第37話分かっていらっしゃるのかしら?
王太子のダンスが終わった。
シャンデリアの光がホール全体を照らし、貴族たちはその下で優雅な足取りを見せながら次々とホールの中央へと向かう。
シャルロットもフリード様にエスコートされ、微笑みを浮かべながら歩を進めてた。
彼女の気品あふれる佇まいに、視線を向けた人々は皆、その美しさに息を呑む。まるで絵画から抜け出したかのように、完璧で非の打ちどころがなかった。
ふふ、シャルロットは、ロザリア王女にも負けてはいないわ。
私はその光景を目にしながら、隣のヴィンセント様をちらりと見上げる。目が合った彼は落ち着いた笑みを浮かべ、優雅に手を差し出した。
「さあ、エルミーヌ。練習の成果を見せよう」
ヴィンセント様の瞳は穏やかでありながら、その奥には私を導いてくれる強い意志が感じられる。彼の手を取ると、その温もりが不安な心を少しだけ和らげてくれるようだった。
「ふふ、ロザリア王女があんなに素敵に踊られたのですもの。主役の座を奪うのは難しそうですわね」
軽く笑いながら応える私に、ヴィンセント様は柔らかい笑みを浮かべて言った。
「はは。だが、負けているとは思わないぞ。とにかく楽しんで踊ろう」
彼の言葉に励まされ、私はホール中央へ向かう準備を整えた。しかし、期待に胸を弾ませたその瞬間、突如として場の空気が変わる声が耳に飛び込んできた。
「エルミーヌ! ダンスを踊っている場合ではないぞ、こっちに来い!」
その声の主はお父様だった。
険しい表情を浮かべてこちらを見つめ、その隣には一見して気難しそうな男性――おそらくクルーズ伯爵であろう人物が控えていた。
ダンスへの期待は砕かれ、心臓が沈み込むような感覚に襲われた。
ヴィンセント様に視線で謝罪を伝え、お父様の元へ向かう。
私の背中に、すでに踊り始めていたシャルロットが心配そうな視線を送っていた。楽しい時間を壊してしまうのが、申し訳なくてたまらない。
「パートナーを伴うつもりなら、連絡をすればよかったものを! 手伝いがあると聞いていたから、一人で来ると思ったのに、モンフォール公爵令息と一緒とは」
お父様の言葉はどこか苛立ちを含んでいた。
その態度に肩を竦めかけた私を守るように、ヴィンセント様が一歩前に出た。
「侯爵は、私ではご不満でしょうか?」
彼の静かな声には微かな冷たさが宿り、その場の空気を凛と引き締めた。周囲の温度が下がったかのように錯覚する。
お父様は言葉を詰まらせ、隣の伯爵へと視線を投げる。
「そ、そういうわけではないが……。あっ! モンフォール公爵令息ご紹介しよう。こちらはエルミーヌの次の婚約者、クルーズ伯爵だ。エルミーヌ、挨拶しなさい」
婚約者? 候補ではなくて? 突然の言葉に、驚きと戸惑いが胸を支配する。しかも、お父様、あの王命…え? まさか、知らない?
お父様が睨むので、伯爵に向かい、作り笑顔を浮かべて会釈だけする。
「婚約者ですか?」
ヴィンセント様が再び口を開く。彼の声音には先ほどとは異なる冷たいものが宿り、その余波が周囲に広がるようだった。
クルーズ伯爵は、私をじろじろと品定めするように見た後、鼻を鳴らして言った。
「ええ、私の婚約者となるのです。さあ、エルミーヌ嬢、私の傍に。国王陛下にご挨拶し、婚約の許可をもらいましょう」
――えぇ……嫌なのですが。しかも夜会の席で婚約の許可を得るなんて、聞いたこともありませんわ。何て非常識な。
「はは、伯爵。ご冗談を。今日のパートナーは私です。せめて、陛下の前に行くまでは私にエスコートさせてください」
ヴィンセント様が軽やかに笑いながら言うと、伯爵の顔がみるみる不機嫌そうに歪む。
その露骨な表情を見て、思わず笑いそうになる。感情を隠せないなんて、さすがお父様のお友達ね。
「まあまあ、伯爵。わずかな時間だ。そのくらい、大目に見てくれ?」
お父様が伯爵を宥め、場を収めようとする。伯爵は眉間に皺を寄せながらも渋々頷いた。
「では、皆で陛下の御前へ参りましょう」
ヴィンセント様が穏やかに提案し、お父様たちを促す。その瞬間、彼が私にだけ聞こえるよう、小声でささやいた。
『何も心配しなくていいよ』
その優しい言葉に、不安でいっぱいだった胸が少しだけ軽くなる。ヴィンセント様の頼もしさに感謝しながら、私は静かに彼の隣を歩み出した。
視線を感じて顔を向けると、シャルロットが遠くからこちらを見守っていた。ずっと見ていたのかしら。
その表情には心配がにじんでいて、彼女が私を気にかけてくれていることが伝わる。いつも、シャルロットには心配をかけてばかりだわ。
歩みを進めていく中でも、クルーズ伯爵の横柄な態度は変わらず、彼が何か言葉を紡ぐたびに場の空気がぎこちなくなる。その度、隣で歩くヴィンセント様は、そのすべてを受け流すように微笑を浮かべている。
クルーズ伯爵…この中で一番身分が低いこと分かっていらっしゃるのかしら?
国王陛下の前に立った瞬間、ヴィンセント様の表情が一変した。
それまでの穏やかさは消え、貴族としての厳格な威厳をまとった彼の姿に、頼もしさを感じた。
『さあ、どうなるか楽しみだ』
彼が私だけに聞こえるように低くささやく声は、どこか愉快そうにも感じられた。
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