第3話 お掃除大作戦を敢行する!

 女ツバキの手を借りながら、男ツバキは立ち上がった。


「あ、ありがとう。なんか、自分に感謝するってのも不思議な感覚だけど」

「たぶん、あなたは性別が違うウチなんだろうけど、どうも、同じ『赤首ツバキ」には思えないんだよねぇ」



 頬を両手で摘ままれ、左右に引っ張られる男ツバキ。痛みがあり、引っ張られた頬がカッと熱を帯びた。「痛い痛い」と訴えると、女ツバキは黒色の瞳を細めながら、頬から手を離してくれた。


 初対面の人に、こんな乱暴なことをする人が、性別の違う自分(赤首ツバキ)だとは思えないし、認めたくないと、男ツバキは、首元を掻いた。


「これ、戻れるのか……?」



 そういえば、鏡を行き来することは可能なのかという疑問を持っていたことを思い出して、男ツバキは、元居た鏡の向こう側にある、歯磨き粉チューブへと手を伸ばした。


 ゆっくりと鏡の表面に手を近づける。


 腕は、スッと鏡を通り抜けて、歯磨き粉チューブをつかみ取った。


「よかった、戻れる……」



 不思議な状況と女ツバキの態度に疲れて、どっと腰を落とした男ツバキ。そんな、床に座り込んだ彼を尻目に、女ツバキは、歯磨きと洗顔を始めた。



 ぐるっと、洗面所兼脱衣所を一瞥してみる。


 換気扇の位置、鏡の位置、使っている歯ブラシの形と色、床下収納があること、洗濯機の形状、フローリング床の質感に、バスタオルの掛かり方……ありとあらゆる要素が、自分の家のそれと合致していた。


「ほ、本当に何もかも俺の家だ……」

「せっかくだから、ルームツアーしてあげるよ。洗顔終わったらね」



 そう言いながら女ツバキは、顔に冷水をかけて「んん~」と鳴き、保湿クリームと化粧水を顔にペシペシと付け始めた。


 洗面台から顔を上げた彼女の横顔が朝の日の光に照らされて、輪郭が白色に輝いていた。



 女ツバキの案内に従って、ルームツアーが行われた。


 トイレの位置も、窓の位置も、カーテンの色・形も、食器からテレビの購入した年まで、すべてが一致していることを、互いに確認した。



「あ、おはようございます!!」


 ルームツアーの途中、休日を謳歌する母、輝夜かぐやに、二階の廊下でばったりと会ってしまった。



――こっちの世界のお母さんは、機械じゃなくて、ちゃんとした人間の姿形をしているんだな。


 しかし、男ツバキの声は、こちらの世界の住人である母に聞こえていないし、姿も見えていないようで、素通りされた。



「え、マジ?あんたのこと、ウチ以外は見えないってこと……?」

「そうなんだろうな。俺が挨拶したけど、見向きもしてくれなかった」


 互いに顔を見合わせた、二人のツバキ。


 ルームツアーで残す場所は、女ツバキの部屋のみとなった。



「ここが、ウチの部屋ね。ここで毎日、配信も、食べるも、寝るもしてる」

「入っていいの?」

「まあ、だって、言い換えれば『自分の部屋』じゃん」

「いや、でも一応、女の子の部屋じゃん」

「気にしないでって。やましいものは無いから」


 女ツバキは、繰り返し、互いが同じ人間「赤首ツバキ」であることを強調した。男ツバキのほうは、まったくそんな気がしていなかったのだが。



 ドアノブに手を掛けたところで「だいぶ散らかってるけど許してね」と言われた。


 そのように警告がなされた時には、すでに、戸を開けてしまっていた。



「えぇ……」

「いやぁ……ウチ、片付けるの苦手でさぁ……ごめんね」


 絶句。


 男ツバキは、口をポカンと開けたまま、入口で棒立ちになってしまった。



「だいぶ散らかっている」という女ツバキの認識と、男ツバキにとっての認識との差異が、あまりにも甚だしいことを思い知らされた。


 食べ終えたカップ麺の容器が、ティッシュと共にビニール袋に入れられ床に放置されている。ライブ配信をしていると思しきデスクには、飲みかけのエナジードリンクの缶や炭酸飲料のペットボトルが、東京のビル群のごとく立ち並び、埃が雪のように、キーボードの隙間やマウスパッドに積もっていた。


 段ボールが粗雑にも積み上げられて放置されており、本やら雑誌やらも、埃を身にまとって白い化粧をしており、床に積み上げられている始末。


……それらが放つ異臭は、鼻が曲がりそうなぐらいの悪臭だった。



「あ、これは……去年のコミケ行って買ってきた同人誌。ウチのお気に入りだよ」

「ん?」


 女ツバキは、雑誌類の山のてっぺんに置かれていた薄い本を手に持った。



 表紙には、デカデカと『甘々OLお姉さんと混浴』と書かれている。――嗚呼、趣味は、俺と同じ方向性らしい。いいよな、年上モノは。



「そんなことはともかく……部屋を片付けよう。汚すぎるから」

「んー……そう思うことは多々あれど、結局先延ばしにしちゃって手がつかないんだよねぇ」

「その気持ち、わからなくはないけど、さすがに、ここまでになる前にやろうよ……」


 恐る恐る段ボールに触れてみる。隙間からゴキブリやらゲジゲジやらが湧いて出てきてもおかしくはない、まさに「ゴミ屋敷」の有様だった。



 さらに、何かが入っている重さの段ボールの中から出てきたのは、これまた同人誌。『疲れ切った俺は彼女に溺れる』『勇者様は甘えん坊』『先輩が大好きな新人クン』――どんだけ先輩甘やかしモノが好きなんだよ……


「趣味は悪くないな」


 男ツバキは、右手をグットマークの形にした。公言は憚られるが、男ツバキも、年上モノの同人誌が好きだった。


「でしょ。ライブ配信の活動の稼ぎで、つい買っちゃうんだよね~」


 女ツバキのほうも、自慢げにグットマークを返してくれた。



「俺も手伝ってやるから、早く始めよう、片付け」

「えーだるい」

「俺も手伝うって言ってるでしょ!やろうよ!」


 畳まれた段ボールの上に寝転んだ女ツバキを強引に起こして、部屋の片づけに着手した。



 まずは、空の段ボールの処理から。しっかり畳んで、紐で縛って、ごみ回収の業者が来る水曜日(資源ごみの日)までは、庭先に置いておく。よく見てみると、段ボールの大半は、ネット通販の購入品のものであった。ヘッドホンやキーボードを買ったときの段ボールだろうか。


 階段を駆け下りて、段ボール束を庭に置いて、また玄関から戻って階段を駆け上がる。


「ねぇ~縛れない~」

「噓でしょ……紐縛れないのかよ……まあ、俺も靴紐結べないけど」

「えへへへ、お揃いだねぇ」

「部屋をゴミ屋敷にするお前と一緒にするな。俺の部屋は綺麗だよっ!」


 どっちにしろ、情けないことには変わりないのだが、とりあえず、段ボールは、業者が回収するときにほどけないように固く縛っておけば大丈夫、たぶん。


 段ボールの片づけが終わったら、次はデスク周りと本棚、それから床の清掃へと順に進める。埃が落ちるため、掃除は、高いところから行うのが鉄則だ。



 男ツバキが掃除機をかけていると、部屋の扉が開いた。


「ツバキ、急に掃除なんかし始めて、どうしたの?」



 扉を開けたのは、母であった。


 慌てて薄い本を背中側に隠した女ツバキが、部屋の入口のほうへ、くるっと振り向いた。


「あ、いやぁ、その……さすがに散らかり過ぎてるかなーって思ったから」

「ふーん。偉いわね。お母さん、ちょっと用事があるから、職場行ってきまーす」

「い、いってらっしゃい!」


 母輝夜かぐやは、扉をガチャンと閉めて、職場へと向かう。母が部屋を出てしばらくすると、玄関の鈴の音と、車のエンジン音が聞こえてきた。


 やはり、この世界の母には、男ツバキの姿が見えていないらしく、言及が一切なかった。



 で、片付けと掃除の再開。


「うわっ!?キモッ!」


 男ツバキが咆哮を叫んだ。なぜなら、水気を含んだ紙袋の中に、ゴキブリの死骸を見つけてしまったからである。


「お前が俺と同じ人間なら……虫、嫌いだよな」

「うん。ウチも、虫は大嫌い。特にゴキちゃんと蜘蛛は、生理的に受け付けない。人を不快にさせるだけの、存在価値の無いゴミ」


 そこまで言うならば、なぜ、掃除と片付けをしないのか。段ボールなんかは、ゴキブリ発生の温床である。



 深いため息をついて、なぜ片付けと掃除をこまめに行わないのか訊いてみた。


「でもさ~お片付けって、ぶっちゃけダルいじゃん」

「はいはい、その言い訳は聞き飽きた。手、動かせ~」

「ねぇ~最後まで聞いてよぉぉ!!」

「やだ」


 男ツバキが背中を向けて、紙袋にビニール袋を被せたところに、女ツバキが飛び込んでくる。しかし、紙袋の中の「ソイツ」を見つけて「ひっ」と小さく鳴いた。


「掃除しないと、こういうヤツが湧くんだぞ」

「ひいいいい!捨てて、捨てて!!」

「他力本願女め」

「ごめんってぇぇ!お願い~」

「はいはい」



 妙にリズム感のあるやり取りを交わして、男ツバキは紙袋を玄関先へと持っていった。


 会話のリズムや、ノリが合うのは、やはり、「赤首ツバキ」同士だからということか。性別と住んでいる世界は違えど、精神やくせの方向性が似通っている。



 そんな、考えても答えの出ない思考をグルグルと繰り返して、思考の海に溺れた。



 女ツバキの「汚部屋」が、徐々に片付いて、美しさを取り戻し始めた。

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