遙香からの三通の手紙
夢幻
第1話 遙香
妻の遙香が体調を崩し、検査で膵臓にガンが見つかったのは、新婚旅行を終えて三ヶ月が経ったばかりの春だった。
遙香の亡父も膵臓のガンだったと聞かされたのは、遙香が入院したあとのことだ。
俺の経営する美術品の保管会社は業績も好調で、俺は多忙を極め、新婚であるにも拘わらず家に帰るのも深夜というのも珍しくはなく、時には戻れないこともある暮らしだった。 そんな俺を支え、不満も言わずに笑顔をくれていた遙香の病は、俺にも衝撃だった。
その遙香は二人で住む都内のマンションでは無く、母親が一人暮らす郷里、新潟の実家での療養を希望した。
「今の病院でいいじゃ無いか?」と説得する俺に、遙香は笑って言った。
「超忙しいヒロ君に私の看護で使う時間なんか無いでしょ?私自身、それはイヤなの。ヒロ君には仕事に集中して欲しいしね。今が大事なときだよ?社員の生活だってあるんだし」
返す言葉も無い。結局、俺は後日義母に頭を下げた。快諾してくれた義母の横で、パンダのぬいぐるみを抱えた遙香は普段通りの明るい笑顔を見せていた。
だが、その遙香の笑顔を、それからたった四ヶ月後に、俺は永遠に失ってしまった。
訃報は、最後の見舞いの五日後、義母の泣き声と訪れた。混乱した。ほんの五日前に、あの笑顔を見たばかりなのだ。
自宅療養の遙香の部屋に果物を山と抱えて入ると、遙香は笑った。
帰り間際、クルマに乗り込む前に二階を見上げた。顔を出す遙香に手を振った。彼女の部屋からは日本海が望める。潮風が揺らすレースのカーテンに、遙香の笑顔が見え隠れした。それからたった五日。義母の震える声に我に返った。
「すぐ行きます!」と言うのがやっとだった。
スキルス性のガンならば進行も早いことは知識にあった。だが、そうは聞いていない。ステージも2。それが――。
俺は混乱しつつタクシーに乗り、駅に向かった。新幹線に飛び乗ると全身に力が入っていることに初めて気づいた。
到着した新潟駅からタクシーを飛ばさせて実家に着いたのは、訃報を受け取ってから二時間半後だった。ヒッソリとしていたが、迎えに出てくれた義母からは、既に掛かり付け医と警察の用は終えたと聞かされた。
階段を上がる義母の肩は落ち、手は震えていた。見るに堪えず目を背けた。
遙香の部屋の前に立つと、微かな潮の香りがした。遙香は、開け放った窓の際に置かれたベッドの上で、静かに、まさに眠るように横たわっていた。
見るもの、聞こえるものにリアリティーが無い。本当のことなのか、自分を疑ってしまうが、歩み寄って遙香の顔を見ると、頬に掛かる髪が窓から入る風に揺れている。血色の失せた唇は、気のせいか微笑むように見えた。
「これは、遙ちゃんからは言わないようにって――」
背後で言いかけ、言葉につまる義母は泣いているのが声で分かる。
「ステージ2って、之弘さんには言ってたでしょ?ウソなの…ごめんなさいね…嘘ついてごめんなさい…」
遙香の髪をソッと掻き上げてやる。指先から、ひんやりとした現実が伝わる。
「ガンを見つけた時にはもう…」
あとは声にならなかった。俺はと言えば、自分で奇妙に思うことだったが、涙が出なかった。それは遙香の表情が、今にも目を開けて話しかけてきそうに見えていたからだろうと思う。
「ごめんなさいね…」
遙香の口が動いたのかと思ったが、それは義母の声だった。老いの始まった女性は、誰に謝っているのだろう。恐らく、全員なのだろう。そう思ったとき、初めて涙が零れ、しずくが遙香の頬に落ちた。それはまるで遙香の涙のようだった。
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