第3話 生存
本能は希(こいねが)っている。
もし、どうしても死なねばならぬものならば、苦しまずに、死に逝くと知りつつ、心も静かに、死に赴きたい、と。
と言って、取り乱すことを卑しいとは思わない。死を厭い、死を怖れることは、とても自然なことだ。それもまた、美しいと思わなければならない。赦される限りに於いて、生き続けたいと希うことは、決して浅ましくない。
願わくば、安らかに眠るように、家族にも見守られて。されども、布団の上で、去り逝く自らの生(ヴィー)にさよならを言いながら、死に赴くことはとても稀有な例だ。普通ではない。ましてや、家族に見守られ、静かに、などということは。その人は幸福な人である。だが、そうであってさえも、向こう岸へ渉る際には、藻掻き苦しみ、家族の顔など見えない、見ていられないかもしれない。死に瀕してみないとわからないことではあるが。
それ以外にも、たとえば、突然の事故、事件、疾患などなどで、じぶんの死を意識することのないまま、自らの死に気がつかず、知らぬ間に死んでしまう事例も、世のなかには数多くある。
死を知らずに死す。僕には、とても恐ろしいことであると思えた。じぶんというものが途絶し、それに気がつかず、そのまま永久に無もなき無へ逝ってしまうのである。
いや、本人は何も気がついていないのであるから、怖ろしいも、何もないのではないか、という考えはもっともである。では、逆に、突然の事故に因って死し、自らの死を知る暇もなく、自覚もなく死した者に於いては、死はなかったことになるか。
あゝ、そんな問いに、誰が責任を持って応えられようか。死というあまりにもシリアスな、徹底して非情で、無表情な現実のまえに。生きようとする者にとっては、その関心のすべてを占めると言ってもよいほどの現実性を帯び、他のすべてが色褪せてしまうまでの切実さで、リアルに迫真する、死という現実問題のまえに、いったい、誰が、何を応えられようか。神から流出したと伝えられる理性は、いとも容易く濁流に無(な)みされ、生きるという価値基準を根底から破壊される。
その深刻過ぎる事実を鑑みて考慮すれば、誰もが迂闊なことを言えなくなる。
しかも、それはいつ来るかわからないが、必ず来る。いかなる努力も準備も予想外の偶然でいとも簡単に崩れ去る。誰もが死刑の決定した、ただ、刑の執行を持つ丈の囚人であり、余命を告知された者であることに間違いはない。
敢えて意地の悪い言い方をさせてもらえば、人はじぶんが永遠に生きていると思っている。むろん、いつか死ぬということを、人が知っている。但し、いつかという漠然とした概念に紛らわせて取り敢えずの安堵をし、具体的なアクションがあるまでは永遠に来ないかのような感覚でいる。言うまでもなく、僕もまったくそうであった。いや、実際、今もそうである。
だから、普通の人は、死ぬと宣告されると、愕然とする。つまり、死ぬと知っていた丈(だけ)で、今来るとは考えていなかった。本気で考えてはいなかったということでもある。死ぬと知った途端、大概の人間が気力を喪失する。生きていく意欲を喪失する。意気が阻喪する。何もかもについて、行動せんとする気概・気力が起こらなくなる。実際には、最初から、そうであったにも関わらず、そうなる。
人は死の淵が地盤沈下のように眼のまえに途方もなく大きな無窮の口を開けると、礎が崩れ、大いに狼狽し、震え、動揺が止められなくなる。信じていた諸々のものが色褪せ、あまりに脆弱であること、頼りない不安定なものであることに愕然とし、到底、信じられなくなる。不動であったはずの生活の価値観が、日常のあたりまえが喪われる。こんなにも脆いのか。
先ほど、人は誰も皆、じぶんが永遠に生きているものと思っていると言ったが、それは当然のことである。そう思わなければ、刑の執行を待つ囚人の人生でしかない。覚悟だ、充実した人生だ、一瞬を輝かせよ、燃えよ、などと言っても、そんなちゃちなつくりものは死をまえにすれば、いとも容易く瓦解する。仕方のないことであった。
人は不死という、空想に縋って生きているが嗤うべきではない。そうしなければ、生きて逝けないのであるから。だが、その皮算用で構築された価値体系はあまりにも儚い。あまりに脆い。死をまえにして、呆気なく灰燼に帰する。
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