緊張との向き合い方①
ビル街を抜けた閑静な路地裏の一角に、その喫茶店はある。
♔♔♔
私は生まれてから20年、エリート街道をまっしぐらに突き進んできた。両親ともに政府の高官で、そんな両親の間に生まれた一人娘の私は、多大なる愛情と英才教育を一身に注がれてきたのだ。
『ライラ、お前は将来、この国一番の工作員になるんだよ』
『立派な大人になって、早く母さんたちを安心させてちょうだい』
物心ついたときから両親にそう言い聞かせられて育った。だから何も迷うことなんてなかった。
訓練も勉強も人より多くこなすのが当たり前だと思っていたし、両親の期待に応えて、国のために尽くすことだけが、私の唯一の存在価値なのだ。
……そう思っていたはず、なのに。
明日に迫り来る、工作員として初めての任務を目前にして、なぜか急に言いようのない不安が押し寄せてきてしまった。
任務の内容は、とある国に派遣されている我が国の工作員の中から、数名の裏切り者をあぶり出すこと。
訓練校を卒業したばかりの新人が、国外での任務を命じられることは滅多にない。とても名誉なことだし、訓練校を首席で卒業した甲斐もある。
ただし、任務が難しいものであればあるほど、相応の危険が伴うもの。
失敗したらどうなるのか──考えるだけで背筋が凍る。
両親の失望はもちろん怖いけれど、それ以上に恐ろしいのは、国家の「裁き」だ。この国では、工作員の失敗は国への裏切りとみなされかねない。
ふと耳に残る、教官の冷酷な声。「失敗した者は、国のために黙って散れ」と言われたこと。
そのため、訓練校では状況に応じた自害の方法を学ぶ授業もあった。
万が一、任務の失敗に怯えていることが上司にばれようものなら、「国のために命を投げ打つ覚悟はないのか!」と罵倒されるに決まっている。だから私たちには、弱音を吐くことも、怖れを抱くことも、絶対に許されない。
でも──どうしても考えてしまう。もし任務に失敗したら、家族もろとも消されるかもしれないことを。父も母も、政府の高官とはいえ、国家の一部に過ぎない。
あの冷たい目で「失敗は国への不忠」だと判断される時、私だけでなく家族全員が標的になるだろう。国家の絶対的な意志の前では、誰も例外ではないのだから。
私は深い深呼吸を1つしてから、まっすぐビル街に向かって歩き始めた。
夕暮れが近づくこの時間帯は、まだ少し薄暗いけれど、この国の都市はこれから活気づき始める。
特にこのコウメイ市は、式国の中でも象徴的な都市だ。夜になれば、照明が一斉に灯り、ビルが並ぶ街並みがまるでガラスのように光り輝く。昼間より夜のほうが人の流れが多いのも、この街の特徴。
やがて、私の足は目的地にたどり着いた。小さなドアに『喫茶ノワルカン』と書かれた控えめな看板がかけられているだけの、知らなければ見逃しそうな小さな店。
ドアを開けると、少し苦味のある香りと共に、どこか和やかな空気が広がっている。
店内に入ると、カウンターの向こう側で、ニアさんが私を見て微笑んだ。
「いらっしゃい、ライラ。」
ニア──彼はこの店のマスターであり、私たちにとって謎めいた存在。彼が何者かは誰も知らないけれど、只者ではないことだけは分かる。
この国の都市部で飲食店を開く許可が得られる人間なんて、政府の中にもそうそういないだろう。おそらく私以外の客たちも、彼が普通の人ではないことは感じているはずだ。
私がいつものカウンター席に座ると、ニアさんがカウンター越しにメニューをくれた。
「はいどうぞ、ライラ。今日も寒いね、温かいのにする?」
「うん、今日はナディシュのティーラテにしようかな。」
「オッケー、じゃあちょっと待ってて。」
そう言うと、流れるような手つきで、乾燥させたナディシュの花びらをポットに入れ、お湯を注ぐ。
私はこのカウンターの席で、ニアさんが作業している様子を眺めるのが好きだった。
客観的に見て、ニアさんは男性の中で相当格好いい部類だと思う。短髪の柔らかそうな黒髪は決して無造作というわけではなく、けれども、どこか手入れの行き届いた自然体な感じ。それがまた、彼の雰囲気にぴったり合っている。
いつもニコニコしていて掴みどころがないところも魅力的。そんな彼の笑顔を見ると、私はなぜか少し安心するのだった。
「ライラ、何かあった?」
「へ?……きゃっ!」
ふと目線を上に向けると、カウンター越しにニアさんがぐっと顔を近づけて、こちらの顔を覗き込んでいる。
いつのまにか私の手元には、湯気の立つティーカップが置かれていた。
「なんかいつもと様子が違うから。やっぱり工作員の訓練は大変?」
「…………そ、そうね」
「……あ、分かった。ついに初任務を命じられたんでしょ」
「………………っっっ…………!!?」
この、とんでもない観察眼というか、勘の鋭さというか……。
ニアさんと目を合わせると、たまに心の中を見透かされているような感覚になる。
でもこんなんじゃ、工作員失格だ。式国の誇りとして初任務を成功させるためにも、これ以上は絶対に何もばらさな………
「ああ、それで今めちゃくちゃ緊張してるんだ?ライラは本当に分かりやすくて可愛いねえ」
そう言いながら、カウンターに頬杖をついてふふっと笑うニアさんに、私はガクッと肩を落とした。
「……べつに、緊張なんてしてないわ」
そう呟きながら、思わず目を逸らしてしまう。
ああもう。弱気な自分なんて、誰にも見せたらいけないのに。どうしてニアさんの前だと、つい気持ちが緩んでしまうんだろう。
すると、ニアさんは相変わらず余裕そうな笑顔を浮かべたまま、私の背中に視線を移す。
「そっか。でもね、ライラ。緊張してる人間は、たいてい猫背になってるものだよ」
私はハッとする。無意識のうちに前かがみになっていたらしい。慌てて背筋を伸ばし、誤魔化すようにカップを口につけた。ナディシュの甘い香りが、ふんわりと鼻から抜けていく。
そんな私を見て「これは人生の先輩からのお節介だけど」とニアさんは続ける。
「猫背や前かがみになると視野が狭くなる。視野が狭くなると周りが見えなくなって、自分のことしか考えられなくなるんだ」
その言葉に胸がざわつく。たしかに、今の私は自分のことでいっぱいだ。失敗しないように、失望されないように、上手くやらなきゃ……って。
工作員なら、どんな状況でも常に広く周りを見て、冷静でいなければならないはずなのに。
私はいつから、こんなに臆病になってしまったんだろう。
喫茶ノワルカン〜戦士たちの火点し頃〜 夏 @natsu_no_yoru
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