第36話 愛について裁かれる

 今日は、学期はじめなので、帰宅時間が早い。学年集会が終われば、授業は行われず、それで解散だった。



 俺は、通学路の途中の川辺で放心していた。人通りが少なく、あおを祝う鳥の唄だけが聞こえてくる、なんとも心地よい空間を独り占めにしていた。


 その蒼の芝生に、腰を下ろす。そして、何も考えることもせず、ただ青空を流れる雲を仰ぐ。



「くっ……あぁ……ぐすっ、んん……」


 涙が、目の裏側から、まるで溶岩のようにグツグツと熱を持って、流れ出した。視界が、ゆらゆらと揺れて歪む。嗚咽を堪えきれず、吐き気を催す。



 どうして、「友達になってください」の一言を伝えられなかったのだろう。



 どうして、もっと早く、音楽を作ってると打ち明けなかったんだろう。



 どうして、彼女は、自らを天に召したのだろう。


 俺がもっと、勇気がある男だったら……もっと、彼女と仲良くなれていたら……こんな世界は無かったかもしれないのに。俺に、できることがあったはずなのに。


「ごめん……」



 彼女が、どのような過去を歩み、あの図書室で何を思い、夏休みをいかに過ごして、その末に、自らの威光に幕を閉じたのか、俺には分からない。


 でも、仮に、彼女と友達であったなら……仮に、俺が「音楽を作っている」と打ち明けてみたりしていたら、彼女の心が、どこかで変わって、こんな最悪な運命を導かなかったかもしれない。



 猛烈な喉の渇きを覚えて、水筒の水を飲む。


 口の端から、麦茶がこぼれて、首を伝い、着ていたワイシャツの襟元と胸元とを濡らす。その灰色っぽい跡が、もはや涙の跡なのか、お茶がこぼれたための跡なのか、わかったものではない。お茶を飲むことさえ、今の俺には難しかった。



 川の向こう岸の道路を見る。


 人々は、いつもどおり、道路を歩き、自転車が走り、車が悠々と行く。



 俺に汗をかかせる、空の太陽を仰ぎ見る。さんさんと照り付ける日差しがうざったい。いつものように眩しく、俺の足元に、黒く濃い影を作っている。



 晴れ渡った青い空を見上げる。


 あれは、たぶん、渡り鳥だ。白い羽を羽ばたかせながら、自由に満ちた空を翔ける。



 そんな世界にただ一人、取り残された男が一人、誰にも知られず、惨めに泣いていた。


――恐ろしいまでに美しい、そんな世界に、もう「雨沢 花音カノン」は存在していない。



 こんなに泣くのは、高校受験の前日の、重圧に圧し潰された日以来だ。頭が、じーんと痺れているみたいに痛い。


 息が過剰になって、心臓が警鐘を鳴らすように、高鳴っている。


「っ――これ……」



 右手のポケットの音楽プレイヤーを握りしめる。これを、今日の今頃には、彼女と聴いていて、その音楽がこめられたメモリをプレゼントしているはずだった。なのに……渡したいはずの彼女は、もう天のはるか彼方。


 いくら大音量で流しても、いくら歌を叫んでも、太陽を遮ったあの雲の向こうにすら、届かない。



『不幸の共食い』


 自分が、一年以上もの月日をかけた末に辿り着いた音楽と、精選した歌詞……それらを代弁する題名を、思い出した。


 先日まで感じていた、大学受験への不安や、音楽をプレゼントすることへの緊張は、すべて、痛哭つうこくの黒で上塗りにされてしまった。まさに、不幸の共食いが起こったのだ。



「届けないと……これ」


 リュックを地面に置いて、立ち上がる。


 音楽プレイヤーにイヤホンを繋いだそれを持って、堤防の端に立ち、川を覗き込んだ。流れは緩やかだが、宵闇のような黒色をしていて、底が見えない。



 その闇の黒の向こうに、音楽を贈りたかった「彼女」が居るような気がした。


「はぁ……はぁ……ふうーーーーーーーーーー」



 大きく、そして長く、長く、息を吐いた。


 そして、闇の中へと飛びこんだ。

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