第32話 最初で最後の恋

 高校生活を淡々と過ごしている彼は、1年生の中盤を迎えた。


――彼は、初めて恋心を抱いたのだった。



 お相手は、同じクラスの女子【雨沢 花音カノン】だった。


 黒髪ショートの子だ。ツバキの花のような赤のヘアピンが特徴的な女の子。おっとりとしていて、話し方が柔らかい印象。いつも黒いマスクを付けているのは、彼との数少ない共通点だ。彼女の友達は、多いわけではなく、2,3人、よく話す人がいるといった具合だ。



 彼の意識に同化した、内なる私は、心をキュンキュンとさせていた。


 だって、配信中の雑談とか、何気ない日常の会話の中でも、彼は、恋愛に一切の興味を示していなかったから、てっきり、恋をしたことがないのかと思っていた。


 なんだ、彼も、人を好きになるんじゃないか。


 彼は、席替えによって、カノンと隣の席になった。



「おはよ」


 教室に入ってきたカノンが、彼に挨拶をした。


 しかし、彼は挨拶を返さず、手元の歴史の教科書に全集中していた。


「赤首くん?」

「え……あ……おはよう」


 彼は、カノンに名前を呼ばれて、ようやく顔を上げた。周囲を見渡して、自分とカノン以外の人間がいないことに気が付いた。



――さっきの挨拶は、俺にしたんだと、気が付いてしまった。


「ごめん。無視したわけじゃなくて、人から挨拶されるのが珍しすぎて、気が付かなかった……」

「そうなの?みんな挨拶してくれないんだ」

「先生以外の人と、挨拶し慣れてなくって」


 誰も、率先して彼に挨拶をしない。なぜなら、彼とは、そこまで親しくないからだ。


 しかし、カノンは、快く挨拶をしてくれた。



 それが、嬉しくて、彼は、笑みがこぼれそうになった。



 彼の論理では、親密度が一定以上あるか、仕事上の関係でなければ、挨拶が為されないとされている。だから、彼女の何気ない挨拶が、彼の論理を打ち破っているのである。大して親しくなくても、挨拶をされる衝撃に、彼はさらされたのだ。


 カノンは「よっこいしょ」と言って、彼の隣の席に座った。


「あれ……今日の英語の小テストの範囲って、どこからどこまでだっけ?」



 連絡用の黒板の文字『13日、英語小テストアリ』のお知らせを見たカノンが、英語の単語帳を開いていた。


 まだ早い時間帯だから、この教室にいるのは、彼と、カノンだけ。



 自分に訊かれているような気がした彼は、英語の単語帳を開いて、それを隣のカノンに示した。


「56ページから、58ページの、ここまでだよ」

「ありがと」


 カノンは、範囲を教えてくれた隣の彼に顔を向けて、目を細めてニコっと微笑みかけた。



 彼は、その微笑みに貫かれていた。


「うん……」と言って視線を落とし、平静を保っているが、背中が汗でびしょびしょに濡れていた。……カノンと居ると、心がざわめくようだ。


 二人並んで、英語の勉強を始めた。


 彼の瞬きの回数が、明らかに多くなっていた。パチパチパチパチ……と、落ち着きが無く、シャーペンを持つ手がときどき、首元を掻いている。



……これは、私を含めた「赤首ツバキ」が恥ずかしいとき、不安なときなどに起こる癖だ。


 また、彼は、こう思っていた。


――こんな中身の無い空っぽな人間に、こんなに丁寧に、心から感謝を示してくれる人間がいるのか……と。



 不愛想で、公に言えるような趣味も特技も無く、特段顔が良いわけでもない、こんな自分に、彼女は、分不相応の感謝を笑みに乗せて届けてくれたと、彼は本気で、喜んでいた。



 彼女のことが気になりはじめたのは、席替えがあった、その日からだったらしい。


  その日の夜が更けてきたころ、彼はベットのなかで、ひたすらに【雨沢カノン】のことを考えてしまって、寝付けないでいた。


 あんなに心優しく、かわいい人と仲良くなれたら……一緒に遊べたら……一緒に勉強ができたら……一緒に寝られたら、きっと楽しくて、幸せに違いない。


 心臓がバクバクする。頬が、首元が、熱い。


 彼は、そんなことや、あんなことを考え妄想して、いよいよ眠気に抗えず、眠りについた。



 いいね、羨ましか~!甘酸っぱい青春の香りがする。頑張れ、私……じゃなくって、俊也!!


 彼とカノンちゃんとの恋が、無事に成就しますように。

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