第7話 牢獄宇宙船『地球号』はこちらから

 自転車を漕いでいたツバキは、帰路の近くにある商店街に立ち寄った。その商店街の入口には、時代錯誤も甚だしい『欲しがりません勝つまでは』の立て看板が。



 この看板の文言はもともと、1930年代後半から40年代初期の、国民の国家協力をあおる標語なのだが、現在、海人かいじんとの戦闘が激化していることを口実に、贅沢が制限され始めている。


 置いた張本人は、日本豊穣党。



 豊穣党とは、「世界政党」である。ドイツ豊穣党もあれば、アメリカ豊穣党もある。


 しばらく自転車を手で押してたどり着いたケーキ屋さんで、ショートケーキを購入した。一切れは、自分のために。



――もう一切れは、あちらの世界の自分へ贈るために。


 総額、8000円。約3か月分のお小遣いが飛んだ。



「け、けっこう値が張りますね……」


 値札を見たツバキは、苦い顔をした。


「しょうがないよね。世間で『果物戦線』なんてのが出てきたから、世界のリンゴとか、イチゴとかの果物が買い占められちゃってねぇ……ウチも困ってるんだよ」

「そうなんですね……大変そうですね。お疲れ様です」

「ああ。買ってくれてありがとうな。味の良さは、保証するよ」

「ははは、おいしくいただきます」



 そんな感じに、店主の人と会話を交えたツバキは、購入したショートケーキが入った箱を、背負っているリュックに入れて、再びペダルを漕ぎ出し、商店街を後にした。


――なんだ、果物戦線って。幼稚園生が読む絵本に出てきそうな名前の響きだ。



****



 ショートケーキの箱を片手に、ツバキは、家の玄関前に立った。ポケットから鍵を取り出して、玄関の戸をガチャンと開錠する。


「ただいまー」とは言うけれど、ロボットの父母は、仕事で不在。



 玄関の戸が閉まる音と、靴を脱いだ音が虚しく、静寂が満ちた家のリビングへと響き渡った。


 大学の講義と買い物とを終えて、それから、ポスターが動くという怪異に遭遇して、疲れてしまった。体が、鉛のように重く感じられた。



 とりあえず、ケーキの箱を冷蔵庫前の床に置いて、ソファーに座って、テレビをつける。


「午前中はどんよりとした雲が広がり、夕方には、鉄格子が空を覆うでしょう」


 テレビの画面に閉じ込められたお天気キャスターが、またおかしなことを言っている。……天気が鉄格子とは、いったいどういうことなのか。



 お天気キャスターは、何ら説明を施すことなく、お天気情報を続けた。


「今後一週間の天気です。週の中頃までは、よく晴れるでしょう。しかし週末土日は、天気が下り坂……林檎の皮が降り注ぎ――」


 ツバキは、テレビのリモコンのスイッチを切った。


 こんな世界の、こんなにおかしな天気情報など、信用ならない。



 窓の外を見てみると、お天気キャスターの言った通り、巨大な鉄格子が空を覆っていた。それは、大空にあって、山の直径ぐらいはありそうな巨大な黒い格子だった。雲のように流れて、西の空の茜色を侵食しつつある。


「……この世界、滅びるのかな」



 あ、そういえば、ケーキを買ってきたんだ、と思い出した。


 ケーキが入った箱は、冷蔵庫の前の床に置かれて、放置されていた。それを冷蔵庫に入れようと、腰を曲げたとき、「もう一人の俺にあげないと」と、また思い出して、箱を抱え、洗面台前の鏡へと向かった。


「ツバキさーん、聞こえる?」



 男ツバキは、鏡の前に立って、もう一人の自分へと声を飛ばした。しかし、これといった反応を得られなかった。


――昨日の喧嘩の件、まだ根に持ってるかな……


 男ツバキは、ゆっくりと鏡に腕を近づけた。


……よかった。相変わらず摩訶不思議だが、鏡の向こうの世界に行くことができる。ある日突然、鏡が元通りになって、もう一人の自分に会いに行けなくなったらどうしようと、胸がざわざわとしていたところだ。



「お邪魔しまーす」


 全身が鏡を通り抜けて、洗面台の淵に足をかけた男ツバキ。滑って転んで、ケーキの箱を潰してしまわないよう、慎重に、床へと降りた。


 相変わらず、見慣れた洗面所の景色が広がっている。



 唯一違っていたのは、洗濯物を入れるためのバケツに、衣服が入っていたことだ。赤首家では、この黄緑色のバケツで、衣服をつけ置き洗いをする決まりになっている。



 バケツの水に浸かっているのは、黒い肌着、黒いパンツ、洗濯カバーに入った黒のブラジャー……


「これ、俺の……じゃなくて、ツバキさんのか」


 見てはいけないものを見た気がして、ぷいと、そっぽを向いて、洗面所を出た。



 こちらの世界の赤首家も、静寂に満ちていた。女の子のほうのツバキは、二階の自室に引きこもって、配信やらゲームやらをやっているに違いない。


 階段をゆっくりと昇って、二階へ。


 自室の戸をコンコンと叩いて、戸を開けた。


「失礼しまーす、俺だよー」

「あ、ま、待っっっって!!」

「え」



 女ツバキの、悲鳴に似た声を聞いたときには、すでに手遅れ。戸を全開に開け放っていた。

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