第2話 世界移動
鏡が、形が似ている別世界を映し出して、女の【赤首ツバキ】が現れた日の翌日……日曜日のことである。
いつもの日常の風景を動画で再生するように、目覚めて同じ天井を見上げて、同じ歩数と俯いた顔で、洗面台の前へと歩いた男ツバキ。今日は休日だから、大学も休校で、ゆっくりと過ごすことができる。
昨日と同じように、鏡を見た。昨日見た、「赤首ツバキ」を名乗った女は幻覚だったのだと、鏡に言ってほしかった。――あんなにおしゃべりで、笑顔が可愛らしい人が【赤首ツバキ】であるはずがないのだから。
いざ、鏡の前に立ってみると、やはり、【女ツバキ】がいたのだった。ちょうど、朝食を食べ終わったらしく、口元をもぐもぐ動かしていた。
「お前……やっぱり居るのかよ……」
「あ、おはよう、ツバキくん」
「おはよう、ツバキぃ……ややこしいな」
同姓同名のツバキが邂逅を果たしたが、やはりややこしい。異なる点といえば、見た目の性別だけだった。
「お互いの呼び名、決めよう。俺はお前のこと、何て呼んだらいい?」
互いに「ツバキ」と呼び合う違和感が拭いきれない。
ツバキちゃん……?いいや、それは馴れ馴れしいが過ぎる。いくら自分だからといって、昨日会ったばかりなのだ。だとしたら、ツバキさん……?これがいいだろう。
「ウチのことは、【ツバキちゃん】って呼んでくれていいよ」
「いやだ。いくら違う世界の『赤首ツバキ』だとしても、そんな馴れ馴れしい呼び方をするのは、嫌だ」
「そんな悲しいこと言わないでよ~恥ずかしがり屋さん。ウチらは、家族よりも、恋人よりも関係の深い、真に同じ人間同士なんだからさ~」
目を細めて、頬を上げた笑みを浮かべた、鏡の中の女ツバキ。
やはり、性別と性格が異なる自分が鏡の中に居るという違和感は、拭いきれない。この人が、同じ「赤首ツバキ」だと、男ツバキは、思えなかった。――自分は、こんなに赤の他人と馴れ馴れしく接することはしないし、できないからだ。
それに、こんなに顔立ちが整ってはいない。
鏡の中の女ツバキは、悔しいが顔立ちが可愛らしく、髪型も整っていた。寝ぐせを放置して、おしゃれとかに気を遣わない自分とは対照的な存在だった。
「で、今日は学校に行かないの?もう8時30分だよ?」
「今日は土曜日だよ」
今日は、世間一般でいう休日。だから、大学に行く必要はない。バイトも、一か月前に辞めたので、家に引き篭もることができる。
「あ、そっか。ウチ、引きこもりだから、曜日感覚が狂ってて分かんなかった」
「お前は、学校行ってないのか」
歯ブラシに歯磨き粉を付けながら、鏡の向こうでヘアアイロンを取り出した女ツバキに訊いてみた。
「今は、休学中。もう半年は、大学行ってないねぇ」
「半年前って、6月じゃねぇかよ……」
男ツバキにとって、勉強は、社会人になるための必須条件。それを、女ツバキは、まさか欠いているのではないかと、不安になった。いくら世界線が異なる自分だからといって、その人生の悲惨な末路を目にするなど御免だ。
「お前、人生舐めてるだろ」
「舐めてないよ!ウチは、学校に行ってない代わりに、Vライバーとして大成功してるんだから」
怒りと困惑と驚きとが混ざり合った「はぁ!?」という声が、男ツバキの喉元から放たれた。
Vライバーとは、アバターを使ってインターネット上で活動する配信者のこと指すす。簡単に言うなら、家でできるアイドル活動である。
男ツバキは、インターネットに少々詳しいから、Vライバーの存在や活動の内容は知っていた。ゲームをしたり、音楽活動を通してファンを獲得している著名なライバーを何名か挙げられるぐらいには、知っている。
某にじとか、某ホロとか……こっちの世界でも有名だ。
――まさか、目の前の「自分」が、そんな輝かしい活動をしているなんて、信じられなかった。
「ほ、ほんとに?」
「嘘つかないよ」
「ほ、ほんとの本当に?」
「しつこい、ウザイ」
「すみません……」
口を尖らせて、棘のような言葉を投げつけてきた女ツバキに、男ツバキは、頭をぺこっと下げ目線を横に逸らした。そこには、歯磨き粉が入ったチューブが置いてある。
鏡の向こう側にも、同じメーカーの、同じデザインの歯磨き粉チューブがあった。
「昔から疑い癖が強くって、何でもかんでも疑ってかかっちゃうんだよ」
「ウチは逆かも。何でもかんでも、信じて受け入れちゃうタイプ」
ヘアアイロンを洗面台の上に置いた女ツバキ。指を髪と髪との間に通して、艶のある質感を確かめている。
「ウチの短所でもあり長所でもあるんだけど、人を目の前にすると、ベラベラ喋っちゃうんだよね~初対面から胸襟開きっぱなし、心ウェルカムって感じで」
「はあ、そのフレンドリーな性格は羨ましいな。俺には無い能力だ」
「えへへ」
人が疑わしく思えてしまうと、話しかけることすら億劫になってしまう。過去の経験が、男ツバキに、そういう毒性の性格を植え付けたのであった。
「おはよう」と、挨拶されただけでも、「この人は、俺に何を求めて挨拶なんかしてきたんだろう。友達でもないし、普段一言も会話を交えないのに」と疑ってかかってしまった。
常日頃から、そんなことを考えて黙りこくって、自分の世界に閉じこもっているから、友達は、できたことがなかった。友達を作ろうという気すら起きなかった。
「まあまあ、細かいことは気にせず、こっち来てみる?ライブ配信のための機材とか、いろいろ見せてあげるよ」
「え、鏡って、くぐれるのか?」
「指でつついてごらん、あら不思議」
女ツバキに言われるがまま、恐る恐る、鏡の表面を人差し指の先端でつついてみた。――不思議な力で引っ張られて、二度と元の世界に戻れなくなることも覚悟していた。
指は、鏡の表面の感触を伝えることなく、向こう側の世界――つまり、女ツバキが居る世界のほうへと通り抜けた。
「ほら、通り抜けた」と女ツバキは、鏡を通り抜けてきた男ツバキの指先をぎゅっと握りしめた。
「うわっ!?やっぱり化け物だ!」
「化け物って失礼な!ウチは立派な人間です~!」
握る手に力を込めた女ツバキに、指をへし折られそうになった。慌てて手を引いたが、存外に力が強く、そのまま鏡の表面へと引っ張られた。
このままでは、鏡の向こうの世界へと、体すべてが飲み込まれてしまう。
抵抗しようとして腕を引いたが、指がぎゅーっと引っ張られて痛むだけであった。
「ほら、早く来てよ!」
「いやいや、戻れなくなるかもしれないじゃん!!」
「その時は、そのときだよ!鏡の向こうのもう一人の自分と世界に会いに行けるなんて不思議な体験、普通の人は、長い人生の間で経験できないよ!」
今度は腕をがっしりと掴まれてしまって、為す術なく、女ツバキに引っ張られて鏡に体が近づいた。
大学に行かず、家に引きこもっていながら、この腕力はどこで身につけたのだろうか。
「分かった!そっち行くから、手を放せよ!」
「んへへ、嫌だ!こうでもしないと、あんたは来ないって、ウチが一番よく分かってる!だって、ウチはあんたで、あんたはウチなんだから!」
耳にキンと突き刺さる声が唱える、意味の分からない論理を聞かされながら、男ツバキは、洗面台に足を掛けた。そのまま、体を鏡に押し付けた。
物質的な感触は皆無で、体のすべてが、鏡を通り抜けた。ゲームでは、こういう場面で鏡の表面が揺れたり、水の感触があったりしそうなものだが、そういった感覚が全く無かった。
「うわっ」と言いながら、女ツバキ側の洗面台から転げ落ちた。
「ようこそ、こちら側の世界へ」
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