第6話 二通目

 教官室とは壁ひとつ隔て、美術室があった。

「そうですか!柴沢さんは美術関係のお仕事をね?」

 窓を開けて風を入れながら大橋が驚いたように言った。

「はい。親が絵描きだったから――というわけでも無いのですが、私も中学高校は美術部でした。だからこの様子はとても懐かしいですね」

 壁に掲げられた作品達。教室後方のイーゼルや静物台のどれもに僅かずつではあるが絵の具の跡がある。そしてなにより、この絵の具の匂い。

「さて、隠した物は一体何なのですかな?隠すと言ってもご覧の通りで、それほど場所も無いのですが」

「封筒だそうです。そうですよね?柴沢さん」

 曽山に頷いて見せた。

「なるほど…」

 大橋の見せた表情は優しげではあるが、どこか面白がっている様にも見えた。

「手紙というのならば薄い物でしょうが、とは言っても普段から生徒達が何百人と出入りする場です。さて、一体どこに…」

 腕組みして教室を見回す大橋の傍で、曽山は既に教卓近くの引き出しや戸棚の中を見始めていた。

「私は後ろの用具棚を見てみるとしましょう」

 そう言って大橋は大きな身体を左右に揺らしながら教室後方へ向かった。俺はもう一度室内を見回してみた。

――一般教室二つ分。拾いと言えば広いが、物が置かれているのは大橋先生が見に行った後ろと、曽山先生が見ている教卓あたりだけで、先にそこを取られてしまうとあとは探そうと思っても――。

 大きく取られた窓には遮光カーテンがあり、それは束ねられている。窓の外には海に続く松の林が黒々と見えている。窓の上には、絵画に興味が無い者でも一度は目にしているだろう有名絵画が、勿論コピーではあるが額に入れられて並んでいる。ふと、何か違和感を感じたが、思考の隅に流れ消えた。

――シャガール…ドラクロワに、ピカソ、モネ、ユトリロ、ティツィアーノとまあ、時代も派も脈絡無く並べたものだな。

 普段は重要と思わずに、何気なく放置している想い出――と言うよりも単に記憶と呼ぶのが正しそうな風景がある。マグダラのマリアを眺めていて、不意に思い出した。

「ティツィアーノ…」

 ビジネス面の話はしても、絵画について理論や評価めいた話など遙香と交わしたことは無い。が、只一度、おや?と思ったことがあった。それはティツィアーノに付いての記憶だった。

 俺はマグダラのマリアを見上げた。ベレー帽を被った遙香の横顔を思い出した。

 都内でティツィアーノ展が開催された事があったが、その際、商用ではあるが搬入中の美術館を訪れる機会があった。その俺に珍しくも遙香が「一緒に行きたい」と言ったのだ。

 納入品の打ち合わせだったが、それを終えて遙香を探すと、学芸員をしている俺の仲間の好意で搬入の様子を特別に見せて貰っていた。静かに後ろに立つと、遙香は俺に気付かず、誰に言うとも無い口調で呟いた。

「ティツィアーノは大好き。宗教的解釈と様式の中にキチンと収めながら、抑えきれない情念や、もしかしたら邪欲も持ってて。でもそんな自分を素直に認めている感じがいいな」

 驚いた。どうであれ、自分なりの視点で捉えている。それ以上に、絵画に興味がある事が意外だった。交際期間中、俺はデートをしていても美術に関する話を避けていた。理由は、遙香には興味ないだろうと思ったからだ。つまらない話をしても退屈だろう――と思い、勢い美術の話は遠のいていった。その遙香が開梱され、チェックを受けているティツィアーノを熱く語っていた。

「マグダラ――」

 俺は清涙を零す女を見上げた。その表情と肌にまず視線を導かれがちだが、それ以上に印象的なのがバックの空だ。雲間に見えるそれは、彼女の祈る先だろう。喪失の嘆きと悔悟は去り人に、天上に届くだろうか――。そんな事を思っていた時、もう一つ気になった。

――マリアの宗教的解釈…?

 マグダラのマリアに関しては宗教家や研究者の中でも様々な意見がある。だが、同じ部分もある。それはマリアの守護対象だ。聖人にはそれぞれ、謂わば「得意とする分野」がある。高位の使徒であるヨハネは晩年、黙示録を書き残しているが、その為、彼の守護する対象は神学者や出版業者、あるいは作家などだとされている。

 マリアの場合、もとはガリラヤの娼婦であったとする説からだろう、悔悛した娼婦や、罪を悔い、改めようとする者の守護者だとされている。娼婦が悔悛を必要とする職業であるか、俺は甚だ疑問を感じる。必死に生きるとはどういうものか――という視点無しに、人の生き方は語れないからだ。だが、時代が時代なので、そうした考えもあったのだということもまた歴史ではある。歴史を否定することは簡単だが、過去をないがしろにした未来などあり得ない。

「悔悛――?」

 悔悛とは、行いを悔い、それを改めることを言う。マリアの涙を見つめていた俺は、傍にあった椅子を引き寄せた。手紙探しの張本人である俺が、漸く動き出したからか、大橋教諭も曽山も俺を見ていた。

 背伸びしなくとも絵には届いた。マグダラのマリアを挟むように飾られているユトリロとルーベンスを見た。明らかにマリアの額とは違っている。マリアの涙は、他の絵よりもクリアーに見えている。

「ホコリが無い」

 違和感の正体に気付いた。ガラスの入った他の額にはホコリが付いていたが、マリアの額には綺麗さっぱりそれが無い。俺は額に触れてみた。小さな音を立て、額の裏から何かが顔を出した。それは白い封筒だった。

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