第9話 いたずらっ子
翌日、会社にはもう少し遅れると伝えた。
義母には休んでいて下さい――と念を押した。疲れは人の思考力を奪いすぎる。思う事は解決など見ない悲しみだけだ。それは俺も同じだが、手紙を見つける――という仕事が支えてくれていた。
日本海マリンワールド――と書かれた看板の前でタクシーを降りた。その道の突き当たりは、海だ。
広大な駐車場を歩きながら運転手の言葉を思い出した。
「ここでいいんですか?本当に?だってもう少し奥まで行けますよ?」
構わなかった。当時の恋の相手とはどうしたか分からないが、遙香は両親とクルマで来たはずで、降りたのは駐車場だろう。それなら、ほぼ同じ場所から同じように歩きたかった。
セミの鳴き声が降る松林を左手に見て進む。右手は綺麗に整備された芝生が広がり、左手の松林の先は日本海だ。
券売所はすぐに分かった。手の消毒と体温モニターで確認を終え、施設内に入った。
「ここなんだろう?三通目の隠し場所は」
広々とした空間だった。全体として青が基調の装飾とライティングがなされ、緩やかなスロープの左右には水槽が切れ間無く続いていた。
人数制限を掛けているため、他の客はまばらにしか見えない。殆どが家族連れだ。
「三歳の誕生日だったんだってな。良かったな、楽しかったろう」
誰にも聞こえない小声で呟き、先へと進んだ。
「さて、ここなんだろう――とは思うが、一体どこに…」
考えてみれば奇妙な話だ。親友が赴任した母校ならば隠す算段も立てやすい。だがここは違う。
「手紙を隠す場所なんかあるんだろうか?」
日頃掃除が行き届いているだろう。一般客が通れる部分も制限されている。俺は二通目の手紙を取りだして、もう一度読み返してみた。
「『市内の水族館に行きました。トドや、イルカや、長いお魚を見て回ったの――』か…」
遙香が書いているのは自分が中学生の時の話しだ。その時とは展示されている種類も変わっただろうし、館に入ってすぐの場所にあったマップを見ても、その広さは尋常でないことは判る。そこからたった一通の手紙を探す――。
「確かに思う程には簡単じゃ無いな」
いたずらっ子の面があったという遙香に苦笑したが、そんな場合でも無い。見つけなくてはならないのだ。是が非でも。そうでなければいずれ誰かが見つけてゴミにされかねない。最愛の妻が最後に何かの意味を込めて残していった言葉を、俺は見つけなくてはならない。
一階を見て回った。水槽付近になど隠す場所は無い。それ以外にも、普通の客ならば見もしないようなゴミ箱の裏側も見た。壁に掲げられたポスターは、壁との隙間に差し込まれていないか触って確認した。極力何気ない風を装ったが、監視カメラで見ている者が居たら、さぞ注目しただろう。
二階へ上がると物販コーナーやレストランがあり、魚の展示スペースは一階ほど広くは無かった。
風の気持ちいいテラスに出た。柵にもたれ掛かり、室内を見る。イルカのぬいぐるみをねだる幼子と、笑い合うのはママ友同士だろうか。良い笑顔だ。
「あの笑顔を、遙香にさせてやれなかった」
誰に言うのでは無い。聞いているのは、自分だけだ。もう遙香は居ない。
「何処に隠した?何故探させたい?なぜここなんだ?なあ、遙香…」
可能な限り、施設内は探してみた。遙香にしても、従業員が見とがめそうな動きは出来なかったはずだ。
「俺に見つけ出せて、施設の人間には見つからない場所――」
禅問答のようだが、理屈はそうだった。
不意に、学校でのことが思い出された。
「マグダラのマリアに自分を照らし合わせて、悔悛なんて重い言葉を俺に想起させた。なら、ここも?」
水族館と遙香を結ぶ糸を、俺は二本受け取っている。一本は初恋の相手との初デートで訪れたという事実。もう一本は、数少ない父親との思い出の場所という糸だ。
「その上で、ここに隠した…」
意味があるはずだ――と思った。死出の旅の前、俺に残すというのなら、意味が。
「実は私は彼女の友人で――なんて奴、今度は現れないのか」
苦笑して振り返ると日本海が見えた。
「冬は暗いそうだが、こうして夏に見ると、海は海だな」
その景色も彼氏と見たのだろう。手を繋いでいたかも知れない。不思議な気持ちだった。俺にそれを伝える理由が、分かるようでいて分からない。
「何を伝えようとしたんだ…遙香?」
ふと視線を下に落とす。眼下に磯の再現をした庭があった。その庭を貫くようにある小道に、目が釘付けになった。
緩くうねる道の始まりにはヒレのような物が描かれている。進むごとに小さな池が二つ、三つある。そしてその先。道はひっそりとした小さな展望スペースで終わっているが、その地面には魚の顔が描かれていた。種類までは分からないが、それは紛れもない――。
「長い…魚?」
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