第34話 博愛のゴスペルを聞き逃した

 3年生としての夏休みが目前に迫った、とある日の放課後。



 彼は、いつものように高校の図書室にて、文字を舐めるように熟読していた。片手にはペンと、開いたノートを伴って。


 本の題名は『バッハの伝記』。


 もちろん、秀逸かつ、完璧な音楽を完成させるためだった。



 彼は、中学生の頃から音楽が苦手であったが、カノンに音楽を贈るための試練と考えれば、苦ではなかった。むしろ、本を読んだり、音楽を聴いていたりすると、著名な偉人の人生を覗いている気持ちになって、楽しかった。


 彼を含めて、図書室には数人のみが居た。



 そのうちの2人は、カノンと、その友人であった。


 彼は、読書に熱中するあまり、その二人――カノンと霧島の、仲良し女子ペアが近づいてきていることに気がつかなかった。



「よ、ツバキくん。久しぶり」


 カノンは、探していた本を手に取り、友人の霧島とともに、俊也の隣の席に座った。


 彼は、挨拶されて、ようやくそれに気がついたが、「こんにちわ」とか「よっ」という返事の言葉が、咄嗟に声にならなかった。あと、名前で呼ばれたことにひどく動揺して、喉が異常に乾いた。


 昔は、「赤首くん」と、苗字で呼ばれていたのに……名前を、憶えていてくれたのか……?


「こ、こんにちわ。雨沢さん、霧島さん……何してるの?」

「わたしたちのクラスで、古文の課題が出てね、その課題レポートを書くための参考文献になる本を探してたところなの」


 カノンの代わりに、霧島が応えてくれた。



 三年生である現在は、俊也が1組で、カノンと霧島が3組で、別クラスとなっている。


 本を探していたという、霧島の回答を受けた彼は、不器用な笑みをつくって、「そうなんだ……」と、会話の流れを断ち切ってしまった。



 気まずい沈黙に陥ることは、カノンが俊也に椅子を寄せたことで回避された。


「バッハの伝記読んでるんだ。音楽の課題?」


 黒い前髪を指であそぶカノンは、彼と同じ席に腰をおろす勢いで、彼に身を寄せて、テーブルの上に広げられた本とノートを覗き見ている。



――チャンスだ、俊也!!『あなたに曲をプレゼントするために音楽を勉強してます』ってこくっちゃえ!距離をぐっと縮める、絶好の機会だ!


 こんなに積極的な女の子、なかなかいないぞ!



 しかし、私の高まる期待とは裏腹に彼は、たどたどしく応えた。



「課題とかが出されたわけじゃないんだけど……しゅ、趣味だよ」

「そうなの?音楽分野が趣味?それとも、読書が趣味?」

「読書のほう」

「へぇ。私ね、小学校のころピアノやってたから、音楽好きなんだ」

「そ、そうなんだ……俺も、ちょっと興味あるよ」

「いいよね、音楽って」


 歯切れの悪い会話になってしまった。


 さらに、カノンの隣の霧島からも「崇高な趣味をしてるね」と言われた。



 彼の耳は、真っ赤になっていた。


 私と同じだ、恥ずかしいと、耳が赤くなるのは。


「お、俺、塾あるから、そろそろ行かないと」


 そう言って、俊也は、バッハの伝記を元の本棚に戻して、図書室を出てしまった。一度も、カノンと霧島のほうを振り返らずに。



……極度の恥ずかしがり屋め。


 なんだよぉぉ、せっかくのチャンスだったのにぃぃ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る