第13話 文学的妄言すなわち戯言
いつもと同じように目覚めて、いつもと同じ白い天井を見上げる。無機質で、柄もない不愛想な天井である。
目覚まし時計の電子音が、ジリジリと鼓膜を打ち付ける。
「……うるせぇ」
目覚ましの頭の停止ボタンにバシッと、手の平を叩きつけて黙らせた。
この前の【カメリア・佐紀音誕生日配信】の盛り上がりは凄かったなと、過去を思い出して描きながら、男ツバキは、布団から出た。
今日は、大学に行く日だ。
大学に向かうために、玄関から外へと出る。
「は……?」
周囲は、夕方のように薄暗かった。
地面は、絵具を溶いて混ぜたような赤黒い液体が満ちており、赤い太陽が黒い涙を流しながら、沈みかけており、満天の星空が覆いかぶさっていた。
そんな、不気味な景色を見つめていると、今が朝なのか、それとも夜なのか、夕刻なのか、分からなくなってくる。
どう考えても、おかしい。
赤黒い水によって水没してしまった都市が、どこまでも広がっていたのだ。
「こ、これじゃあ大学行けないだろ……」
家の近くの大きな通りを遠目に見ても、車は、一台も走っていない。もちろんのこと、自転車も人も。
赤黒い水は、膝ぐらいの高さまでありそうだった。
リュックから取り出したスマホの電源を入れて、メールを確認するも、休講の連絡は無し。ニュースサイトを開いても、【赤黒い水】や【赤い太陽】の記述は見られない。いつも通り、交通事故や国際情勢に関する見出しが並ぶのみ。
どうしようもなく、為すこと無く、玄関前で右往左往していると、キンと鼓膜を震わす声が飛んできた。
「ツバキくん、乗って行かない?」
唐突に名前を呼ばれたから「えっ」と、単音が口の端から零れた。
赤黒い水の上を悠々と進む小さな木の船に乗って、女性がやってきた。
腰にまで伸びる金髪が美しい女性だ。白い、どこか神々しさを醸す衣装を身に纏っており、病的に細く白い腕は、指先から肩までが露出していた。下は、これまた白いスカートを履いている。
――彼女の顔は、狐のお面で隠されていた。
「東京中央第一大学までなら、3000円で送ってあげるよ」
「あ……では、よろしくお願いします……」
「まいどあり~」
女性は、狐のお面の内側で、籠った声を響かせた。
こんな洪水状態では、ろくに歩けそうにないし、自転車なんて漕げるはずもないので、ツバキは、3000円を女性に手渡した。女性が、三枚の紙幣を手に取った瞬間、それは、三枚の林檎の皮へと変貌してしまった。
木造船は、ツバキと、狐のお面の女性を乗せて、大学の方向へと進み始めた。
女性がオールを漕ぐたびに、船はすいーっと進んだ。
「あの……一体なにが起こったんですかね、この黒い水とか、赤い太陽とか……あと、何で、俺の名前を知ってたんですか……?」
異常な景色に、何ら疑問を持っていなさそうな女性の背中に、訊いてみた。
「ここは、あなたの心の中の世界。黒い水は、あなたの心の淀み。星空は、あなたの理想の景色を映し出しているのだよ」
「夢ってことですか?」
「そう解釈することもできる、かもね」
女性は振り向かない。船首の方向をひたすらに向いて背中で語り、オールをリズムよく漕ぎ続けている。
「ようこそ、【ユートピア】の世界へ」
終始、よく分からないことを言っている女性。いよいよ、高層ビル群が立ち並ぶ都内へと足を踏み入れようとしている。
淡々と、そして、全てを悟ったような雰囲気を醸す女性が、一体何者であるのか、重ねて訊いてみた。
「あなたは、どちら様?」
「救世主だ。それも、あなた専属の」
「?」
やっぱり、何を言っているのかよく分からない。
夢の中の景色と言われれば、納得できないこともない……気がする。女性――改め、金髪の救世主の言っていることも、周囲の景色も摩訶不思議で、理解に難い。
背の高いビルが見えてきた。
あれは、東京中央市の、市長庁舎である。
大学までは、あと20分といったところか。
「唐突に訊くけれど、ツバキくん、君は、生きることに疲弊してない?」
「な、なんでそんなこと、急に聞くんですか?」
狐のお面の救世主は、くるっと振り向いて、少女然とした感じに、首を傾げた。
「だって、君はいつも、疲れた顔をしている。大学へ行っても、虚ろな目をして、一言も喋らないし、勉強を頑張っているときだって、目に光が無いだろう」
「お、俺のこと、なんでも知っているんですね」
「そりゃ、あなたのための【救世主】だからな」
救世主は、一段と力強く、オールで赤黒い水をかいた。
たぶん、神様的な存在である救世主様は、俺のプライバシーなんて知ったこっちゃないんだろうなと、ツバキは、彼女の艶のある美しい金髪を見て、思った。
――太陽は、まるで、
「せっかくの機会だし、わたしに話してみないか?君の心の【
狐の面をこちらに向けて、船首に腰を預けた救世主。
ツバキは、言葉に迷いながらも、内なる悩みを告白した。
「……毎日が不安なんです。いくら勉強しても、資格の試験を突破できるかとか、いい成績が取れるかとか、就職の面接に受かるかとか……分からないので、不安になってしまうんです」
救世主は、狐のお面の下部から露出した下あごを撫でながら、「現代の病理だね」と言って、耳を傾けていた。
「明日があるっていう保証、誰もしてくれないんです。今日の今にでも、大災害が起こるかもしれないし、病気になって動けなくなるかもしれないし、事故に遭って死ぬかもしれないし、戦争が始まるかもしれないし……そういう不安駆られながらも、頑張って生きてますけど、それでも、まだまだ出来ることがあって、不安を消し去るぐらいの努力が足りないような気がして、結局、不安が尽きないんです」
狐のお面のまま、救世主は、首をゆっくりと、縦に振った。
そして、籠った低い声で、尋ねてきた。
「まだ、自分に足りないものがあると思うか?」
ツバキは、水面を揺らすぐらいに「はい」と、声を響かせた。
「上を求め始めたら、キリが無いということは、賢いあなたなら知っているでしょう?」
「……はい」
「もっと身近なこと……たとえば、過去の自分の
「え、それは、どういう……」
過去の自分の屍とか、もう一人の自分とか、意味深な言葉選びをした救世主に、詳しい説明を求めようとした。
しかし、その疑問は、遠くからやってきた「狂気」の行進曲によってかき消されてしまった。
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