第7話 すべて残して
気付けば二人の教諭が傍に立っていた。
「どうやら見つかったようですな。流石にご主人だけのことはあって、一発で――」
汗を拭く大橋は窓を閉め始めた。
「遙香の二通目。ゆっくりと読んで上げて下さいね。私たちはこれで失礼しますので。でも、もしもまだ何かご用があれば、私は休み中は結構学校に居ますので声を掛けて下さい」
頭を下げ、二教諭は美術室を出て行った。
一人になった美術室で、俺は窓辺に椅子を移動し、大橋教諭の閉めた窓を片側開けた。腰を下ろすと、遠くに青い日本海が見えている。条件の良い日には遙かな佐渡島も見えると聞かされたことがあった。風は眼下の松をザワつかせ、潮の香りを運んでくる。
「二通目、見つけたよ、遙香」
呟いて封を開けた。便せんが三枚。一から三まで番号を振られていた。
『見つけてくれてありがとう、ヒロ君
本当は少し心配なんだ。隠す場所を分かって貰えるか――っていう事がね。
でも、それが隠す意味でもあるから、敢えて!
日向子に《ヒロ君が行くから》ってお願いしたのは、中学高校時代の私を一番知っている人だから。でも、手紙のことは言っていません。勿論三通目が何処にあるかなんてことも』
「え?三通目?」
俺は思わず声を上げ、誰も居ない教室を見回した。
『この二通目でヒロ君に伝えたいことがあります。それは、遙香の初恋のお話です。
私は、中学一年生で初めて恋をしました。相手は美術部の前部長で、二学年上です。
人気のある人でした。だから恋敵だらけなの(笑)
私は…引っ込み思案なところがあって、って言うとヒロ君は笑うかな?
だって私、そんなところをヒロ君に見せてないものね。そう、遙香はヒロ君デビュー。
って日本語いいのかな?とにかく遙香は、ヒロ君と出会ったときから、あの遙香なの。
明るかったでしょ?陽気で良く笑って、人見知りなんて何のこと?みたいな遙香。
ヒロ君に好かれたいと思って――でも、無理してたんじゃ無いよ?
そんな自分になれる機会を貰えて、感謝しているの。あぁ、私もなれるんだ――って。
話を初恋に戻すね。一番初めに彼のことを知ったのは、体験入部の時でした。
そこで話す機会があって、それで。その時から凄く意識して――。
でもチョット迷ったの。もしこのまま美術部に入ったら、確かに近くに居られるけど、近すぎて困ることも多いかも。好きになりすぎるとか――なんておかしな心配をして、
それで結局美術部には入りませんでした。そんな心配性も私です。
遠くで見てようと思ったのね。
生徒会に立候補した話はきっとヒナから聞いてるよね?
でも、そこでその彼と縁が出来たの。部長会議って言うのがあって――
予算のことや色々を話しあうのに毎月二度会議するの。そこで声を掛けられて。
LINEするようになったのはすぐでした。お休みの日に会ったのも、すぐ。
市内の水族館に行きました。トドや、イルカや、長いお魚を見て回ったの。そして、その帰りに彼のお家に行ったんだよ。お家の人が居ないからって。ヒロ君、遙香は』
小さな、丸い文字が一生懸命何かを伝えようとしていた。
『まだ子供だったのに、彼と――』
潮騒の音も松のざわめきも世界から消えていた。ショックとか、そういう話では無く、遙香の伝えたいことに集中する自分が居た。
『その後も時々は会いました。好かれたいと言うよりも、嫌われるのが怖くなっていたような気がします。本当はこんな事イケナイんだ…と心では思っても――。それで、そんな関係が誰にも知られること無く数ヶ月続きました。
でも、サヨナラは呆気なく来たんだ。理由は簡単で、彼に他の女の子が出来たから。キチンとしたサヨナラもない、ヘンテコな終わりでした。でもね、どこかで心が軽くなった気もしたの。おかしいよね。
何故こんな話をしたか?普通なら、しないかもね。
しないのが当たり前かもね。聞く方は不愉快かもね。
興味ないかもね?聞きたくないかもね?でも、私はもうすぐヒロ君と永遠にサヨウナラをするでしょ?もう話せないよね。だから全部言っておきたいの、遙香のこと。
でも、面と向かっては無理。だって、なんでそんな話を今するんだ?って訊かれたら…
酷いよね…ごめんね、ごめんね…ごめんね…ごめんね…ごめんね…ごめんね…』
インクが滲んでいる。この子は、何を謝っているんだ。何を悪るがっているんだ。
『遙香がヒロ君といられたのは、とても短い間でした。一緒に居た時間が短くて、悲しいのは本当だけど、なによりももっともっと遙香を知ってほしかったのにって、そう思うと、それが一番悲しいな。
出会って、デートして、結婚して、それも全部遙香だけど、でも、その前にも遙香はいたんだよ。それを、ヒロ君に残したい。だからもう一通を或る場所に残しました。それを見つけるのは少し難しいです。
でも、ヒロ君なら、大勢の中から遙香を見つけてくれたヒロ君なら必ず、
絶対に見つけてくれると思います。ヒロ君…ヒロ君…遙香は――』
手紙は、そこで途切れていた。
顔を上げると目の前の窓の外を海鳥が横切った。いつの間にか水平線に傾いた陽が、海を染めている。潮騒と松の葉擦れが蘇り、俺は便せんを仕舞った。
「全部くれ、遙香。全部、どんな事でも残していけ。遙香を一杯俺に」
立ち上がり、俺は美術室を出た。扉を閉めるとき、振り返ってマグダラのマリアを見た。
「悔悛――?」
二通目の手紙で分かった。遙香がマグダラのマリアに過去の恋を書き残した理由が。
「若い恋も年食ってからの恋も色々あるさ。でも、悔いなら悔いでその悔いも知って欲しかったんだね」
親友の曽山日向子がどの程度まで知っていたかは確認する必要も無い。知っていて知らない顔で、俺に見つけさせたんだ。
「さては大橋先生も一味か」
苦笑が出た。
「遙香、人生に悔いがあるとしても、その君も俺の大好きな遙香なんだよ」
三通目が俺を待っている。俺は扉を閉めた。
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