第37話 ずっと忘れない

 真っ白な世界だ。


 何も印刷されておらず、何も書かれていない紙のように白い。


「なんだ、ここ」



 俺は、この音楽を届けるために、川に飛び込んだんだ。右手には、確かに、音楽プレイヤーと、それに繋がれたイヤホン、それから、ポケットにはUSBメモリがあった。


 着ていたワイシャツは、泥の一滴も付いておらず、水の一滴すら吸っていない。きれいさっぱりの真っ白で、この世界の色に同化して見えないぐらい、真っ白だった。



 そんな真っ白な世界へ唐突に、彩りが満ちた。


 というのも、白い世界が内側から開いたのだ。どうやら、俺は、白く巨大な箱の中に閉じ込められていたようだ。


「おお、すごいな……」



 夏の入道雲が迫る、どこまでも広い青空が、百の色の花々が植わった平原を抱えていた。風は、花の香りを届け、空の雲の白の色をした蝶が、たんぽぽの花の蜜を吸っている。


 小川がちょろちょろと流れていて、その水は、恐ろしいほど澄んで透明だった。そこを泳ぐ小魚の輪郭の曲線美がはっきりと見えるぐらいに、澄み渡っていた。



 ここは、天国というやつなのだろうか。


 ここで、神の審判を受けて、これまでの罪を煉獄れんごくの浄化によって清め、神との永遠の愛を手にするのだろうか。


「あ、俺、地獄行きだ……」



 最期の記憶の光景を思い出して、ぞっとした。背骨が飛び出すかと思うほどの恐ろしさが、身体を芯から震わせた。



 この花畑の先で待っているのが、いかなる神にしろ、俺は、自ら命を捨てたのだ。音楽を彼女に届けるためという、自分勝手な気持ちによって、【赤首ツバキ】という人間を殺したのだ。



 そんな恐怖に苛まれながら、しかし、今更、引き返すわけにもいかず、花畑の中を歩き始めた。


 すると、遠方に一人の人影が見えた。その人影に向かって、走る。


 花畑の中に立っていたのは、黒髪ショートの女の子だった。


 ツバキの花のような赤のヘアピンが特徴的な女の子。おっとりとしていて、話し方がとにかく柔らかい印象。そんな特徴を持っているのは……



「雨沢さん!!」


 俺は、声の限り、彼女の苗字を叫んだ。


 風に乗せられて、俺の声が、彼女の背中を突いた。



「……ツバキくん!?どうしてここに?」


 ずっと追い求めていた彼女は、黒い前髪を風になびかせて、くるっと振り返った。



「いや……俺にもわからない。けど、雨沢さんに会うために川に飛び込んだら、いつのまにか……」


 首元を指で掻いて「へへへ……」と乾いた笑いを笑った。



 その足で、一歩、また一歩と、カノンに近づいた。


「こっちに来ちゃダメ!」

「え?」


 焦燥に駆られた顔で、カノンが俺に叫んだ。


 やっとの思いで会えた彼女へ、右手に持った音楽プレーヤーとメモリを手渡したかったのだが、あまりの拒絶ぶりに、困惑の色を隠せなかった。



 棒立ちになってしまった俺に、カノンは、さらに重ねて忠告した。


「あなたは……まだ、死んでないんだから、今なら、まだ戻れる」

「いや……でも」

「すぐに戻らないと、手遅れになる……元の世界に、戻れなくなっちゃうんだよ!」


 音楽を聴くぐらい、あるいは、そのメロディーを詰め込んだメモリを手渡すぐらい、いいじゃないかと思うのだが、同時に、彼女の手を取ったら、二度と【あの世界】に戻れない気もした。



 たぶん、ここは死者の世界と現実の世界との狭間の世界なのだろう。だから、死んでしまったはずの彼女が、こんな綺麗な景色の草原に立っているという、怪異と現実っぽさが同居しているのだ。


「このまま、此処ここに居たら……私みたいに、戻れなくなる」

「あの……これ、受け取ってほしくて」

「え、何、それ……?」


 俺は、「おそらく死者である」彼女に近づき過ぎないように気を配りながら、手元の音楽プレーヤーと、メモリとを胸の前に示した。



「俺、ずっと雨沢さんと仲良くなりたくて、でも、ずっと『友達になってください』って言い出せなかった。俺、口下手だから……」


 ただ、「友達になって」の一言が言えなかったから、音楽を作るという、果てしなく遠回りで、かつ、茨が生えた道を進んできた。



 だから、この、気持ちが詰まった音楽だけでも受け取ってほしいな……と切実に思う。


「雨沢さん、言ってたよね……『小学校のころピアノやってたから、音楽、好きだよ』って」

「うん。私は音楽、好きだよ」


 それは、夏休み前の図書室での会話だった。



 俺がよりよい音楽を作るために、図書室で一人、本を読んでいたとき、彼女と、彼女の友達の霧島が偶然やってきて、声をかけてくれた。



――彼女の親友の霧島さんも、今頃、カノンの死に打ちひしがれて、泣いているのかな。



「だから、作ってきたんです、俺の、オリジナルの音楽を……」

「え……ほんと?」

「こんなとこまで来て、嘘つかないよ」



 カノンは、眉尻を下げて、困惑の色を浮かべていたが、その黒い瞳の裏側には、たしかな喜びの輝きが眠っていた。


 引き続き、頭に浮かんだ言葉を丁寧に紡いで、声にして伝える。



「雨沢さんに、最高の音楽を聴いてほしくて、作曲の方法も勉強して、いろいろ調べたり、本読んだり、パソコン買ったりして、やっと完成した曲なんだよ」


 静かに、俺の話に聞き入ってくれる彼女と対峙していると、あまりに【コドク】な、苦悩に満ちた日々が思い出されて、眼球の裏側に涙の熱さを感じた。



 大学受験という試練は、日々、静かに忍び寄ってきている。その先の大学での勉強は、どのように行うか?資格の勉強も必要だろうか……就職のことも不安で、今の日常が奪われる破滅もまた、恐ろしい。


 けれど、カノンと仲良くなってみたい気持ちと、カノンに音楽を贈りたい気持ちが、強かった。


 その気持ちの熱を原動力に、心の中の黒い淀みとなっていたあらゆる不安と苦悩を押し退けて、日々を生き抜いてきたのだ。


「夏休みの間に完成したから、二学期のはじめに渡そうと思ってたんだけど……その……あの……」



――彼女は、死んでしまった。



 その事実を再確認させられて、また、声が震えた。


 泣いちゃだめだ。こんな機会、たぶん、二度と無いんだから、カノンを困らせるようなことがあってはならない。泣きっ面を晒して、嫌われたくない。



 目の前で、彼の感情の高ぶりを目撃したカノンは、声のトーンを落とした。


「ご、ごめん……そうだったんだ」



 胸の前に手を合わせて、彼女の細いシルエットは、左右に揺れる。


「いや、俺のほうが謝んなきゃいけないと思う……ごめん」

「な、なんで?ツバキくんは、別に、何も悪いことはしてないでしょ」

「俺が、雨沢さんと仲良くなれてたら、もうちょっと違う結果になってたのかなって……」

「そんなこと……」


 カノンは、思わず俺に一歩、歩み寄った。



 あの日、あの時、『友達になってください』とか『俺も音楽好きだよ』とか『俺、音楽作ってるんですよ』とか、たった一言の勇気を振り絞っていたら、カノンと距離を縮められて、カノンと仲良くなれて……



――こんな、互いにとって最悪の未来は、訪れていなかったかもしれない。


「あの、すごい言いにくいんですけど……俺、雨沢さんのこと、気になってたんだよ、いろんな意味で」

「いろんな意味?」

「不愛想で、なんの取柄もない、こんな俺と、平等に接してくれたでしょ?それで、雨沢さんのことが、人間として、羨ましいなって思って」


 それは、入学したての頃……


 一人、朝早くに投稿して教室入りして、自席に腰を下ろし、静かに教科書を読んでいた。そんな俺に「おはよ」と、挨拶をしてくれたのだ。


 彼女にとっては、何気ない、普通のことだったのかもしれない。



 けれど、その一言の挨拶で、俺がどれだけ救われたかは、俺しか知らない。


 こんな俺にも、挨拶をしてくれる人がいるんだと分かって、その日だけでも、生きている世界のことが……そして、カノンのことが、好きになったのだ。


「その……ちょっと、恋愛的な意味でも、気になってたんですよ……雨沢さんのことが」



 また遠回しだが「好きである」という感情を伝えた。


 やっぱり、本音を伝えるのは、恥ずかしいし、俺らしくない。



「私の気を引くために、音楽を作ったの?そういうこと?」

「まあ……はい、そうです。正直に言うと、そうです。ちょっとでも仲良くなれたら儲けもんだくらいに思って、作ってました……ごめんなさい」



 こんな俺が、あなたのような素晴らしい人を好きになってしまってごめんなさい……というメッセージを籠めて、頭を下げた。


 そのとき、彼女は微笑んで「ありがと」と言ったのだった。



「ありがと。――でも、そんなにすごいことしなくても、『友達なって!』って一言、言ってくれたら、友達になったのに」

「え……そんなことで、友達になってくれるの?」

「うん。許可だって、すごい功績なんて、友達になるためには必要ない。だって、友達って、そういうもんでしょ。気楽に話せたり、一緒にいられたりするだけで、もうそれは、友達でしょ」

「はは……ごめん、友達できたことないから、分からなかった」



 俺は、幼稚園生の頃から、現在に至るまで、友達らしい友達ができたことがなかった。だから、世間一般でいう感覚とは、やっぱりズレているのだと、実感させられた。


 恥ずかしさを隠そうと、首を掻いていると、世界が崩れ始めた。



「な、なんだ……」


 ガラスが割れたような音とともに、【狭間の世界】の崩壊がはじまった。


 花畑の地平線の向こうが、ガラガラと崩壊しているのだ。まるで、崖崩れが起こっているみたいに、花畑と青空の景色が崩れて、そこには、墨のような、恐ろしい黒の空間が残るのみ。



 俺は、そろそろ戻らないと、「手遅れ」になるんだなと悟った。


 だから、カノンに向かって、めいっぱい、腕を伸ばした。その手には、新品のイヤホンが挿さった音楽プレーヤーとメモリが握られている。



「これ、受け取って、聴いてくれる!?」

「……わかった、たくさん聴かせてもらうから、必ず、ぜっっったいに、元の世界に戻って、生きて!!」

「……ぅ、うん、雨沢さんの頼みとあらば」


 彼女に、確かに、音楽を手渡すことができた。


 彼女は、音楽プレイヤーとメモリを、胸の前に、ぎゅっと握ってくれた。



――本当は、このまま手遅れになってもよかった。



 このままでいて、カノンとともに、【あの世の世界】に落ちていってしまいたいと思った。彼女とならば、地獄の苦しみにも耐えられそうな気がした。



 けれど、彼女とたった今、約束したのだ。


 必ず音楽を聴いてもらうことを。


 必ず、元の世界に戻ることを。


 必ず、生きると。



 だから、俺は、彼女の姿を今一度目に焼き付けて、振り返り、背を向けて走り出した。




「世の中ってたしかに、不安で、大変で、怖くて、不幸なことが沢山ある」


 どこからか、彼女の鈴の音のような声が、音楽ホールにいるみたいな響きで聞こえてくる。


 崩れゆく世界……俺は、カノンに背を向けて、花畑が広がる光の世界へと走り続ける。小川と飛び越え、泥に足を取られながら、花々の道なき道を踏みしめる。



 すると、また、彼女の諭すような声が聞こえてきた。


「でも、私、【ここ】に来てから、気が付いたの。――みんなが生きている世界には、多くの不幸や悲しみよりもはるかに多くの幸福と成功が満ちているって」

「っ――」


 言葉が、体の芯まで、心の深層にまで、染み渡るようだった。彼女の声は、言葉は、まるで、不幸という病に対する薬みたいだ。



「ツバキくん、生きて!私は、生きることに希望を見いだせなかった。自分勝手なお願いかもしれないけど……あなたには、私の分の幸せまで、知ってほしいの!!」


 彼女の姿は見えないが、彼女の声は、どこまでも響いて聞こえてきた。


「ツバキくんのこと、この世界から、ずっと応援してる。ずっと、見守ってる!」


「う……ああ……」



 これで、本当にお別れなんだと、悟った。


 もう、夢でも見ない限り、あるいは、本当に死なない限り、彼女と話すことも、彼女の姿を見ることもできないだろう。


 本当に、これで、死者と生者せいじゃとの、永遠の別れなんだと思うと、頭がガンガンと痛くなってきた。



 離れたくない。もっと、音楽の話をしてみたかった。もっと、互いを理解できるように、何気ない日常を共有してみたかった。


 けれど、彼女に「生きて」とお願いされたら、そうするしかない。それが、彼女の望むことであれば、俺が叶えたい。



「っ――、私が殺してしまった幸せの分まで、幸せに生きて!!!!」



「あああああ!!!滅茶苦茶、つらいっ!!!」



 叫びながら、涙を溢れさせながら、振り返らず、光が続く方向へと、花畑を踏みしめて、走り続けた。



――永遠にさようなら、雨沢カノンさん。



――俺は、あなたの分まで生きて、幸せになります。



――神よ、どうか彼女をお救いください。



 生きる者が住まう世界で薄れていた俺の意識は、急速に浮上した。



✳✳✳✳


雨沢カノンのイメージイラストはこちらから。↓

https://kakuyomu.jp/users/NekoZita08182/news/16818093091056000184

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