第5話 老大樹と齊同
数日まえ、母が八十一歳の曾祖母を医療法人社団共生会夷胡(いこ)記念病院へ定期診断のため、出掛けたのであるが、いつもは父が同行するところ、その日は仕事の都合で休みが取れず、僕が同行して手伝うということがあった。
僕は母の運転する自家用自動車の助手席に乗り、外の空気を体で吸う快楽を堪能する。今では出歩くことは積極的ではなくも、嫌ではなかった。アルバイトもしているくらいである。
爽快な空であった。心とのタイミングが合えば、青空は人の感情を解き放ち、昂らせ、拡張させる。理屈抜きの理解で、理性もロゴスもない。その原初は古生物にも遡り、アメーバも持つ理解へも繋がるかも知れなかった。原型を空想すると、理解の原型が決して理の解ではないと感じる。その実態を他者に対する生体の反応であると措定すれば、理という憲法や関連法令に遵って、合理の究竟を追究する論理な的理解は理解の構造であるかに見えて、実体は空である。
却って、物事を空洞化、空疎化、虚無化させていた。乖離を起こさせている。乖離が違和感を生み、違和感が抵抗を生み、抵抗が気遣いを生ぜしめ、気遣いが意識をさせ、存在を観ぜしむ。
諸考概は納得という安堵がある丈の心的現象でしかなく、理としては空洞に等しい。だが、こんなことを考えていても、何の足しにもならない。虚しくも悲しく、ただ、眺めよう、青い眸を。深くて美しい壮大、と言いたくなる空であった。
蒼穹ではあったが、雲一つなく、という訳ではなく、雲はあったが、眩く真っ白いばかりで、むしろ、明るく感じた。西を見遣れば、天穹は深い紺である。あの下あたりは海のはずであるが、数㎞先で、森や丘があるため、ここからはまったく見えなかった。返り見するに東には山がある。その嶺や樹木は明瞭に照らされていた。聳え上がりながらも、ほがらかに笑うかのようであった。野性の原初の神々しさがある。
山の名は太泰(たいたい)山と言った。僕は自動車のなかから山を眺めて、ぼんやりと思い出していた。その時点に於いても、既に二年まえのこと、今となっては三年まえに、この場所であった些細な出来事を。
それは初めての海外旅行に行くまえで、パスポートを作るため、旅券事務所へ行った帰り道であった。当時も母の運転、車は変わっている。何を思ったのか、その頃のじぶんのメンタルを思い合わせれば、奇異なことではあったが、「ここで降ろして。少し歩きたい。その後はバスで帰るから」と親に言ったのである。バスの本数は少ないが、家からはさほど遠くないので、三十分くらいで歩いて家まで帰ることも選択できた。
どうした胸騒ぎであったのか。正確には胸騒ぎではなかったが、胸騒ぎのようなものを感じていた。
当時は家に籠ってばかり、久しぶりに外に出たので、心機一転するものがあったのか。旅行に行ったからといって何も解決しないと承知していても、初めての海外、憧れの美術館廻りに心が躍っていた所為かもしれない。幼少時からよく知っている場所であった。
小さな、寂びた社がある。苔むした石垣があり、神域は嵩上げしているため、僕は三段の石段を上った。鳥居をくぐる。背景には太泰山があった。
幹の太さが五mを超える老杉がある。樹齢二千年を超え、衝天するがごとく聳える偉容が周囲を圧する鎮守の杜の王者は僕の幼い頃からの友だちであった。或る日、僕らは友誼を結んだ。曾祖母が「好きになった木を選び、友だちになってくれるよう、お願いしなさい」と教えてくれたからである。礼儀正しく尊敬の念を持って、丁寧に頼むように、と言い添えて。
彼は厳粛であった。物的非情、無表情に観ぜられるその面持ちは甚だ深い。僕は声を掛けた。
「久しぶりだね。あなたは老いて干乾びて見えても、いつも壮健だ」
「元気そうだな。だが、心は沈んでいる。魂は窶れ、あたかも、生命を喪っているかのようじゃないか」
「僕の心を観ずるのかな? 相変わらずだね」
「おまえが知るから、私も知る。萬物は齊同。皆、共生であるが、都合により、プロトコルが相異する。事情があり、友となったから、境界を壊し、壁を突き抜け、通じ合えている」
「共生か。いい言葉だな。でも、僕の死への病は癒せない」
心が通じ合える友がいることを本来ならば慰藉であると感じるべきなのであろう。老太樹は静かに僕に語った。
「おまえが生まれた良き日はもはや去って存在しない。おまえが死ぬ、忌むべき日は未だ来ない。今、生きている丈でしかない」
僕は歎息する。
「あなたもその科白を言うのか。飽き飽きだよ。あなたも死を体験してはいない。何千年生きようが、僕らと何ら変わらない。その言葉は当てにならない。すべて虚しい。
あなたの意識の質、在り方、構造は僕らのものとは次元を異にする。思料を共通させるためのプロトコルが僕らにはない。僕らの考概の質、在り方、構造はまったく異質なものであるから、同質のようには語り合ったり、わかり合ったりできない。その前提の上で敢えて言えば」
プロトコルとは古代ギリシャの巻物の最初の頁をプロトコロンと言い、巻物全体の内容を記載する部分であったが、そこから転じて、草稿や外交儀礼などという意味に使われるようになり、今ではインターネット通信の規格(データの形式やパケット(いつかこの方式もなくなるかもしれないが)の構成など)や、通信の手順(情報発信端末の選定、エラーの際の対処方法など)を定めた規約として、耳にすることが多くなった。この規約に定められた処理をするプログラムが組み込んであれば、ネットワークに接続して、ほかのコンピュータなどと接続できる。通常、僕らは木と通信できていないはずであった。プロトコルがないゆえであり、僕ができたのは魔訶不可思議でしかない。
「僕はあなた方の考概については語れない。しかし、人間の考概については直截に知るがまま、語ることができる」
僕が言う〝直截〟とは、唐突で説明がないこと、経緯がないということと同義で、根拠がないという意味に等しい。証拠や検証がない。迷信レベルである。
「そもそも、大袈裟に、死を例に持ち出すまでもなく、人の言うこと、価値観、考概には、根拠も証拠もない。由来も経緯も知れぬ、唐突と言える。生存の原理による身勝手な架空によってすべてを構築し、かたち丈(だけ)でしかないそれを信じ込んでいる。形骸丈の、仕組みも仕様もない絡繰りで、言うところの意味・意義もどれ一つ取っても憶断に過ぎない。脆弱さしかなく、根拠も証拠もない、実証されていない前提条件を支えにして構築されている。根源から、前提条件のない、零の状態から始まるような論を持っていない。
だから、問い質し詰めれば、即窮する。いい加減さを露呈する。何ら証明も検証もない前提条件を装備した大軍団が、何の権威もなく、無条件に、僕らを睥睨し、逆らうなと偉そうに威張りくさっている」
「なるほど。おまえたちの思考の構造では、そうだ。論理は空疎な絡繰り、捏造、張りぼてでしかなく、出発点にあるものは絶空(空を絶する)で、ただ、ただ、唐突、勝手に決めたもの・ことを基礎、大本、原理、究竟の根源としている。無条件な前提であることが暴露されれば、直ちに崩壊する」
「しかも、僕らはそれら考概で構築された無意味な意地や自己の尊厳を護ろうとする自己保存の欲望と自己肯定の欲望に駈り立てられ、喜怒哀楽する。
その証拠に、他者が僕に反論してくると、僕もついつい言いたくなる」
「どんなふうに言いたくなるのか」
「たとえば、こうだ」
まるで、今ここがバイロイトの祝祭劇場で、僕が総合芸術である歌劇の舞台に立っている偉大な俳優であるかのように、又は古代ギリシャの悲劇が演じられたすり鉢状の劇場に歌う叙事詩の主人公であるかのように、喜悦し、哭き、歎じ、憤りながら、一人二役の劇を演じた。
眼のまえには、僕への反駁を喚き叫ぶソフィストたちが見えている。
彼らが言った、「愛は偉大で、尊い」と。僕は「なぜ?」と問う。彼らは説明し、「無償の自己犠牲であり、すべてを肯定し、美しく優しく包み、虐げられた人を救い、魂を癒し、罪を赦し、人々が一つに安寧し、永遠の平和と愛される喜びをもたらすから」「なぜ。つまり、それが偉大なのは、なぜ。又、そのように作用するのは、なぜ?」
彼らは口を開いたが、言葉がうまく出ずに、口籠ってから、沈黙する。
同様に、彼らが、
「真実は尊い」
と言えば、僕は、
「真実とは何か」
「真実とは、真の実在、本当のこと、あるべきこと、動かし難い絶対の事実で、実態であること、明晰な直観、魂からの切実、現実であるということ。観察などによって、確かに、そうである、実際にそう在る、という感覚が生ずるもの。経験によって、そうであると直截に確認できたものである」
「だが、それら諸要素は何か。たとえば、実在とは? 本当とは何か(本当という評価設定は何か)? 事実とは? 実態であるとは? 現実とは? 観察とは? 実際とは何か? 在るとは何か? 感覚とは何か? 経験とは? 確認とは?」
「すべて明晰判明なことばかりだ。それらは、すべてそれらである。説明を要さない」
たぶん、僕は哄笑するであろう。
続いて、
「哺乳類は動物である」「なぜ?」「動く生き物を動物と呼ぶ」「なぜ?」「そうであるから、そうである」「それは答というものであろうか」
苦虫を潰したかのような彼らの顔。つまり、彼らは純粋正義・純粋理論のために議論しているのではなく、自己保存・自己肯定という、ただ、生き残る本能丈で必死になっている。
彼らのうち一人が社の正面へと逝く路の傍らに在った石を拾い、
「これは石である」「なぜ?」「言葉ではなく、これを見よ。これが石だ。これを石と呼ぶからである」「石だと? ほう。しかし、なぜ、それをその輪郭で区切って、存在者(石)としたのか? 根本的に問うが、存在者とは何のことか? 何かであるとは何か?」「……」
いたずらなからかいと言えなくもない。だが、非理性的で、脆弱であることは明々白々であった。
しかも、根拠ない言説であるという点では、僕の批判(揶揄?)も何ら変わらない。同じであった。僕の説も勝手な価値観の集積によって構築されている。人間の考概のうちの一つであるから、当然であった。
老太樹は嘆息する。
「人間は空転する。何かと言えば、因果律を言い、原因や理由を追究する。根拠を問う。意義を糺す。おまえたちは常に、なぜ、と言う。その意味を正確に言えば、他にも選択肢があったのに、なぜ、この選択肢が選ばれたのか、ということだ。
しかし、それをおまえたちは確認したか」
「経験上、明確であるからだろうね、たぶん。誰でも右に行くこともできるし、左に行くこともできる。右に行った後で、あの時は左に行けばよかったと思うのはよくあることだよ。可能性はあった。実際、どちらにも行けたはずだから」
「いや。そうではない。それを確かめるには、過去に遡って左に行くことができたかを確認しなくては、実際に行けた、とは言わない。
右へ行く丈しかなかったとは考えぬか」
「そうかもね。普通の人間は考えない。実際、どちらも行けたはずだと思っているから。選択肢がなければ、因果律を追究する必要はないね。確かに、選択肢の有無に就いて厳密に言えば確認しようがない。いわば、運命だ」
「もし、そうであったならば、それは運命ではない。他に道がない丈だ。太い道が一本ある丈だ。運命とは意味のない言葉だ。結局、最後にならないとわからない」
「運命は裏切れないからね。右に行こうと思いながら、実際には左に行くことによって、運命を裏切ってやろうと思っても、それが運命だったと言われてしまえば、それでお終いだ。
しかし、選択肢があっても、なくても、実は同じなのさ。齊同。諸考概は勝手な価値観に基づく礎の上に立つ空っぽなモナドの集積に拠って構築されたモノでしかない。
そうなると、同じとも言い難い、〝同じ〟と言うべきなのかもしれないけれど(同じという概念も考概の一つだから)。自らの尾を噛み、喰らおうとする蛇は喰らうのか喰らわれるのか」
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