第25話 学校にて②

昼休みが終わり、午後の授業が始まった。教室内は再び静寂に包まれ、生徒たちはそれぞれの席でノートを広げたり、教科書に目を落としたり、教員の話を熱心に聞いていた。


しかし、アイリスにとって初めての「人間の授業」という場は、想像以上に奇妙で興味深いものだったようだ。暁の隣に座るアイリスは、机の上にある暁のノートを覗き込みながら、ひそひそ声で質問を投げかけてきた。


「暁様、この『方程式』というものは一体何なのでしょうか?これを解くと何か意味があるのですか?」


「えっと…それは、例えば生活の中で問題を解く手助けになるんだ。たとえば…うーん、買い物をするときの計算とか?」


アイリスは首を傾げ、少し難しい顔をした。「なるほど…でも、これを覚えるのはとても大変そうですね」


暁は苦笑しながら答えた。「まあ、慣れれば何とかなるさ。最初はみんなそうだから」


先生の視線が一瞬こちらに向けられたのを感じ、暁は慌ててアイリスに合図を送った。「しっ、授業中だから静かにしよう。」


「はい、分かりました…申し訳ありません、暁様」


アイリスは姿勢を正し、大人しく座り直したものの、初めての授業という状況が彼女にとってどれほど新鮮で刺激的かは、その落ち着き払った表情の裏に隠しきれない様子だった。


一方、クラスメートたちの多くはアイリスの存在にまだ慣れきっておらず、ちらちらと彼女に視線を向けている者も少なくなかった。それでも、午前中のような騒ぎは影を潜め、授業は無事に進んでいった。


午後の授業が終わり、教室に響き渡るチャイムが一日の終わりを告げた。暁はノートを片付けながら隣のアイリスに声をかけた。


「どうだった?初めての学校生活は」


アイリスはにっこりと微笑んだ。「とても新鮮で楽しい経験でした。人間の世界には、まだまだ私の知らないことがたくさんあるのですね」


「そうか、それなら良かったよ。でも、まだ初日だし、慣れるのには時間がかかるかもな」


その時、星霞が再び教室のドアから顔を出し、手を振りながら近づいてきた。「暁君、今日の放課後、もうちょっと話したいんだけど、体育館に一緒に行ってもいいかな?」


暁は少し考えてから頷いた。「うん、大丈夫だよ。アイリスも一緒でいいかな?」


星霞はアイリスに一瞬視線を向け、わずかに戸惑いの色を見せたものの、すぐに笑顔を浮かべて軽く頷いた。「もちろん、一緒で大丈夫よ」


そう言って、暁とアイリスは教室を出て、星霞と一緒に体育館に向かおうとした。


暁とアイリス、そして星霞が教室を出て廊下を歩き始めた時、正面から数人の生徒が歩いてくるのが見えた。その中でひときわ目立つのは、学年でも悪名高い鷹沢京介だった。短髪に鋭い目つき、そしていつもどこか挑発的な態度で知られる彼は、取り巻きたちを引き連れてこちらに向かっていた。


「あれ?これはこれは、星霞と暁じゃないか」

鷹沢はにやりと笑いながら足を止め、彼らの前に立ちはだかった。


「何の用だ、鷹沢」

暁は冷静に問い返すが、その声には警戒心が滲んでいる。


「生意気な奴だな。鷹沢さんだろ・・・、本当にノンウィーバーとしての立場が分かっていないな。まぁいい。お前に用はない。何か話題の新入生が来たって聞いて来たんだ」

鷹沢の視線は暁からアイリスに移り、興味深そうに彼女をじっと見つめた。


「それで、そちらの美人さんが、話題の新入生だな。アイリスって言うんだろ?転校生か何か?」


アイリスは不思議そうに首を傾げながら、暁の方を見た。暁は少し息をつき、冷たい声で言った。「アイリスは関係ないだろ。それより、俺たちは急いでるんだ。どいてくれないか?」


鷹沢は暁の言葉に気分を害するどころか、むしろ楽しそうに笑った。「急いでる?そりゃ悪かったな。だがな、ちょっとだけ遊んでいかないか?どうせ闘技祭に向けての練習に向かうんだろう?俺たちもちょうど手が空いててさ」


「遊び?」

星霞が眉をひそめて問い返すと、鷹沢は肩をすくめて答えた。「ああ、体育館でちょっと腕試しだよ。お前らもどうせ闘技祭の準備してるんだろ?いい機会だろう?」


暁は内心ため息をつきつつも、鷹沢がこのまま引き下がることはないと察した。「お前の遊びに付き合う義理はない。それとも、正式な試合を申し込むつもりか?」


鷹沢の目が冷たく光った。「違うな~。今日は試合とかそういうのじゃない。俺が遊びたいと思っているのは、その子だよ」

そう言うと、鷹沢はアイリスを指さし、にやりと笑った。「なあ、こんな美人、学校にはいなかったよな?どこの馬の骨かも分からねえやつが、なんで暁みたいな地味な奴と一緒にいるんだ?」


暁の表情が険しくなる。「アイリスには関係ないだろ。この子に手を出すな」


鷹沢は肩をすくめた。「まあまあ、そんな怖い顔するなよ。ちょっとだけ連れていくだけだ。すぐ返すから」

そう言うと、鷹沢の取り巻きの一人がアイリスの腕を掴もうと手を伸ばした。


その瞬間、暁が手を伸ばし、その腕を強く払いのけた。「やめろ!」


だが、次の瞬間、鷹沢の拳が暁の顔面を捉えた。鈍い音が廊下に響き、暁は床に倒れ込む。


「暁君!」

星霞が驚きと怒りに満ちた声を上げ、アイリスの前に立ちはだかった。「何をしてるの!あなたたちがやってるのはただの暴力よ!」


鷹沢は笑みを浮かべながら言った。「暴力?そりゃ人聞きが悪いな。ただの悪ふざけさ。手が当たっただけだ。心配するな、星霞。手荒なことはしないぜ」


「ふざけないで!」

星霞は怒りの表情を浮かべ、一歩前に出た。その気迫に、鷹沢の取り巻きたちが一瞬たじろいだ。


その時、倒れていた暁がゆっくりと立ち上がり、顔についた血を手で拭った。そして、低い声で言った。


「いい加減にしろよ……」


その声は静かだったが、廊下全体に響き渡るような威圧感があった。暁の鋭い視線に、鷹沢たちは一瞬動きを止める。


「何だよ、その目は……」鷹沢が口ごもる。


暁はアイリスの手を取ると、彼女を自分の後ろに隠した。


鷹沢が戸惑いながらも睨み返す。しかし、暁の冷たい視線は微動だにせず、廊下の空気が一気に張り詰めた。


鷹沢の取り巻きたちも気圧されたのか、動きを止めて互いに視線を交わす。星霞もまた状況を見極めようと、緊張の面持ちで成り行きを見守っていた。


「暁君……」

星霞が口を開きかけたその瞬間、鷹沢が苛立ちを隠せずに拳を握りしめ、一歩前に踏み出した。


「なんだ、怖がらせるだけか?だったら本気でかかってこいよ!」

鷹沢の声が廊下に響き渡る。


暁は小さく息を吸い込むと、アイリスの手をしっかりと握り締め、静かに口を開いた。「……お前もバカだな」


「何だと?」鷹沢が眉を吊り上げた瞬間、暁は彼をじっと見据えたまま、不意にくるりと踵を返した。


「星霞さん、あとはお願い!!」

暁はそう叫ぶと、アイリスの手を引いて廊下を駆け出した。


「おい、待て!逃げんな!」

鷹沢が叫びながら追いかけようとするが、星霞が素早く彼の前に立ちはだかる。「あなたたち、本当にやめて!」


「邪魔だ、どけよ!」鷹沢は、星霞は横に押し退けて暁とアイリスを追いかけようとしたが、星霞は鷹沢の行く手を遮った。


「暁君は暴力なんかじゃなくて、もっと大事なことを選んでるのよ!いい加減、やめなさい!」


「おい、お前たち」

「はい!」


そう言って、鷹沢の取り巻きたちは星霞の横をすり抜け、暁とアイリスを追いかけていった。


「ちょ、ちょっと!待ちなさい!!」


鷹沢が振り向いて星霞を冷たい視線で見た。「おい、星霞。お前もクラスのリーダー面してるつもりか知らないが、他人に指図ばかりしてんじゃねぇ」


星霞は一歩前に出て、毅然とした態度で応じた。「何?ここで決着をつけたいの?いいわよ。私もあなたとは一度きっちり話をつけたかったの」


鷹沢は口元に不敵な笑みを浮かべた。「ほう、面白いな・・・」


二人は睨み合いながら、一歩も動かなかった。周囲の空気が緊張で凍りつき、息を呑むような静けさが広がった。


鷹沢の手が拳を固められ、力を込めたその視線は星霞を鋭く見つめていた。「いいだろう。覚悟しろよ」


その瞬間、緊張感が最高潮に達した。


鷹沢が一歩踏み出して星霞に飛びかかろうとしたそのとき、星霞の背後に、彼女のチームメンバーである神楽沙羅、篠崎結衣、神代雪乃、水城未来の四人が現れた。鷹沢は立ち止まり、視線をその一団に移した。


篠崎結衣が小さな声で声をかけた。「璃月、大丈夫?」

神楽沙羅は楽しげに笑いながら言った。「なになに?なんか面白いことしてるの?」

神代雪乃は鷹沢を鋭く睨んで言った。「あなた、何?」

水城未来は拳を固めて険しい表情を浮かべた。「潰すよ」


鷹沢は冷笑を浮かべて言った。「おぉ、怖ぇな。ふん、つまらない奴らだ。1対1だからこそ面白いんだよ。星霞、助かったな。お前、足が震えてるぜ!はははは!!!」


「挑発しても無駄よ。私にプライドはないわ。ここで決着をつけても構わないわ」星霞の声は冷たく響いた。


鷹沢は舌を打ち、「ふん。闘技祭まで待てよ。お前ら全員、必ず潰してやるからな」そう言って、踵を返し、飄々とその場を去って行った。


「璃月、大丈夫だった?」篠崎結衣が心配そうに声をかけた。


星霞は深く息を吐き、「みんなが来てくれて助かったわ。本当に腹が立つのよ、あいつら。獣みたいな連中だわ!あぁ、腹が立つ!」一瞬、目を閉じて感情を抑え込み、突然思い出したように目を見開いた。「しまった、暁君が追われているの!あいつらの不良グループに!」


「えぇ!?それは大変だ!」水城未来が驚きの声を上げた。


星霞は仲間たちに向かって顔を上げ、「行こう、暁を助けに!」と叫び、四人はその場を駆け出した。



◇◇◇◇




一方、暁とアイリスは階段を駆け下り、校舎の出口を目指して走り続けていた。


その後ろには鷹沢の取り巻き達が追い付こうと走ってきていたが、全く追い付けずにいた。


「はぁ!はぁ!はぁ!はぁ!あ・・・あいつ・・・!」

「くっ!くそっ!!あいつ!!速い!!はぁ!はぁ!はぁ!無理だ!」

「暁のくせに!!逃げ足だけは速い!!もう無理だ!!」


暁は後ろを振り返ると、4人の取り巻き達は息も絶え絶えに追うのを止めて足を止めていた。そしてこちらを苦々しく睨んでいた。


アイリスは暁の行動が全く理解できずに尋ねた。「暁様、なぜ……逃げるのですか?」


「まぁ、詳しく説明すると長いんだが、まぁ簡単に言うと、僕は元々ノンスキルウィーバーと同じ括りだったんだ。そんな僕が突然強くなってしまったら、『何故?』ということになって、最終的には僕の家のダンジョンが見つかってしまう可能性があるんだ」暁は止まらず走りながらアイリスに説明した。


「それが何か問題でも?」


「大ありなんだ」

校舎の出口が目前に迫り、彼の足は自然とペースを緩めた。


「もし僕の家のダンジョンが知られたら、いろんな奴が押し寄せてくるだろう。それだけじゃない。君の正体だって晒される可能性だってあるんだ」


アイリスは眉をひそめ、思案げに口を開いた。「私の正体が露見すると、暁様にとっても不利益が生じるのですか?」


「不利益どころじゃないさ。普通じゃない存在が目立てば、それだけで疑いが生まれるし、敵も増える。それがどれだけ面倒か……」

暁は軽く肩をすくめながら校舎を出て、晴れ渡る青空を見上げた。


アイリスは一瞬黙り込んだが、やがて真剣な表情で言った。「暁様がそれほどまでに私を守ろうとしてくださるのは分かりました。ですが……」


「ですが?」

暁が横目でアイリスを見ると、彼女はまっすぐな目で彼を見つめ返した。「暁様が危険を冒してまで逃げる必要はないのでは?もし力があるなら、それを使って敵を排除すべきではありませんか?」


暁は苦笑を浮かべた。「正論だな。でも、それじゃきりがない。全員相手にするのは時間と労力の無駄だ。戦うべき時は必ず勝つために戦う。それ以外の戦いはしないのが僕のやり方なんだ」


アイリスは少し不満げだったが、暁の言葉には強い信念が感じられた。「分かりました。暁様の考えに従います」


「助かるよ。これ以上、面倒ごとは勘弁だからね」

暁は軽く笑いながら歩き出し、アイリスもその後を追った。




校門を越えたところで、星霞と他の4人が慌てた様子で追いかけてきた。「ちょっと待って!大丈夫だった?」


暁が振り返ると、心配そうな表情をした星霞たちが走り寄ってきた。「無事でした。星霞さん。ありがとうございました!おかげで何とか事なきを得ました。鷹沢は大丈夫でした?対応を押し付けてごめんなさい。これからあいつらをどうしたものか、とは悩みますね」


星霞は眉をひそめながら、「…そうね。あいつら、脳筋だから叩きのめされないと分からないわよ」と苛立たしげに言った。


暁は小さく頷きつつ、再び歩き出した。「もう来週には闘技祭ですね。星霞さんたちなら大丈夫だと思いますので、頑張ってくださいね。僕はポーターの仕事もあるから、観戦に行けるか分からないけど、できるだけ見に行くようにしますので」


星霞は少し微笑んで答えた。「そうね。暁君からのサポートは十分だったから、後は私たちで頑張るね。ありがとう、暁君」


「では、またです。アイリス、行こうか」


「はい、暁さん」


歩き出そうとする暁を、星霞が呼び止めた。「あ、暁君……」


「どうしたの?」


星霞は少し頬を赤らめながらためらいがちに言った。「試合が終わったら、今までのお礼に、私と……」


「私と?」暁が不思議そうに聞き返す。


星霞は慌てて言葉を付け足した。「いえ、私たちと食事に行かない?」


暁は笑って頷いた。「いいですね。ぜひ行きましょう。外への食事なんて何年も行ってませんし楽しみです。みなさんの勝利を祈ってます!」


「う、うん……ありがとう」


そうして、暁はアイリスを連れて家路についた。


星霞は小さくため息をつき、後ろの4人と合流した。


「へぇ、そうなんだね」神楽が意味深に笑う。


星霞は慌てて顔を赤くしながら言い返した。「違うわよ!みんなでお礼をしなきゃと思っただけ!」


神楽沙羅が軽く笑いながら言った。「そういうことにしておきましょうか。もし私たちに一緒に来てほしくなかったら、事前に教えてね?」


「だから違うってば!そんなつもりじゃないし!」


沙羅は肩をすくめながら微笑んだ。「はいはい」


星霞と4人は再び校舎に戻り、来週の闘技祭に向けてさらなる訓練をするため神々の塔へと向かうのだった。



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読んでいただきまして本当にありがとうございます(T0T)


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