す。咳を何度も何度も繰り返し、嘔吐さえ交えながら、「生」を求めて、水を吐き出した。



「はぁ……はぁ……」


 気が付いたら、俺は、芝生の上にうつ伏せになっていた。


――握っていた音楽プレーヤーとメモリが、無くなっていた。たぶん、川の中でもがいているうちに、落としたんだろう。



 あの世界にいる彼女に、届いただろうか。


「おい、君、大丈夫か!?」



 川辺の草むらの中心に仰向けになっていた俺に、声が降りかかった。


 俺の顔を覗き込んだのは、見知らぬおじいさんだった。頭のてっぺんが禿げた白髪で、顔のシワが……とくに、目元のシワが深いおじいさんだった。掛けているのは、おそらく老眼鏡。


「は、はい。大丈夫です」

「いやぁ、君が川から上がってくるところを見かけたから、心配になって、見に来たんだ」

「あ、すみません……ご心配をおかけして。大丈夫です」


 

 俺の声は、未だに川の水が絡まっているみたいに、低く、どこか遠い音をしていた。


「川に……ごほっ……イヤホンを落としてしまいまして、それを取りに入ったら、思ったより深かったので、諦めて、上がってきたんです」


 説明を綴る声に、咳が横入りした。


 もちろん、イヤホンを取りに川へ入ったなんて嘘だ。本当は、自ら命を絶って、音楽を届けるために、カノンのいる【あの世】に行こうとしていた。



 おじいさんは、シワのある顔を寄せて、忠告をくださった。


「川になんか、入っちゃダメだ。溺れたりしたら、誰が助けるんだ?」

「すみません……浅はかでした」

「救急車、呼んでおこうか?」



 救急車なんて呼ばれたら、両親とか高校に連絡が入るだろう。「イヤホンを取りに、自ら川に入った」なんて馬鹿な真似の説明なんか、している暇はない。俺は【幸せにならにといけない】。そう約束したから。


 だから、意地で立ち上がった。



 頭がぼーっとするし、足も腕も痺れているが、強がって、虚勢を張っておいた。


「いえ、大丈夫です。自分で歩けます」

「そうか。それなら、よかった」

「改めまして、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

「いやぁ、いいんだよ。君が無事だったなら」


 俺は、心配してくれた見ず知らずのおじいさんに、頭を下げた。



 おじいさんは、去っていった。


 そういえば、飛び込んだ地点の近くの地面に、カバンを置きっぱなしだったなと思い出して、それを取りに向かう。草むらをかき分けて歩くのだが、景色が、どこか見慣れない感じだ。


 いつの間にか、高校の通学で通る陸橋が、あんなに遠くに。



 どうやら、数十メートルぐらい、流されてきたらしい。


「はぁ……疲れたな」


 今日は、人生の中で一番疲れた。……というか、後にも先にも、こんな疲弊する日は、たぶん、やってこないだろう。


「あ、あった」



 背中から降ろして、地面に置いておいた紺色のカバンを発見した。このカバンごと飛び込んでいたら、教科書もスマホも使い物にならなくなっていた。


 びしょびしょに濡れたワイシャツを着たまま、それを背負って、歩いて帰宅した。



 母と父は、仕事の日だったから、家におらず、びしょびしょで帰宅した姿を見られることはなかった。


「はぁ……」


 また一つ、深いため息が漏れて、静寂を抱いたリビングに響いた。



 ソファーへ横になって、白い天井を見上げる。


 そこに、かつてのカノンの、満面の笑みが浮かび上がってきた。


「ああ……」



 涙がこみ上げる。


 また、彼女の、あの笑顔を見たい。


 けれど、見れない。


 そして、気力も体力も尽きて、涙もれた俺は、濡れた体のまま、静かに瞳を閉ざして、眠りに落ちた。



****


 さて、彼の過去を総評させてもらうとしようか。


 その後、彼は音楽の制作を続けたそうだ。自らが抱える心の黒い淀みを表現した音楽を求め、より人の目を奪う歌詞を、音楽を、考え続けた。



 志望していた大学にも、無事に合格。


 しかし、彼の心は晴れることはなかったそうだな。初めて好きになった人が、自ら命を絶ったとなれば、心の傷を癒すのは困難だろうさ。


「ダメなのか、俺の音楽は」


 大学から帰ってきて、部屋に閉じこもり、音楽と向き合い続ける姿は、私たちから見れば勇姿であろうが、それ以外の人から見れば、狂気に見えることだろう。そうは思わないか、女の子のほうの【赤首ツバキ】よ。


 ほら、見てみろ。



「雨沢さん、力を貸してください」


 彼は、部屋で一人、天井からつり下げた長いタオルに首をかけながら、液晶タブレットで音の打ち込みをしている。彼は首を吊って死ぬつもりは更々なくて、【死】に最も近づくとは、つまり、あの世にいる大好きな人と最も近くなるということなんだと考えている。


 死と彼女に最も近しい状況に置かれるという気持ちを、感情を、言葉にしたり、音にしたりして、表現しようという試みらしい。これを勇姿か、あるいは、果てしない狂気と呼ばずして、なんとする?


 しかし、彼が全身全霊をかけて作った音楽は、ネット上で、話題にすらならなかった。



「一ヶ月で、61回再生……」


 他の人たちがつくった曲が、数十万、あるいは、数百、数千万回と再生されている中、彼の音楽の評価は、それに対して、すずめの涙よりも小さいものだった。


 愛した人は、永遠に会えず、誰にも認められなかった彼は、いよいよ死んでしまおうかと、自らの存在価値に疑問を持ちはじめた。


「俺って、運も才能も無いのかな……というか、こんなやつ、生きてていいのかな……こんなやつ、生きてる価値あるのか……?」



 そんなある日、鏡の向こうに、もう一人の【自分】を見つけたんだ。君を、「見つけてしまった」んだよ。



 さあ、いよいよ目覚めだ。


 彼のところへ行って寄り添ってやりな。


 わたしは、ここの後始末をするとしよう。

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