第10話 再びドライ・フラワーを眺めて

 一年半後、新型コロナ・ウイルスのデルタ株が猛威を振るい、僕は感染した。十九歳になっていた。

 どこで感染したものか、まったくわからなかったが、感染力の強いデルタ株なので、あまり出歩かない僕であっても(ただし、その頃は少し元気になっていて、進学もしていないから、時間がたっぷり余っていて、時々都市部や田舎を歩いていた)、新型コロナ・ウイルス感染症に罹ってもおかしくはない時期であった。

 第五回目の緊急事態宣言が出され、夏休みが終わっても、学校を再開すべきかどうか議論がされていた時期であった。

 まず咳が出るなと感じた。味覚や嗅覚は正常である。しかし、発熱した。その日の夕方、冷房の効いた部屋で転寝をしていたら、体が冷え切っていて、急いで暖かい恰好をしたが、今度は急に体が熱くなり、念のためと思って熱を測ると、37.9度であった。もう一度測った。同じだ。発熱外来を予約した。幸い明日の十時からならば、入れるという。

 抗原検査の結果は陽性で、その日の夕方遅くに保健所から電話があり、発症日から二日遡って濃厚接触者を特定する聴き取りが簡単に行われた。濃厚接触者として特定されるのは、マスクなしで一五分以上、一メートル以内にいた人ということであったが、該当するのは家族丈であった。

 僕の方は発症日を〇日目として、十日間の健康観察を指示された。要するに自宅療養せよということである。

 

 最初は腰や脇腹が痛く、皮膚がひりひりと痛かった。食欲がまったくなく、空腹なのに食べる気力が起きなかった。咳はあまりなく、味覚や嗅覚の障害はなかった。

 保健所からパルス・メーターが届いたが、その頃は測定してもまだ九十六%くらいはあった。頭痛が烈しく、まったく眠れなかった。熱も下がらなかったが、朝冷え切った体に熱いシャワーを浴びると一瞬丈楽になり、熱が下がった。しかし、苦しみはすぐに戻った。

 五日ほど経つと、体の痛み皮膚の痛みは薄れた。

 頭痛と、次第に意識されてきたのが呼吸の苦しさであった。血中酸素濃度も八十九%程度まで下がっていた。

 次第に息が苦しくなってくるというのは、怖ろしい体験であった。肺は酸素を求めている。脳裡に級友の死がまざまざと甦った。身も震わすほどの畏怖として、眼を背けたくとも背けられない。それは悪夢のようであった。

 このまま、酸素が吸えなくなってしまうという恐怖がじわじわと迫る。息が苦しい、息が。母は保健所に電話した。

「どうしたらよいでしょう」

「今は紹介できる病院がありません。救急車を呼んでください」

 病床はどこもいっぱいだった。

「貸し出せる酸素とかないですか」

「もう、すべて出ています。救急車を呼んでください」

 救急車を呼ぶ。来た。来たのはよいが、二時間以上、探し回った挙句、受け入れてくれる病院がなく、何と信じ難いことに、僕はそのまま家に帰された。これで、どうしろと言うのか? 死ねという以外の意味はない。本当に、もっと切羽詰まって、死にそうでも、この扱いなのだろうか。

 後に実際そうであることがわかった。

 何ということだ、信じられない。見殺しではないか。文明国で。どうにもならないのか。設備なんてなくてもよい、ベッドもだ。

 たとえ、病院の廊下でよいから置いて欲しい。そこで死んでも、訴えたりしない。家に放置よりはましである。病院なら、医師も看護師もいる。その人たちが同じ空間にいる丈で、安心感が違う。

 あゝ、そんなこともわからないのか、貴様ら、じぶんやじぶんの家族のことであったら、もっと必死になるだろう。こっちにとっちゃ、世界すべての終わりだ。死ねば、すべてが闇に閉ざされて終わる。何もかもがなくなる。見えていたものも、聞こえていたものも! もっと必死になってくれっ! 頼むっ! お願いだっ! 心が絶叫していた。

 狂裂し、凄絶になって逝く。

 あゝ、自宅放置で死ぬならば、怨霊となって、永劫に恨む。祟り神となって、天を蔽い、世に災害と戦乱と飢饉と疫病との大災厄を招いてやるっ、どうだ、これが生存への執著だ。あああっ! 頼む、お願いだ、酸素をくれっ! ああああーっ、酸素っ、酸素だっ、酸素丈でいいっ! あぎゃぽじゃぼきゃいゔゎらや!

 その真夜中を境に、体調は回復傾向を示した。肉体の緊張がゆっくり少しずつ解け始める。やがて、窓から見る漆黒が濃紺に変わった。

 未だ息も絶え絶えな状態でも、僕は理性に立ち返って、想う。あゝ、すべて無駄だった、と。あの頃と結局、何一つ変わっていない。いや、わかっていたはずだ。変わりようなど、つまり、逃れようなどないということを。結局、何かの境地、又は心機を得たようなきぶんになり、悟ったとか、諦めたとか、覚悟したかのような思いに至り、そう感じ、そういう言葉を使い、感銘していても、死が迫るのをリアルに感じる時には、何もかもすべてが瓦解する。死という最も切実な現実のまえに。自己を喪い、理不尽の極みとなり果て、細胞の集合体に還る。

 生きていられるときは、意地を張って面子を保っている丈だ。偉大な禅師たちなどは、心虚しゅうすれば、よいと言うが、あなたたちがそうであったとしても、僕は違う。僕はなれない。解脱の究竟へと善逝したような神の氣を天授したきぶんになっていても、いざ死をまえにした途端、挫折し、後悔し、直ちに怯懦へと帰還する。

 

 僕は幸いに助かった。未だ黎明にならぬ青き刻にそう実感する。

 人を恨んだことを、罪のない人たちを恨んだことを恥じた。特に、日本社会で感染者が急増し、医療機関の逼迫、医療崩壊寸前で、疲弊しながらも頑張っている人たちをわずかでも恨んだことを自責し、苦しんだ。消えてなくなりたいくらい(できようはずもないが)のきもちに襲われたが、死ぬなどは思いも寄らず、ただ、不適切な発言を全部撤回したいという想いであった。但し、切にさよう願望するのは名誉心であり、その動機を突き詰めれば、窮極的には生存への執著に過ぎない。などという言い方しかできない僕だが、真の反省をし、恥辱が魂に刻まれた。むろん、憤りは虚言ではなかった。あの時は本音だが、どうか赦して戴きたい。生死の際が眼のまえに迫って理性が喪失してしまった。野性の獣に還ってしまった。

 人も未だ獣の類いに過ぎない。あゝ、でも、そう言ってしまえば、言い訳でしかない。浅ましい。下衆だ。全然、反省していない。あまりにも脆弱な僕、僕の思想信条、僕の理性、僕の真奥の魂、僕の人間性。つまり、そんなものは、生まれつき喪失も同然であった。

 

 光が、黎明が兆し始める。

 顧みれば、軽症者のうちであったのであろう。重症などとは程遠く、きっと、中等症にすら遙かに届かなかったのであろう。それにしても、じぶんの想うじぶんらしい人格というものが、どれほどまでに幻想であり(そんな幻想は持っていないつもりであったのに)、憶断であり(憶断からも逃れられない)、刹那的で実体のない、儚いものであるかを痛烈に味わった。

 じぶんの人格というものが有機分子の化学反応のように、それはたとえば四十億年前の地球の海で火を噴く火山の島の熱水噴出孔の潮水の溜り場の縁で起きた特殊な化学反応によって核酸が生じ、濃度が高ずるにつれ、分子が互いに繋がっていき、リボ核酸(RNA)となって、さらにはデオキシリボ核酸(DNA)へと化し、細胞の原初の原型をなすも、安定を保てずすぐに壊れてまた縁り結ぶの繰り返し、それが我らの起源であるように、僕らの人格も起源に忠実にその刹那ごとに縁りて結びついた丈であって、すぐに壊れてなくなってしまうものであるかを覚った。ただ、偶然で危うくも微妙なるバランスの上に成り立っている刹那的な、一億分の一秒未満の間も、かたちを存続維持できない、一瞬たりとても同一性を保てない、その都度その都度の現象に過ぎない、無限に短い(面積を持たない一次元の点のような)一点未満の時間ごとに縁りて結ばれている仮の象に過ぎないかを知る。それが一定のかたちを、完全なる一定ではないが、ほぼ類似した一定のかたちを維持し、それを維持していられる間丈は、その人はその人であるが、バランスが崩れてしまえば、異なるかたちを縁り結び、その人は別の人(現象)となり果ててしまう。

 人格も、一刹那のバランスの上に丈成り立つ現象、又は仮象に過ぎないとすれば、畢竟、及び究竟を言えば、人格などというものは幻想であって、実在はしない。ならば、そもそも、人は存在していないことになる。人生もない。死は、人生の喪失という意味では死でなくなる。これが科学的見解であった。但し、科学に依らないのであらば、そうではない。

 しかし、何を今さら、新たに学んだかのように言うか。同じような言及をしていたではないか。経験と未経験の違い、か。

 夜が明け、曙光に照らされ、改めて畏怖に襲われ、慨嘆した。

 あゝ、だが、それにしても、もし、あのまま終わっていたら、僕は闇に消え、未来永劫、そのままであったであろう。つまり、僕の意識は無へと化す。人格は架空、かつ幻影であると言いながら、それがとても怖い。あの世という、死後世界がなかったとしたならば、であるが。

 死は絶空で、生は絶空、互いに絶空と雖(いえど)も、さような考えは感性にリアルではない。いや、絶空は何者でもないので、未遂不收であるから、……いや、いや、キリがない。それにしても、僕が可能性の一つとして言及した丈であっても、「あの世」などという語を口にしようものならば、嘲笑う人も多かろう、たとえば、

「そんなものないに決まっているじゃないか、あの世なんて、莫迦莫迦しい」

 しかしながら、そう言う人たちは何の根拠があって言うのであろうか、何の証拠が、何の検証をしたと言うのか。そういう経験があって言うのであろうか。

 もし、それらがないにも関わらず、さように言うのであるならば、それを聴く僕らがいかに受け止め、次のどう行動するかは、それぞれの考え次第である。

「どうして、あなた方はそんなことを言うのか。なぜ。

 死体が僕らから見て生命活動の停止と見え、魂魄が抜けて物質同様になり(科学的に言えば、元々物質だが)、意識が停まって無に帰しているかのように見えるからか。だが、僕らの意識はインパルスが起きているという丈の、化学反応でしかない。死が物質化であるとしても、生きている時も物的現象でしかない。客観的には何も変わらない。もし、眼に映えるものが観たままに、事実や真実や現実であるとするならば、という条件付きであるが」

「物質としては同じであっても、死者の亡骸には生命と定義されるべき有機分子の活動がない。物質的な有機分子の化学反応はあるかもしれないが、生命活動として特定されるべき化学反応ではない」

「だから、死であると言うのか。無に帰していると。

 生命というかたちの輪郭をいかに決めたか。特性の区分をいかに。区分の範疇表をいかに定めたか。その想いつきの根拠は何か。そもそも、〝かたちの定義〟と呼ぶそれは何か。

 さらに言及すれば、死して後も、有機分子は化学的な反応をしない訳ではない。だが、有機分子の反応の差別の理由は何か」

「差異がある。生命活動と定義された科学的、又は化学的な現象が生命活動だ。あたりまえなことだが。現に眼の前で起こっている差異について語っているんだぜ、眼(ま)の当たりに。明晰判明だ」

「差異ね。ふうん、つまり、もうそこから先を問われたら、答えられないと言うことか。しかも、物質的な事象が僕らの内部では、僕らの人生であり、感情であり、思想であり、精神であり、魂である。そのことを鑑みれば、死後に物質的になったかに見えても、内部で何が起こっているかは、逝った者にしかわからない」

 妄想上の論敵が消え去っても、僕はじぶんの考えに夢中になり、演ずるような独り言はますます止まらなくなった。

「そもそも、すべては僕らの眼のまえに在るかのように映っているそのままなのか、見たままと考えてよいのか、

 それで間違いないのか。網膜に受容しているものは、光線の波長丈である。観察して映ずるものは、そのとおりそのまま、現実(事実(真実))であると考えて大丈夫なのであろうか。

 それを保証できるか。誰も検証していないし、検証することなど、未来永劫あり得ないと思う。眼は眼を検証できない。少なくとも、僕らが現状で使用している理という憲法の定めるところに遵う思考、理という憲法に関連する法令の各条、各項及び各号に規定するところに拠れば。そう、飽くまでも、拠れば、だ。じゃ、拠らなければ?

 想像もつかない。論理という在り方以外の思考は、空想のうちにも描けない。つかむもののない虚空で何かをつかもうと足掻き藻掻くようで、僕にはまったくどうしてよいかわからない、論理思考以外の思考などできない。

 それゆえに言おう、見てもいないもの・ことを、確認も検証もしていないもの・ことを、一方的に否定し、ないと決定することは途方もなく癡かなことだと。はっきりと言っておこう。但し、ないと言い切ることを否定する理由と同じ理由で、僕は在ると言い切ることも否定する。どちらも決定に至る検証や証拠や根拠や経験がない。現行で思考の道程を決定する理という憲法及び関連各法令に随って思考する限りに於いては。

 拠って、遵わなければ、まったくべつだが。しかし、それは可能か? 僕には、まったく不可能だね」

 手懸り足懸りすらもない。未遂不収のまま放置しかない。ただ、眼のまえに定義のない現実がある丈であった。

 定義はなくとも、食べる意欲は甦り、朝粥を啜った。釈迦は苦行をやめた時、スジャータの供養した乳粥を食す。想いはしみじみと古典を鑑みた。

 般若波羅蜜多心経に曰く、「色即是空・空即是色」と。色を物質的な現象と解し、空を零(シューニャ)、無空(僕が言う無空は「空がない」という意味)、及び絶空と解すれば、すなわち、死である。生は死なり、死は生なりとも読める。 

 疲弊した躰は太陽の頂点なる正午になると、眠気を覚え、午睡し、夕刻に渇きで目覚めた。水で喉を潤す。思惟し、論を考え、脳裡に想う。

「死しても、何も変わらない。僕らの意識・思惟・考概など、脳神経細胞のうちにあるイオンと外にあるイオンの電荷の正と負の関係が瞬間的に逆転する現象、この化学的な反応によって起こる電気的な意味での発火現象、インパルスに過ぎない。有機分子の化学反応でしかない。ニューロンのうちでインパルスが起こり、その刺激で神経伝達物質がシナプス間隙を超えて次のニューロンの樹状突起の受容体まで達し、その刺激でそのニューロンにインパルスが起こる。物的現象だ。又、草木の意識、水の意識、岩の意識、空気の意識と同じと言える。齊同か」

 そう想いながらも、僕はカウンター・メロディ(対旋律)のよう、自らに反駁する、

「いや、いや、生は無ではない。在る、ではないかもしれない。でも、僕は存(い)る。とにかくも、この意識がある。現にいる。少なくとも、実在か、否か、確かめようはなく、それらが何であるかわからなくとも実存する」

 昏(くら)く感じるほど、強く濃い黄昏は遂に没す。幻聴であろうか、又は聞こえるかのように感じさせる何かが脳のうちで起こっているのか、どうしてそのうちのどれかであるかを特定する能力が人間にあろうか。

 歌声であった。和声が響く。篝火が燃えている。僕は唐突に放擲されていた。炎以外は真っ暗闇である。神殿の祭壇のような背景の舞台であった。なぜか、それがわかる。

 声は古代ギリシャ悲劇の仮面の合唱隊のようでもあった。不吉な運命を孕んでいる。いつか僕が言った科白を歌い始めていた。

「そのとおり。無などはない。つまり、存在はある。無すらもないということである。存在は間違いなく、存在である。つまり、無ですらもないということだ」

 真夜中、肉体は窶れても、昂った神経に眼は冴え、僕の思考は元の地位に返り咲き、逝にしへの書斎にて懲りずに空転を再開する。生活が甦っていた。思う、

「死しても、生きても、科学的な事実としては同じく物質という事実である。死後に意識があろうが、死して意識がなかろうが、まったく同じことである。〝同じ〟と言うべきか。

 それは観察の結果である。しかし、眼に拠る観察は光線の波長の長短が赤から紫の色彩として映ずる効果を脳裡に与えているに過ぎない。現に、色彩は実在していない。同じように、聴覚や嗅覚や味覚や触覚も、耳や鼻や舌や皮膚などで受信され、脳に於いてそう聴こえるよう、臭いがするよう、味がするよう、感じられるように、構成されている丈であって、機となる起因によって生じる効果でしかなく、実在でもなければ、物ごと・事象の実態でもない。

 だが、この認識自体が観察の結果である。

 結局、眼は眼を見ない、の喩えで終わってしまう。もっとも、比喩の元ネタとなっている、眼が眼を見ないという事実も観察の結果だが」

  

 しかしながら、未遂不收では、何の解決にもならない。死ぬまえ、細胞は、ただ、酸素を欲す※1。それ丈しかない。その絶対的な事実しかない。原注※1 むろん、酸素丈ではない。

 人は皆、人に知られず独り無名に生まれ、人に知られずに独り生き、人知れず無名のままに独り死す。

 実際には、死ぬとどうなるかはわかっていない。ただ、想うに、独りで闇のなかに墜ち、誰も立ち入れない。もう叫びは聞こえない。ただ、堕ちて逝く丈。誰もいない。独りになって、もはや、何かを伝えることも、知ってもらうこともできぬまま、孤独な無名者であるかのごとく死す。記憶も精神も喪われ、何もかも消え去って逝く。戻って来られない。すべてが終わって、無すらもない無へ。

 今、僕が空想するに於いては、それしかない。 

 死ぬ日が来て、死ぬその瞬間まではわかるはずもない。但し、死ぬ日が来ても、科学的な見解の人々が想うような無となってしまうのであるならば、わかるという、脳の活動が起こらない。

 

 かくして瞬今(いま)、二十歳となりし。人生を舐めていると言われても仕方のない気楽な甘いゆとりある親戚バイト生活にも慣れ、ドライ・フラワーを眺めていた。乾燥を見続けている。さらさらと明晰な静けさであった。このまま、しずかに生きていたい。生き続けていたかった。何もかもを忘れ果て。竟にその時が来て、死ぬのかと動揺し、死に瀕し苦しいと悶え、逝く。

 それまでは忘却の海に泳ぎ、惚け、身をふやけさせ、楽しもうよ。メメント・モリに乾杯を捧げて。虚しくグラスを溯る泡よ、愉しそうに舞う、細密精緻なる泡よ。間違った考えではあるが、僕は最初から間違ったこと丈を語っている。心配ない。間違っていようが間違っていまいが、渺々として、もの凄く透明な乾燥がある丈。

 あゝ、逃避することしかできない。それ以外のことができたとしても、その行為の真髄には、逃避が染み透っている。遁れ難く瀝青のように附着し、真髄そのもののごとく乖離できない。死は越えられない。人の思惟や意識や理性など、生存や化学的な現象にくらぶれば、深さ一万mなる海の原の表面丈を、ゆらゆら左へ右へ、されるがままの一枚の枯れ葉、ですらもない。

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