第4話 死への想い、生への執著

こう言うと、あたかも僕はそうではないかのように、高みから偉そうなことを言っているように聞く人もいるであろうが、そうではない。さっきも言ったとおり、僕も同じである。生きるもの皆、同じである。


 いや、死に瀕した経験があって、そう言うのではない(近い状態になったことはあるが。これについては後述する)。それが在ってもなくても、絶対に、間違いなく、すべてが空疎と想えるようになることは必定である。


 人によっては、そういう状況に陥っても、強靭なる精神で、希望を喪わずに生きる人々もいた。だが、少なくとも最初の一瞬は、意欲を喪失し、意気を阻喪するであろう。それが第一の反応であり、自然な人の生理である。


 生きていることが恐ろしい。そう口にすると、人々からさまざまな説教が降り注ぐであろう。しかし、悪意の塊である僕はこう応える。

「限りある命を輝かせてだって? 価値のある有意義な人生を全うしようだと? 生きてきた軌跡を遺す? 前向きに生きよう?


 あゝ、ありきたりな答など、僕だって、いくらでも知っている。だが、そんな価値は、いとも簡単にその地位から失墜し、あっさりと崩れ去るであろう。そんな儚い言葉など、心のなかのどこにも届かない。


 事実、実態を鑑みてみよ。必死で知ったかぶりをするあなたたちは未だ死を経験していない。いったい、そのような者たちの言うことに、何の説得力があろうか。死を経験した人たちは、もはや帰って来ない。何も語らない、永遠に、未来永劫に。


 生きているということ、今この瞬間ということ、このただただ只管(ひたすら)不安でしかない、死への怖れに囚われたるこの感情を解消することなどできそうもない」

 

 僕は他者を蔑んだり、愚昧と考えたり、間違っていると批判したり、愚かであると嘲笑している訳ではない。


 なぜならば、畢竟、僕の心配、分析、畏怖、批判などというものもまた、多くの人々が世俗で言っている脆弱な、空疎な、永遠に生きられることを前提とした、身勝手な価値観に基づいて構築する諸々の生きる意欲、人情や儲け話、下世話な欲望、さまざまな細かい拘りと同じものによって構築される、何ら変わらない、まったく同じものであるからである。


 言語というもの、同じような概念(思考を構成する霊的な単子〝モナド〟によって構築されたもの)、同じ思考という所作、同じ霊長類の大脳、同じイデア(事物の本質、現象の原型)、同じかたちの考概(概念の活動態、論理の具象形、思考のかたち)を使っているのであるから、それが当然であろう。 


 心配する人の思惟もしない人の思惟も、同じ要素から構築されている。すべて思考に依るもの、感覚に拠るもの、喜怒哀楽の感情に縁るもの、生の欲望に因るもの、生存の欲望に由るもの、ただ、その向きが違う丈であった。分析、畏怖、批判もすべて同様。


 その根底にあるのは、死への想い、生への執著だ。批判も、心配も、畏怖も、分析も、空疎と嘆くことも、永遠に生きていられるという想いに支えられている言葉であって、人の死をまえにそれらすらも喪われ、ただ、激しい動揺が襲い、意気阻喪して失意落胆し、歎く。崩壊する。

 

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