第35話 天までとどけ、君への想い
彼は、少し緊張した面持ちで教室入りした。
カバンの中には、音楽プレイヤーと、イヤホン、それから、USBメモリを忍ばせている。このメモリには、彼が夏休みの間に完成させた音楽が保存されている。
――曲名は『不幸の共食い』
少女を食らった猛獣が、さらに獰猛で巨大な大蛇に丸飲みにされるという内容の曲である。
彼の、あらゆる努力と知識と感性の集大成であった。
この音楽を、放課後に、カノンと一緒にプレイヤーで聴いて、プレゼントするという算段である。
……正直、私から言わせれば、いきなり『音楽作ったから貰ってよ』と言われても、受け取るかどうか微妙だけど。
「それでは、三ツ井校長から、お話をいただきます」
学期はじめの学年集会が、体育館にて執り行われている。
校長の長話など、上の空。彼は、爆発してしまいそうな心臓を胸の内に抱えていた。
……この集会が終わったら、カノンを誘うんだ。そして、メモリを受け取ってもらうんだ。
……サビの繋ぎ、上手く編集できてたっけ?
音程のズレって、大丈夫だよな……昨日、事前のチェックで、耳にタコができそうなぐらい聴いたから……
彼は一人、あらゆる不安と緊張を抱えて、首元を掻いた。
「えー、最後に、皆さんにお知らせしなければならないことがあります……」
長ったらしい校長の話は、ようやく終わりを迎えようとしていた。「受験は団体戦です」なんて、実態の無い虚言だと思いつつ、彼の心は躍りはじめていた。
この集会が終わったら放課後で、そこで、カノンに話しかけるんだ。
彼は、ふと、カノンがいる3組の集団の列を眺めた。
そこに、カノンの姿はなかった。
いくら探しても、キョロキョロしても、見つからない。
「――先月24日、三組の、雨沢
校長は、感情の一切なく、淡々と告げた。
周囲から、音が消え去った。校長が、その言葉を告げる、ただその刹那だけは、セミの唄も、夏の陽の光を運ぶ熱い風の音も、あらゆる音が消え去った。
「ぁ……?」
聞き間違えだろうかと、彼は、我が耳を疑っていた。ロクに校長の話は聞いていなかったのだが、その言葉だけは、かなりはっきりと【聞こえてしまった】。
自分の体の中から、五臓六腑がすべて流れ出て空っぽになってしまったかのような、妙な空洞感と浮遊感を味わっていた。
彼の思考は、白の一色に染まった。
「葬儀は、ご家族と近親者のみで、すでに執り行われました」
何が、彼女を「そう」させたのか。
事故か。いじめか。虐待か。はたまた、あるいは、別の何かか……
その説明の一切は、校長の口から説明されなかった。
「これから一分間、
校長は、かすかに震える手を制して「黙祷」と、静かに言った。
周囲の生徒たちと教員一同が、一斉に頭を下げた。
彼も、生徒の一員として、そうした。
涙が流れない。悲しいはずなのに、涙が、湧きおこってこない。たぶん、彼女がこの世界には、もう、いないのだという実感が欠けていたからだと思う。
彼女は、当たり前に登校してきて、当たり前に高校を卒業して、当たり前に彼女自身の夢を追いかけるものだと【思い込んでいた】。
当たり前だが、人はいずれ死ぬ。
その時期が早いか遅いかだけの違いなのである。
日本が、そして、周囲の社会や人々があまりに穏やかで、平和を愛していたから、そんな、人としての当然の行く末を忘れてしまっていた。この世界の、社会の不都合な理を、忘却していたのだ。
人は、死ぬんだ。
当たり前なんて、簡単に壊れるんだと、彼は気づかされた。
黙祷の無音に、聞こえるはずがないパイプオルガンの『いつくしみ深き』旋律が聞こえてしまった。
校長は、集会の終わり際に、こう言った。
「
彼は、校長のその言葉で、すべてを悟った。
――彼女は、自ら、命を断ったのだと。
その後に、空気は、元の集会のものが戻ってきて、数学教師が「夏休みの課題は、宿院室前の籠の中に、クラスごとに提出してください」と言って、段取りのすべてが終了したらしい。
解散となった学年集会。
名前も顔も分からない同級生が「
彼にとっては、あまりに大きな傷。もしかしたら、立ち直れないかもしれないぐらいの、心の大きな傷だった。
しかし、彼女を知らない人にとっては、単なる【統計の目減り】でしかなかった。日本の人口が一人、減った。ただ、それだけだった。
「っ」
私は、彼の心の中で、息が詰まった。
彼は、人を、日常の「当たり前」を、失うことの悲しみを知っていたから、私がタバコを吸おうとしたとき、全力で止めたんだ。
彼は、カノンちゃんに音楽を贈りたくて、必死に努力したから、私のオリジナル曲『カメリア』を手際よく作ってくれたんだ。どうして、音楽をサッと作れるんだろうと、思っていたが……まさか、こんなに悲しい過去があったなんて……
彼にいろんな知識があるのも、音楽や歴史に通じた知識を持っているのも、すべて、カノンという、【永遠に失われてしまった初恋の相手】がいたからだ。
私(佐紀音)は、彼の心の中で、涙を流した。
彼は、体育館の真ん中で、突っ立っていた。一人で。
彼は、ポケットの中のプレイヤーとイヤホンをぎゅっと握りしめて、こう思った。
――この音楽を、彼女に届けなければならない、と。
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