第2話 一通目
葬儀は近親者だけでお願い――遙香が義母に残したリクエストだった。遙香側の親族は十人ほどで、父母ともに既に他界している俺側からは、俺以外列席する者は居なかった。
質素だが温かな気持ちに満ちた葬儀が終わった。葬儀から火葬までは音の無声映画のようだった。その静かで悲しい現実世界から、遙香は俺の居ない天に昇った。
あとに残ったのは小さな骨壺だけだった。人一人生きて、その最後がたったひとつの壺だ。
火葬場から戻っても、俺は抱えた壺を手放せずにいた。義母はと言えば疲れもあったのだろう。
「横になりますね。何かあったら声を掛けて」とだけ言い残し、力ない足取りで自分の寝間に消えた。
最愛の夫と同じ病で一人娘を失った悲しみも察するに余りあったが、俺には人に掛ける慰めの言葉も見いだせなかった。慰めるにも力が必要なのだと初めて知った。
出逢って一年で結婚し、多忙の隙を見た初めての二人旅である新婚旅行を楽しんだ。夢のような――とはよく言うセリフだが、その時間が短ければ短いほど、美しさだけで出来た本当の夢のように思えてくる。二度とは増えていかない夢の時だ。
遙香のベッドに腰を下ろし、膝の上に骨壺を置いて外を見た。窓から見える日本海は水彩画の青だ。遠くに背の高い夏雲があった。
「この景色を見て育ったんだな」
誰に言ったつもりでも無かったが、答えを待っている自分が居た。
「潮風か」
――新潟の海もね、お盆を過ぎる頃には水母が出るの。そうするともう海水浴もお仕舞いなのよ。海の夏は、だからお盆まで。
「泳げないくせにそう言ってたな」
静かな部屋に潮の香りが流れ込む。部屋に残る遙香の匂いが、それと戯れている。泣いているつもりは無かったが、手に滴が落ちた。残して逝く者は、どんな気持ちだったろうか。残された者の思いは、こんなにも辛い。
ふと、視線が或るものを捉えた。本棚だ。
何度も来ているが、持ち主の前で本棚をジロジロと見たことも無かったので、改めて並ぶ本のタイトルに目を向けた。
応用物理を専攻した遙香なので、その関係が多かった。その中、一冊の書籍に視線を止めた。
「あ」
俺は声を出した。本棚に近づいた。それは見覚えのある本だった。
「これは…俺の」
思い出す光景があった。それは遙香と付き合い始めた頃のことだ。
当時の俺は、父のツテで起こした今の会社を育てようと必死だった。大学を出て五年ほどの若造が、経験豊富な美術愛好者達に揉まれて足掻いていた時期に、遙香が現れた。
友人同士の飲み会で居辛そうにしている遙香がおかしくて、声を掛けたのが切っ掛けだ。
「こういう場所って嫌いなのに、無理に誘われたんです」
そう笑う遙香は、グイッとグラスを呷って見せた。
「強いんだね?」
覗き込む俺にまた笑った。
「美味しいお酒と楽しいお酒にはね」
思えば、あの笑顔がすべての始まりだった。
こんな事したことが無い――という遙香が、俺とは連絡先の交換をしてくれた。その飲み会の帰り道で、早速遙香にLINEを送ると、また会ってもいいという返事が来た。
それから俺と遙香は、週に一度のペースで会って食事をし、話し、笑い合った。そのペースが週に二度、三度になり、いつか俺たちは互いを必要な存在だと認識し、一緒に暮らすようになった。
そのデート時代から既に多忙のせいで時間に遅れがちだったが、イヤな顔ひとつ見せずに付き合ってくれた遙香。美術と物理――畑違いに見えて、話せば通じる部分が多いことも新鮮な驚きだった。その遙香が、もう居ない。
「借りてもいい?って言って持って行ったんだよな」
本棚から、遙香に貸した『美術史概論』を抜き出し、手に置くと自然と或るページが開いた。
「これは…」
物を大事に扱う遥かなので、本にも折り目など無い。自動で開いたのは挟んである封筒のせいだった。
純白で、宛名も書かれていない。だが不思議なことに切手だけが貼ってあった。開けていい物か迷った。好んで他人の秘密を知りたい俺では無い。遙香に恋のひとつやふたつあったとして、それを結婚後もヒッソリと大事な想い出にしていたとして、それが気になるわけでもない。誰しも、過去があっての今なのだから。それが豊かで何が悪いだろう。
思い切って封を開けてみた。中に入っていたのは、淡い紫の便せんが二枚だけだ。それを開き、先ず目に飛び込んできた文字にギョッとした。
『ヒロ君へ』とある。
「俺宛?でもなんでこんな…」
送るつもりなら送っていただろうし、こんな本の間に挟んでいた理由が分からず戸惑った。だがそれは紛れもない、遙香の文字だ。そこに遙香が居た。
『ヒロ君へ、これを読んでいるとしたら、そこに私は居ないよね。ごめんね…。でも、読んでいるのがいつなのかは私には分からない。死んですぐなのか、それとももう随分時間が経っているのか。けど、どっちにしても謝ることから始めるね。病気のこと、黙っていてごめんなさい。検査をしたのは新婚旅行の後なわけだけど、体調の悪さは式の直後くらいからあったの。結局、悪い予感が的中したわけだけど、初め、信じたくなかったんだ。死んだパパと同じ病気だという事をね。それも、見つかったときにはステージ4で、それも同じで。ならもうそんなに時間も無いんだなぁ――って思ったら、悲しくて悲しくて。ヒロ君は忙しいから、帰ってくるのも遅かったよね。そのお蔭で、涙で腫れた目なんか見せずに済んだのはちょっと良かったかな。さて、ここでヒロ君に冒険をして貰います。え?突然なんで?って?(笑)いいの!して欲しいんだから!その冒険はね、《私》を探す旅です。私はもう死んじゃっているだろうけど、ヒロ君には《私》を探して貰います。具体的にはこれと同じ《手紙》です。何処かに隠しました。ここに二通目を見つけるヒントを書いておきます。ねえヒロ君、私を探してね?』
呆然と手紙を見つめた。検査の後も変わらずに笑顔でいた遙香を思い出し、俺の中に疑問が生まれた。
「なら…何で尚更のこと俺との時間が減るような真似をしたんだ?病院を替えるなんて」
二枚目を見ると、俺の疑問を見越していたようにヒントが書いてあった。
『遙香は何故実家に戻ると言い出したのか?そう思っているよね。その答えが二通目に書いてあります。その二通目が何処にあるか――そのヒントは、《遙香の部活》です』
後は何も書いていない。
「部活…?遙香の部活…」
大学時代、何処のサークルにも所属していなかったのは知っている。
「中学か高校――」
中高生時代は、実家から徒歩で行ける公立の一貫校だったと聞いていた。
「ならそこだ」
一階の段飾りにではなく、アップライトピアノの上に骨壺を載せ、見つけた一通目の手紙をその前に置いて手を合わせた。遙香が俺に何をさせたいのかはまだ分からない。けど、探したかった。
「行ってくる」
部屋を出るとき振り返るとカーテンが優しく揺れていた。
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