第36話 誓約の瓶③
「璃月!!」
水城未来がその言葉に反応して声を上げたが、他のメンバーは下を向き、何も言えないままだった。その場の空気が急速に凍りつき、全員の視線が星霞に集中した。
鷹沢隆一はその言葉を聞き、満足げに目を細めた。
「そうか……時雨暁だな」
京介は苛立ちを隠し切れず、小さく舌打ちをした。その音が、部屋にわずかに残る緊張感を引き裂くように響いた。
鷹沢隆一はゆっくりと立ち上がり、冷たく言った。「すぐにそいつをここに連れて来い。瓶を取り戻す。それが済むまで、この件は終わらんぞ」
星霞たちはその場で無力さを噛み締めていた。自分たちの努力が踏みにじられた感覚が、星霞たちの胸に深い傷を刻んでいった。
鷹沢隆一の背後では京介が満足げに鼻を鳴らし、にやりと笑う。
「やっぱり最後は諦めるしかなかったな、星霞」鷹沢京介はテーブルにもたれかかりながら、余裕たっぷりに言葉を続けた。「無駄に抵抗するより、最初からこうしていれば良かったんじゃないのか?はははは」
その表情はまさに勝者のそれだった。自分の主張が通ったことで、自信と優越感が全身から滲み出ている。
「父さん。あとは簡単だね」鷹沢京介は鷹沢隆一に視線を向け、にやついた笑みを浮かべる。「時雨暁から誓約の瓶を取り返して終わりさ」
鷹沢隆一は真剣な表情を崩さず、無言でうなずき、冷徹な眼差しを閂副校長に向けた。「時雨暁の居場所を特定し、すぐに行動に移させてもらおう。時雨暁をここに呼びたまえ」
副校長は曖昧に頷き、浅子原教頭を見た。浅子原教頭は急いで、校長室から出て行った。その後ろで、鷹沢京香が優雅に椅子に座り直しながら、星霞を冷ややかに見つめた。
「無駄な抵抗を最初からやめておけばいいのに。まぁ、これで解決するのだから、星霞さん、貴方だけ残って、他の皆さんはもう少し帰っていいわよ。誓約の取り消しは星霞さんが必要ですからね。フフフ」
星霞たちは鷹沢京介の勝ち誇った表情を目の当たりにしながら、屈辱感と無念さで胸が押しつぶされそうだった。神楽沙羅、篠原結衣、神代雪乃、水城未来は、お互いの顔を見て言った。「わ、私たちは帰りません・・・」
「まぁ、勝手にすればいいわ。けども、授業は大切にしなきゃだめよ、お嬢さん方」
閂副校長は鷹沢夫妻の鋭い視線を受けながら、重い口を開いた。
「時雨君は……現在、ポーターの仕事をしています。基本的に週に2、3日しか学校には来ません。それ以外の日は、神々の塔で活動していますので、彼に連絡を取るのは少々時間がかかるかもしれません……」
その言葉に鷹沢隆一は深くため息をつき、冷ややかな視線を閂副校長に投げた。
「時間がかかる?それはつまり、学校は今回の問題を軽く捉えていると言っているのかね?」
「い、いえ、そういう意味では……!」閂副校長は慌てて否定するが、鷹沢隆一は椅子に背を預けながら静かに言葉を続ける。
「だったら、早く彼を神々の塔から引きずり出してでも連れてきなさい。それが、この問題を解決するための“学校の誠意”というものだと私は考えているがね」
その発言に、鷹沢京香が薄い笑みを浮かべ、閂副校長に視線を向けた。
「私たちは息子が教育を受けられる環境を整えるために、この学校に大きく支援をしています。なのに、その環境を害するようなものが放置されているなんて、非常に残念ですわ。副校長先生、きっと適切な対応を取ってくださるのよね?」
閂副校長は額に汗を浮かべながら曖昧に頷くしかなかった。
「……もちろんです」
「なら、どうしてあなたはまだここにいるのかしら?」
「は、はい!!至急、暁君に連絡を取ります!!」
そう叫び、閂副校長も同様に校長室から出て行った。
「ふん・・・」鷹沢京香は満足げに微笑むが、その目には冷たい威圧が込められていた。
星霞たちは、閂副校長があっさりと鷹沢家の圧力に屈する様子を見て、悔しさで拳を握りしめた。星霞は思わず鷹沢隆一に詰め寄りそうになったが、神楽沙羅に肩を掴まれて踏みとどまる。
鷹沢京介は星霞たちの様子を見て、嘲笑を浮かべながらつぶやく。
「所詮、抵抗しても無駄だってことさ。あいつが帰ってきたら、誓約は取り消しだ。なんて言ったって不正行為があったんだからな」
星霞たちは反論の余地を失い、その場でただ硬直していた。
誰も何も発言をする者はいなかった。
誰も指一つ動かす者もいなかった。
遠くでは街の人々が路上で売買している、活気のある声が聞こえてきた。
重苦しい雰囲気が校長室を支配していたが、誰もその雰囲気を壊そうと者はいなかった。
◇◇◇◇
20分間ほど経ち、遠くからバタバタと走る足音が聞こえてきた。
その沈黙を破るように、校長室のドアが勢いよく開いた。
「呼ばれたので来ましたけど……何かあったんですか?」
現れたのは時雨暁だった。彼は一瞬、部屋を満たす異様な緊張感に面食らったが、すぐに平常心を取り戻して柔らかな表情を浮かべた。
星霞たちは泣きたい表情で暁を見た。「暁君・・・!」
鷹沢隆一は椅子に深くもたれ、暁を鋭く睨みつける。その視線には威圧感が込められていた。
「君か。誓約の瓶を持っているという生徒というのは」
鷹沢京介は、父親の言葉に同調するように口角を上げ、勝ち誇ったように言い放つ。
「おい、さっさと渡せよ。お前が持ってるんだろ?」
鷹沢京香は冷たく微笑みながらも、その言葉にはぞっとするほどの圧力が滲んでいた。
「あなたには状況がよくわかっていないでしょうから教えてあげるわ。今すぐその瓶を渡しなさい。それが最善の選択よ」
しかし、暁は鷹沢家の威圧的な態度にもまるで動じず、冷静なまま口を開いた。
「誓約の瓶のことですよね? ええ、確かに僕が預かっていますけど……どうして渡さないといけないんです?」
その言葉にはわずかに挑発的な響きがあり、飄々とした表情がさらに鷹沢家の苛立ちを煽る。部屋の空気は一層緊張感を帯びていった。
星霞たちは青ざめた表情でこの推移を見守っていた。
暁はわざとらしく首を傾げる仕草を加えながら、話を続けた。
「そもそも、あなた方がそれほど誓約の瓶を欲しがる理由って何ですか?僕、ちょっと気になりますね」
鷹沢隆一の顔が一層険しくなり、低い声が室内に響く。
「誓約の内容を知らないとは言わせないぞ。君たちがその瓶を悪用して京介を縛ったんじゃないのか?」
暁は肩を軽くすくめて、無邪気な声で言った。
「もちろん内容は知ってますよ。でも、そもそもその誓約って、京介さん自身が承諾したものですよね?」
鷹沢京介は顔を真っ赤にして机を叩いた。
「ふざけるな!お前らに騙されただけだ!俺は本気で納得してたわけじゃない!」
暁はその叫びを聞き流すように閂副校長に視線を向け、柔らかく微笑んだ。
「副校長先生、この方たちはそもそも一体どなたですか?僕、初対面で、事情がよく分かっていないんですが」
暁の後で走って校長室に入ってきた副校長は、焦った様子で汗を拭きながら、急いで説明した。
「こ、このお方は鷹沢京介君のお父様、鷹沢隆一様です。そして、と、隣にいらっしゃるのが、お、お母様の鷹沢京香様です。う、後ろの方々は、鷹沢様にご同行されている、か、方々です」
暁は深くうなずきながら、にこりと笑った。
「わざわざご家族とお連れの方々でお越しいただいて恐縮です。でも、閂副校長先生、このような話し合いって、普通は試合の結果を公平に検証する場を設けて行うものではありませんか?」
鷹沢隆一は苛立ちを隠せない様子で、苛烈な口調で言い放つ。
「お前らが誓約を悪用していることに問題があるんだ!試合そのものが無効だと主張している。それに、君たちが次の試合に進むのもふさわしくない!」
暁は一瞬目を細め、周囲を見渡した。星霞たちは顔をこわばらせていた。神楽沙羅、篠崎結衣、水城未来、神代雪乃も顔面蒼白で固まっていた。
「ふぅ・・・」暁は落ち着いて息を吐き出した。
(なるほどね)
暁は今のこの状況を完璧に正確に理解した。どのような話し合いがここで行われていて、どのような結論に達したか。全ての思惑、虚偽、傲慢、混乱、諂い、を理解した上で暁は再び鷹沢隆一を見据え、静かに言った。
「わかりました。誓約の瓶は破壊しましょう。ただし条件があります」
その言葉に部屋の空気が凍りつく。隆一は眉をひそめながら返答を促した。
「条件だと!?何を言い出す!?」
暁は冷静かつ毅然とした声で語りかけた。
「試合結果を無効にしないこと。そして僕たちの2回戦進出も覆さないでください。それが条件です」
彼の言葉には、静かだが揺るぎない意思が込められていた。この提案が鷹沢家の怒りをさらに煽る可能性を暁は理解していた。しかし同時に、この条件が鷹沢家にとって大きな負担ではないことも見抜いていた。誓約の瓶を手に入れるという目的さえ果たせれば、彼らにとって星霞チームの2回戦進出など些末な問題にすぎないと喝破していたのだ。
鷹沢隆一は短く冷笑を浮かべながら頷いた。
「いいだろう。それくらいなら構わない。だったらさっさと瓶を破壊しろ」
暁は星霞たちを振り返り、目で確認を取る。星霞たちは不安げな表情を浮かべながらも、やむなく頷いて同意を示した。誓約の瓶は、誓約の勝者のみが破壊できる仕組みになっている。故に、この場合は星霞璃月にしか破壊することはできない。
「では、星霞さんに渡しますね」
暁はそう言うと、肩に掛けていた革の袋に手を入れ、中から「誓約の瓶」を慎重に取り出した。瓶は淡い光を放ちながら、その場の空気を一瞬で変え、部屋中に緊張感が走る。暁は瓶をしばらく見つめ、そのまま静かに手に持ったまま続けた。
鷹沢隆一が苛立ちを隠せずに短く命じる。
「早くしろ」
暁は瓶をじっと見つめた後、静かな声で応じた。
「そうですね」
突然、暁の表情が変わり、瓶を力強く握りしめた。その瞬間、瓶から「ピキピキ……」という不気味な音が響き、表面にヒビが走る。しかし、それ以上は割れなかった。
「おい、何をしている!」と鷹沢隆一が怒鳴る。
暁は息を整えながら苦笑いを浮かべ、星霞に瓶を差し出した。
「やっぱり、誓約者の星霞さんしか壊れないんですね。僕じゃ、ここまでが限界みたいだ」
星霞は緊張しながら瓶を受け取ると、小さく呟いた。「誓約解除……」
その瞬間、誓約の瓶が粉々に砕け散り、中から現れた魔核の残骸も床に散らばった。
鷹沢京介は勝ち誇ったように笑みを浮かべながら嘲笑する。
「最初からそうしておけばよかったんだよ!」
さらに、鷹沢京香が冷たい笑みを浮かべて京介に尋ねた。
「どうなの、京介? 誓約は本当に切れているの?」
鷹沢京介は目を閉じて自分の体に意識を向けた後、大きく笑い出す。
「はははは!!ああ、確かだ! 体の奥にあった何かに縛られていた感じがなくなった……これで俺は自由だ!」
鷹沢京介の喜びの中、鷹沢隆一は冷静さを装いながらも、内心で冷や汗をかいていた。
(バカな……あのガキが『誓約の瓶』にヒビを入れた?)
鷹沢隆一は、表面上は冷静を装っていたが、内心では驚愕と疑念が渦巻いていた。
(ランクC魔核を入れたと、京介には言っていたが、そんな稀少な魔核を子供の魔道具に入れられないと思って、俺は実際はランクDの魔核を仕込んでおいた。それでも、この誓約の瓶の硬度は相当だ。普通ならスキルレベル50程度の力がないと、ヒビ一つ入れられないはず。それを……このガキが傷つけただと?こいつ、一体何者だ?)
彼は暁への興味と警戒心を募らせながらも、それを一切顔に出さないよう努めた。そして、探るように静かに問いかける。
「お前……スキルレベルは10を超えているな?今、何のスキルを使った?」
その言葉が放たれると、校長室の空気が一変した。全員の視線が一斉に暁に集中する。
暁は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を和らげ、肩をすくめて苦笑を浮かべた。
「スキルレベル10? それにスキルを使った?いやいや、僕にはそんな力はありません。ただのスキル未発動のポーターですよ。」
その答えに、鷹沢京介が大げさに鼻で笑い、声を張り上げた。
「はははは!父さん、何を真剣に考えてんの!?こいつは、スキルに覚醒してるくせに使えない、落ちこぼれだぜ!『できそこない』で有名なんだ。スキルウィーバー科からノンスキルウィーバー科に追い出されたくらいなんだからな!こんな奴、気にする必要ないって!」
暁は京介の挑発をまるで気に留めない様子で、その言葉を聞き流した。そして、鷹沢隆一に向き直り、穏やかな口調で続ける。
「スキルウィーバー……つまり、スキルを使える人たちのことですよね?僕はそんな高尚な存在じゃありませんよ。むしろ間違えられる方が恥ずかしいです。」
暁の飄々とした態度に、鷹沢隆一は微かに眉を寄せた。彼の言葉と振る舞いにはどこか余裕があり、一見すると無害にも見える。だが、隆一の中で警戒心は拭い去れない。
(……本当にただの学生なのか?それとも、力を隠している?この世界でスキルを隠す理由などないが……もしヒビが入ったのが魔核を事前に抜いていたせいだとしたら……ずいぶん手慣れている。単なる無能を装って計算づくで動いているのか?)
隆一は思考を巡らせながらも、表情にはそれを一切出さず、柔らかい笑みを浮かべた。
「そうか。それならいい。君が何者であれ、構わない。」
そして、語調を少し低め、場の空気をわずかに引き締めるように続ける。
「だが、君たちには学校の代表としての責任がある。次の試合で学校の誇りを傷つけるような結果を出すことがあれば、それは許されない。我々、鳳凰財閥ギルドがどれだけこの学校に貢献しているか、分かっているな?死力を尽くせ。いいな」
鷹沢隆一の言葉には、穏やかな表情に隠された威圧感があった。
暁は鷹沢隆一の威圧的な言葉を軽く受け流すように穏やかな笑みを浮かべ、頭をゆっくりと下げた。
「激励、ありがとうございます。次も全力で臨みます」
その飄々とした態度に、隆一の目がわずかに細められる。一瞬だけ鋭い光を宿したその視線は、暁の奥底を見透かそうとするようだった。しかし、暁の表情には揺らぎがなく、隆一はそれ以上の追及を避けるように視線を外した。
(ただの学生にしては、この余裕は異常だな……ポーターと言っていた・・・こいつも神々の塔で相応の修羅場をくぐり抜けてきたのだろう……)
内心でそう確信しつつも、隆一は表向きには冷静さを崩さず、静かに場を収めることを選んだ。
一方、星霞たちはその場に沈黙したまま立ち尽くしていた。隆一の言葉に隠された鳳凰財閥の圧力が、彼らに無言の重圧を与えている。暁が冷静さを保ち続けていることに、仲間たちは驚きと安堵を覚えながらも、同時に自分たちの力不足を痛感していた。
(こんなにも不条理な状況に対抗する力が自分たちにはないのか……)
星霞の胸には、悔しさと無力感が混じり合った感情が渦巻いていた。その感情を隠しきれないまま、彼女は小さく拳を握りしめる。
一方で、暁はその場の重苦しい空気を変えるべく、わざと軽い口調で話を切り出した。
「それでは、僕たちはこれで失礼しますね。次の試合に向けて準備がありますから。それでは、みなさん行きましょうか」
その言葉とともに、暁は仲間たちに目配せを送り、星霞たちと共に場を後にした。鷹沢隆一は彼らを目で追いながらも何も言わなかったが、内心では、暁という少年への興味と警戒心をさらに深めていた。
(時雨暁・・・しかし、気味の悪いガキだ)
鷹沢隆一は静かにそう考えながら、彼らの背中を見送った。
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