ああ!昭和は遠くなりにけり!第5話
@dontaku
第5話
ああ!昭和は遠くんりにけり!
ああ、遠くなる昭和の思い出たち
淡い恋心・・・信子そして美穂
第5話
翌月曜日、朝から職員室は大騒ぎだった。
優太君の総合1位入賞のニュースが知らされたからだ。しかもそれは井上先生だけではなく一部のマスコミからの問い合わせやインタビューや取材の申し込みなどからだった。
学校は教育委員会に連絡し指示を仰ぐほかに職員会議を開き、第一優先事項として登下校時の児童の安全を確保することを決めた。すでに学校の周りにはマスコミ各社が詰めかけていた。
そんな時、管轄の警察署から学校に連絡が入った。交通整理と報道陣への撤去要請を行ってくれるとのことだ。なぜこんなに早く警察が動いてくれるのだろうか?先生方は首を傾げた。おかげでこの騒動は収まることとなった。
美穂は思った。“千夏さんが助けてくださった。ありがとうございます。”
警察だけではなかった。主催者の音大も一部映像のマスコミへの提供を決めて早速配信した。未成年の小学生であることを周知いただきたいとのコメントも併せて配信された。
学校長さんの素早い対応だった。
そんな中、美穂と優太君は何時も通り歩いて帰宅した。どうやらマスコミ関係者全員が2人の顔を知っているわけではないようで校門から出てくる大勢の児童たちに紛れて帰ってきたようだ。
ご近所の方々からも一直線に敷地の中を使って通ってくださいと言うありがたいお話もいただいた。
マンションにも大勢のマスコミ関係者が集まっており、暫くは、優太君をうちで預かるしかないかと考えるようになった大人3人だった。そしてそれを最も喜んだのは美穂だった。
そんな時でも二人は練習を怠らなかった。
美穂は春のコンクールに向け、優太君は曲のバリエーションを広げるためにそれぞれ意欲的に練習をしていた。特に美穂にとっては同率2位である遥香さんとの連弾で得るものがあった。それは遥香さんの楽譜に忠実な正確な演奏だ。連弾ではこの遥香さんの演奏に助けてもらった。美穂はそう感じて初心に立ち帰って演奏を見直していた。逆に、遥香さんは美穂の自由奔放な演奏に触れピアノを弾く楽しさを初めて知った。時には羽目を外しても良いんだ!と言うことに気付いたのだ。連弾が生んだ思いもよらない効果が2人の演奏スタイルに幅を持たせることに貢献したのだった。
真っ先に気付いたのはやはり優太君だった。特に2か月ぶりに一緒に演奏するにあたりあれっ?と感じたようだ。二人で共有していた曲調やリズムに変化が起きていたからだ。
次に気付いたのは信子だった。課題曲を選ぶ際に弾いてみるのだが、譜面台に楽譜を置くようになったのにおやっ?と思ったそうだ。そして演奏を聴いてみると従来の美穂の曲調が以前より落ち着きを持っていることを感じたのだ。美穂が1歩1歩大人になっていくのが分かったのだった。遥香さんとの連弾が美穂を成長させてくれたのだと信子は思った。
時は流れ、騒動も下火になった。春を迎え美穂と優太君は5年生になった。成長期を迎え精神的にも肉体的にも不安定な時期を迎える。
二人に限って・・・とは思ってはいるが、この先ははっきりとは分からない。幸い二人とも同じクラスで、担任も井上先生だ。ナイーブな時期の児童たちにあまり余計な刺激を与えないための配慮なのだろうか。
新しいクラスの皆さんとも直ぐに打ち解ける二人だった。元々二人とも飾らない性格なのでクラスの皆さんと直ぐに仲良くなったようだ。
放課後は大多数の児童たちが塾へ通っているようで、皆と同様に二人は練習に集中できるようだ。
今度の春のコンクールでは陽子さんが高校1年生となり3年生となった遥香さんとの一騎打ちの様相になりそうだ。そこに小学生の美穂が絡むのだから波乱のコンクールになるだろう。
美穂は課題曲を「カノン」に、自由曲を「ノクターン」に決め、より大人の演奏を目指すようだ。
コンクール当日、信子と優太ママは公演のために地方へ出向いていたため優太君を迎えに行って3人で音大のホールへ。優太君は観客席からの応援だ。そんな優太君に声を掛ける人が。美咲さんと遥香さんだ。3人で並んで開演を待っていると陽子さんまで現れた。皆午後からの出演なのだが美穂の演奏を聴いておきたかったのだろう。
そんな中、いよいよ小学生の部がスタートする。低学年の子たちの一生懸命な演奏に拍手を送る4人。周囲の観客からの注目を浴びての鑑賞だった。
いよいよ美穂の出番だ。4人とも背筋を伸ばして美穂の演奏に備える。美穂は何時も通りのルーティンで登場。今日は真紅のロングドレスだ。「美穂ちゃん素敵!」「お姉さんになったわあ!」4人は大盛り上がりだ。
「あっ!」4人が同時に声をあげた。それは、美穂が楽譜を楽譜立てに置いたからだ。今まで楽譜を見ながら弾くことは無かった。
「課題曲の得点を確実に上げようとしているのね。」「うん。美穂ちゃんの弱点でもあったからね。」そう言いながら耳を澄ます4人。
美穂の演奏が始まる。「カノン」だ。演奏が始まって直ぐに審査委員の方々が顔を見合わせた。4人も同様だった。“正確無比”そんな言葉がぴったりの演奏だ。しかしその演奏には大人の持つエレガントさが漂っている。
「本当にお姉さんになったのね、美穂ちゃん。」美咲さんがぽつりと言った。「はい、特に今日は特別です。」何時も姉妹のように一緒に居る遥香さんは驚いたようだ。「前回の美穂ちゃんの演奏とそんなに違うんですか?」初めて美穂の演奏を聴く陽子さんも美穂の大人の演奏に心を奪われていた。「とても課題曲の演奏とは思えないですね。こんな美穂ちゃん初めてです。」優太君も普段見せない美穂の大人の顔に初めて触れたようだ。前回まで連続で演奏していた美穂だが今回は敢えて間を置いていた。そしてショパンの「ノクターン」が流れ始める。同時に会場からどよめきが起こる。大人の女性の色気さえ感じさせる美穂の演奏だ。何時もの元気いっぱいの演奏は影を潜め今日の美穂はアダルトな演奏に終始していた。
「いよいよこの時が来てしまったのね。今まで美穂ちゃんに足りなかったものをとうとう克服して手にしてしまったわ。」美咲さんが目に涙を浮かべながら呟いた。
「美穂ちゃんの足音がすぐ近くで聞こえるみたいだわ。」遥香さんがそう言って唇を噛み締める。
「美穂ちゃんってなんて子なの。とても小学生とは思えないわ。」陽子さんも噂では聞いていたようだがこれほどとは思っていなかったようだ。
「美穂ちゃん…。」優太君も目頭を押さえて美穂の演奏を聴いていた。
一度湧いた会場は今は静けさが漂っていた。
演奏が終わると割れんばかりの拍手が巻き起こった。ほとんどの観客が立ち上がって拍手してくれていた。その中には小学校の先生方、老人ホームの有志一同の皆さん、特にお母さまはハンケチを顔に当てて大泣きだった。
美穂は演奏を終えると何時ものルーティンで観客席にご挨拶をして舞台からはけて行った。まだ拍手は鳴り止まなかった。
舞台袖で演奏を見守った私も思わず美穂を抱きしめた。
「やだ!パパ!恥ずかしいよ!でも・・・ありがとう!」美穂はそう言って微笑んでくれた。控室も大騒ぎだ。まさか小学生の部であのような演奏が聴けるとは誰も思っていなかったからだ。小さな女の子たちも美穂も周りに駆け寄ってきてくれた。
「みんなありがとう!」満面の笑みで答える美穂。保護者の皆さんからも温かい拍手とお言葉を沢山頂戴した。
進行係のお姉さんが美穂を呼びに来てくれた。
「美穂ちゃん、ステージに行きますよ。」表彰式に臨む美穂を見送りながら胸が熱くなる。思えばお姉さんの体つきになってきた。あの当時、アメリカへ渡った信子もこんな感じで大人への階段を登って行ったのだろう。
小学生の部、優勝は美穂だった。これで破竹の5連勝だ。大した娘だよ、美穂。
2位と3位の子と笑顔で戻って来た。そしてロビーで記念撮影だ。何時も通りインタビューにもはきはきと答えていく美穂。そんな美穂を4人の目が温かく見つめていた。そしてインタビューを終え控室へ戻る美穂を取り囲んだ。驚く美穂。
「美穂ちゃん!おめでとう!」4人で練習したかのように声を合わせて祝福する。小学校の先生方、老人ホームの有志の皆さん方もその輪に加わって祝福をしてくださった。
「みなさん!ありがとうございます!」美穂はお辞儀をしてお礼を言った。そしてお母さまの元へ。お母さまは両手を振って美穂を迎えてくださった。
「お母さま、遠い所をありがとうございます。」そう言う美穂の手をしっかりと握り締めてお母さまは言った。
「美穂ちゃんはみんなの誇りです!いつもありがとうね。」
一旦着替えを済めせて4人の皆さんと一緒に中学生の部を観覧する。
実は美穂には気になっているお姉さんがいた。中学2年生の瞳さんだ。去年の秋に控室で聴いた演奏が忘れられなかったのだ。5人で真ん中あたりの席に陣取って拝聴していく。
いよいよ瞳さんの演奏だ。背が高く、指も長い瞳さんの奏でる曲は落ち着いた優雅な雰囲気を醸し出している。
「わあ!素敵!美咲さんみたい!」思わず呟く美穂。
「確かに美穂ちゃんの言う通りだわ。美咲さんに似た雰囲気だわ。」遥香さんも続けて小声で話す。
「彗星の様に現れたって感じですね。秋のコンクールでは見かけなかったし。」陽子さんも続けて話す。
「良かったあっ!皆気に掛けてくれていたんだね。」美咲さんが口を開いた。「私の妹なの。」
「えええっ?」と驚く4人だった。
中学の部は瞳さんが優勝した。審査員の得点も高いようだ。
「うふふ。勝ち残れるかしら?」美咲さんは心配をしながらも瞳さんの演奏を振り返っていた。
「ピアノを始めて1年ちょっとなの。まだまだたどたどしいところが残るわね。」自分の妹ながら厳しい評価だ。“逆を言えばそれだけ期待も高いということだわ。”美穂はそう思った。自分も1年ちょっとでの初参加だった。やっとの思いで「メヌエット」を弾いた頃が懐かしく想い出される美穂だった。
中学の部が終わるとお昼休憩だ。私と陽子ママと瞳さんがロビーで合流する。高校の部へ出場する2人はお弁当を持参。陽子さんはさっと済ませて精神統一をしたいとのことだ。遥香さんは陽子さんの演奏を聴くのは初めてだ。相当気になっているようだ。美咲、瞳姉妹と遥香さんは私たちと一緒に音大食堂へ。瞳さんは初めての対面となるため終始美咲さんがリードする。まだまだ幼さが残る中学生だ。美穂と遥香さんの他愛のない話に耳を傾け一緒に笑い転げていた。不思議と言えば不思議だ。皆ライバルじゃあないか。なぜこんなに仲良く出来るのだろうか。思い切って美咲さんに小声で尋ねてみた。
「はい。ライバルですが、皆お互いを尊重し合っています。お父さま、これって美穂ちゃんの人生観の影響ですね。いい例が優太君と遥香さんです。お互いに刺激し合って良いところ、自分に足りていないところを吸収しているんです。これってお父さま、信子お姉さまの教育方針ですよね。」美咲さんはそうはっきりと答えてくれた。
そうか、美穂はそういう娘に育ってくれているのかと少し泣きそうになってしまった。
昼食が終わると再びホールの会場へ。美穂は観覧席から陽子さんと遥香さんの演奏を聴きたいと言うので私が控室で待機することにした。4人でホールへ向かう後姿が頼もしい。周りの観客たちの視線を浴びながら前方中央の席に陣取る。
いよいよ高校生の部がスタートする。トップバッターは陽子さんだ。
お母さんといろいろお話したが、昨年秋の特別賞受賞で自信が持てたそうだ。碧先輩の指導にも熱が入っているだろう。
演奏が始まる。「ああっ!」美咲さんが声をあげる。ほぼ同時に控室に居る遥香さんも声をあげていた。
「信子お姉さまと同じタッチだわ!」美咲さんが驚いてそう呟く。
「わあーっ!陽子さんママそっくり!」美穂が笑顔で声をあげる。驚いたのは2人だけではなかった。審査委員長の学校長さんも同様だった。「えっ!信ちゃん?」そう言いながら書類を何度も見直したが信子との接点が見当たらない。しかし、演奏を聴く限りではほぼ信子の演奏と言っていいほどだ。きつねにつままれた表情で陽子さんの演奏に聴き入る学校長さんだった。“高校生になっただけでこんなに変わるものなのか!”
不思議そうな美咲さんに美穂が説明する。「陽子さんって昔ママが住んでいた家に住んでいるんです。通っているピアノスクールがママと同じなんです。だから先生は碧さん。先生が一緒なんです。」
「それでタッチも曲調も似ているのね。信子お姉さまのルーツと一緒だなんて。羨ましいわね。」やっと納得出来た美咲さんを不思議そうに覗き込む瞳さん。控室では私が遥香さんに事の次第を説明した。
淡いブルーのドレス姿の遥香さんはにっこりと頷いてお礼を言ってくれた。「遥香さん、美穂を育ててくれてありがとう。今度は遥香さんの番だよ。生まれ変わった遥香さんを皆さんに見てもらってね。」
私がそう言うと「はい!」と力強く返事をくれた。
拍手に送られて陽子さんが戻って来た。緊張がほぐれたのか涙で頬が濡れていた。すると遥香さんが陽子さんの頬の涙をハンカチで拭ってくれた。「遥香お姉さん、ありがとう!」知らない土地に一人で来て不安なこともあるだろう。仲間も居ないそんなところで仲良くなれたピアノ仲間。こんなに嬉しいことは無かった。
そうしているといよいよ遥香さんの出番だ。
ステージにスカイブルーのドレス姿の遥香さんが登場した。スパンコールが散りばめられた素敵な衣装に会場からため息が漏れる。
美穂たち4人もその衣装に釘付けだ。演奏が始まる。
「えっ!うそ!」4人に衝撃が走る。美穂と同じ「カノン」だ。
何時もの遥香さんらしく正確無比に弾き進めていく。
「いつ聴いても譜面通りだわ。」美咲さんが感心する。
「お楽しみは次の自由曲ですよ、皆さん。」美穂が3人に声を掛ける。
「お楽しみって?」皆が不思議がっている間に課題曲「カノン」が終わった。次に流れて来た自由曲は。
「ラ・カンパネラ」だ。「うそ!」3人は思わず身震いした。テンポも早くプロでさえ演奏を嫌がる人も居ると信子から聞いたことがあった。その曲を大人しい遥香さんが弾くというのだ。
“遥香お姉さん!がんばって!”美穂は祈るしかなかった。
審査員席も少しざわついていた。“遥香さんに弾けるのか?”皆さんそう思われたに違いない。しかし演奏が始まると遥香さんが豹変する。
物凄く速いテンポの曲に酔いしれるかのように弾いていく。
「こ、これは!」学校長さんが絶句した。「美穂ちゃん?美穂ちゃんが乗り移っている?」美穂の専売特許ノリノリ演奏を遥香さんが実演しているのだ。他の3人もこれには唖然としていた。
「美穂ちゃん!そこにいるわよね!どういうこと?遥香さんは美穂ちゃんみたいだし、美穂ちゃんは遥香さんみたいだった・・・。」美咲さんは絶句する。瞳さんも余りの迫力に呆然としている。
「遥香さん!何時の間に!何処で練習したのだろう?」優太君も疑問だった。
「うふっ、教えてあげる。遥香さん、おねだりして電子ピアノを買ってもらったのよ。それで好きなだけ練習出来たの。それにしても見事だわ。さすが正確無比の遥香さんね。」美穂はそう優太君に説明するとステージ上の遥香さんに熱い視線を送っていた。客席も沸いていた。「あの子すごく楽しそうに弾いているぞ!苦痛じゃないのかあのテンポが?」「プロのゲスト演奏?本当に高校生なの?」
審査員席も動揺が走っていた。採点としては文句なしの100点満点だ。美穂と同様に満場一致の100点満点だ。だが小学生の部と高校生の部では同じ100点でも重みが違う。しかし美穂の演奏は明らかに小学生のレベルを超越していた。「いざとなったら決選投票ですね。」「うーん。美穂ちゃんの「ラ・カンパネラ」も聴いてみたいですね。」
控室でも動揺が走った。まさかの高校生らしからぬ「ラ・カンパネラ」の演奏に騒然となっていた。陽子さんのお母さんは信じられないと言った驚き様だった。「あのお嬢様の遥香さんの演奏とは思えないです!」
遥香さんの演奏が終わると同時に盛大な拍手とスタンディングオベーションだ。コンクール会場がコンサート会場と化していた。
このタイミングで美穂と瞳さんが着替えのために戻って来た。
そしてステージから戻ってきた遥香さんと5人で抱き合って泣いた。その姿は余りにも美しすぎた。男の子である優太君は見守るしかなかった。
高校生の部は遥香さんの優勝で幕を閉じた。
最後は短大・大学の部だ。これには美咲さんが出場する。美穂も陽子さんと一緒に着替えを済ませ遥香さんと並んでミニターを見守る。
私も優太君と並んでモニターを見ていた。さすがに出場者の皆さんは華麗な指捌きで曲を奏でていく。優太君がぽつりと呟く。
「皆さん凄く上手だけど、俺は美穂ちゃんの演奏が一番好きです。身体に染み着いちゃっているからかなあ。」なかなか嬉しいことを言ってくれる。
そしていよいよ最終演奏者美咲さんの登場だ。大学2年生になった美咲さんはエレガントな部分が増して立派なレディになりつつある。
課題曲は皆と同じ「カノン」だ。美咲さんも楽譜に忠実に弾き進めていく。何時もの美咲さんの演奏だ。モニターを熱く見守る4人娘。
美咲さんは4人が目標とする憧れの存在なのだ。
課題曲に移る。ドヴォルザークの交響曲第9番「家路」だ。流れる様な旋律、そして情景が容易に想像できる曲調。素晴らしい演奏だ。
場内からため息が漏れ聞こえてくるほどだ。
美咲さんの演奏が静かに終わった。その瞬間、割れんばかりの拍手が起こる。感動して泣いている方も多く見受けられた。
「美咲さん、大人の魅力だわ。」遥香さんが唸る。
美咲さんは満面の笑みで会場にお辞儀をした。
「美咲さーん!」4人がステージから戻って来た美咲さんに駆け寄っていく。
「皆、ありがとう!」そう言いながら一人一人とハグを交わしていく。皆さんのレベルになると順位などどうでもいいのかもしれない。
ライバルではあるものの共に成長進歩していく同士なのだろう。
短大・大学の部の審査が終わった。が、総合結果がなかなか出てこない。会場もざわついてきた。
そして総合得点に基づく総合結果の発表が行われた。
第3位は新人ながらの入賞、瞳さん。
第2位は陽子さんだ。
と、なると第1位の優勝は誰だ?再び場内が騒めく。アナウンスが流れる。
「第1位は3名いらっしゃいます。美穂ちゃん、遥香さんそして美咲さんです!」
会場から驚きの声が巻き上がった。前代未聞の珍事だからだ。
先ほどまで控室でわいわいがやがやしていた5人が全員ステージへ向かう。皆嬉しそうに順番に舞台袖からステージ中央へ歩んでいく。
出迎えてくれるのは何時もの学校長さんだ。横並びに綺麗に並んだ5人の入賞者に向けて異例のスピーチが行われた。
「皆さん、入賞おめでとうございます。今回ほど採点に苦労したことはありません。10人の審査員の皆様も同様でいらしたと思います。
「先ず、第3位の瞳さん。ピアノを弾き始めて1年と1か月と伺っています。それにしては上手すぎます。まだ多少の音の切れ目が気にはなりますが耳障りとまでは言えません。これから多くの楽曲を弾いてピアノを楽しんでください。」
「次に、第2位の陽子さん。高校生になられて演奏がスムーズになりましたね。練習の賜物だと思います。あと、陽子さんの演奏は私の知人とそっくりで大変感銘を受けました。ご指導を受けられている先生にお礼を申し上げたいです。」
「さて、美穂ちゃん。今まで苦手だった課題を今回は見事に克服しましたね。そして自由曲では小学生らしからぬ大人の演奏を聴かせていただきました。美穂ちゃん、あなたはスーパー小学生です。」
「今回、素晴らしい豹変ぶりを見せてくださった遥香さん。前回まで形通りの演奏に終始されていましたが、今回の自由曲では難易度の最も高い曲を見事に演奏されました。あのアップテンポの速い指使いを要求されるあの曲を弾き熟す技術力をまざまざと見せつけられました。そしてそんな演奏を笑顔で、楽しそうに弾いてくださいました。」
「美咲さん。うっとりさせていただきました。今までもそうですが、美咲さんの調べには人の心を打つものがあります。交響曲をピアノ単独で弾くことはかなりの編曲力が必要になります。この中で編曲に携わっているのは美咲さんと美穂ちゃんだけです。特に今回の編曲が素晴らしかった。ピアノだけでオーケストラに引けを取らない演奏でした。」
さらに学校長さんの総評は続く。
「今回の第1位は3名ですが、全員満点でした。もう、差の付けようがない状態で、優劣を決めるのは困難とみなして同率3名を第1位としました。みなさん、今回はハイレベル過ぎて審査員一同嬉しい悲鳴をあげさせていただきました。本当におめでとうございます。そして素晴らしい演奏をありがとうございました。」
ここで審査員のお一人から質問が出された。
「遥香さんと美穂ちゃん。2人とも演奏のリズムが全く一緒でしたね。連弾か何かされていますか?」2人で声を揃えて「はい!」と答える。その答えに会場から「おおーっ!」という声が。
「やはりそうでしたか。息がぴったり合っているのね。それと、遥香さんの「ラ・カンパネラ」見事な演奏でした。まるで美穂ちゃんが弾いているかのように思えるくらいでした。美穂ちゃんの「カノン」の正確さと遥香さんの情熱的な「ラ・カンパネラ」、2人でお互いの良いところを吸収し合った成長の賜物と言えますね。今回はとても嬉しく拝聴出来ました。ありがとうございました。」
モニターを見ていた優太君が呟く。
「やっぱり分かる人には分かってしまうんですね。」
そして入賞者5名の演奏が始まる。5人に椅子が用意され一人ずつ演奏を行う。最初は美穂の自由曲「ノクターン」からだ。午後からの入場者は美穂の演奏を知らない。いくら上手だと言っても小学生・・・。しかし曲が流れてくると場内の雰囲気が一変する。「本当にあの子が弾いているのか?」会場がざわつく。演奏が終わると次は瞳さんだ。途中ですれ違う時にお互い両手を握り合って言葉を交わす。「普段通りですよ。」「うん。ありがとう。」会場の皆さんをほっこりさせた瞬間だった。皆笑顔になる会場内。瞳さんも無事に演奏を終え次の陽子さんと同じように言葉を交わす。いつも一人でコンクールに臨んできた陽子さんは顔をほころばせて頷く。初めてできた演奏仲間だ。本当に嬉しかった。皆素晴らしい演奏を披露していく。陽子さんから遥香さんへ。そして遥香さんから美咲さんへと微笑みがリレーされていく。入賞者5人全員、本当に仲が良いのだ。
舞台袖から一緒にその光景を見ていた陽子さんのお母さんは安堵したかのように泣き崩れていた。地方からたった一人で参加している陽子さん。上手く皆さんと馴染めるのかどうか不安だったのだろう。しかし心配無用だった。そんな5人の入賞者に場内から温かい拍手が送られた。
授与式が終わるとロビーでの記念撮影だ。何時ものコンクールの大きな看板の前には大勢のカメラマンが詰めかけていた。そしてその周りには大勢の観客が。その間をぬって5人が登場するとロビーは大騒ぎだ。向かって左から陽子さん、美咲さん、美穂、遥香さん、瞳さんの順に並ぶ。美穂は立ち位置が気になるようだ。美咲さんと遥香さんに強引に真ん中に押しやられたようだ。戸惑う美穂に両脇で知らんぷりして笑っている2人。カメラマンの方たちの要求に応じて視線を送る5人。陽子さんと瞳さんは視線が落ち着かないようだ。美穂が気を利かす。「カメラマンのお兄さん、見つめる方向を手を揚げて教えてください。」「おおーっ!」「はいこちらです!」そう言って片手を揚げてくれる。こうして和やかに写真撮影は終了した。
今度は雑誌のインタビューだ。この5人に話題は事欠かなかった。
瞳さんを皮切りに一人ずつ質問に答えていく。
「美穂ちゃん、大人の魅力を見せていましたが、好きな人はいるのですか?」焦ったのは美穂ではなく優太君だった。
「はい。います。」きっぱりと答える美穂を横の遥香さんが肘でつつく。美咲さんも何か言いたそうだ。
「好きな人がいることをご両親はご存じですか?」さらに質問を続ける記者。
「いいえ。だってパパに言うと落ち込んじゃうでしょ?記者さんだっていきなり娘さんに言われたらめげちゃうんじゃあないですか?」
微笑みながらの美穂の逆襲だ。記者やカメラマンのお父さんたちから“うん。うん。”と首を縦に振る姿が。これにはロビー中が大爆笑。
両脇の瞳さんと陽子さんは美穂の余りの返しに驚いて唖然としていた。美咲さんと遥香さんは両手を叩いて大爆笑だった。
こうして春の学生ピアノコンクールは盛大に幕を閉じた。
翌日から何時もの生活が始まった。美穂と優太君は新たな演奏曲の選定に入った。ゴールデンウイーク中に美咲さんの大学の新入生歓迎フェスティバルでの演奏をお願いされたからだ。
そのためにも二人で演奏するバリエーションを増やしたかった。「エーゲ海の真珠」は優太君が提案してくれた曲だ。実際弾いてみて、なかなかしっくり来て美穂も気に入っていく。やはり震えるような優太君のヴァイオリンの音色が素敵だ。続いて「恋はみずいろ」を弾いてみる。この曲も歓迎フェスティバルでの受けは良さそうだった。
「クラッシックで何かないかなあ。」優太君はそう言って休憩時間中考えていた。二人でココアを飲みながらいろいろな曲を提案し合う。
「愛の喜び」「カルメン幻想曲」など好きな曲を挙げていくのだがいざ演奏となると付け焼刃ではなかなか難しい。演奏のプログラムは短めの曲を3曲、メインはやはり優太君の代名詞「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」だ。
「もう決まったの?」自分のお茶を入れながら信子が2人に尋ねる。
「はい。決まりました。」優太君が曲名のリストを信子に渡す。
「あら!良いじゃない!最初は聴きやすいイージーリスニングから入るのね。持ち時間は足りるの?」信子は二人の選曲に満足そうだ。
「もう1曲入れると完璧なんだよね。」美穂が宙を見つめながら言う。
「それなら「G線上のマリア」や「アヴェマリア」はどうかしら?美咲さんと瞳さんの学校はキリスト教系の学校だから学校関係者の皆さんの受けも良くなると思うわよ。レコードがあるから探して聴いてみたら?」
新入生歓迎フェスティバルの当日、二人を美咲さんの通う大学まで送って行く。道中では演奏する曲の打ち合わせを行なう。本当に真面目な二人だと思う。
大学内の音楽ホールへは西門からと聞いていた。美しいレンガ塀に囲まれたキャンパスが異空間の様に見えてきた。お嬢様学校で知られているこの学校は幼稚園から大学までの一貫校だ。
西門に着くと既に美咲さんと瞳さん、そして実行委員の方々がお出迎えに来てくださっていた。
「わあーっ!美穂ちゃん、優太君!」瞳さんが手を振って声を掛けてくれた。その横で美咲さんも微笑んでいた。実行委員の皆さんに初めましてのご挨拶をする。私は二人を見送ると近くの喫茶店へ向かう。こう見えて結構忙しい身なのだ。ノートパソコンで仕事をこなさなければならない。
キャンパス内に入るとまるで映画のセットのようだ。思わず見とれてしまう二人。「後でゆっくり案内するわね。」美咲さんはそう言ってとある建物の職員通路入り口に向かった。実行委員の一人がインターホンで話をするとガチャンと鍵が開いた。セキュリティーが完璧だ。静かな職員専用通路を歩いていくと音楽ホールへと辿り着く。
エレベーターに乗って3階の控室へ。プロのミュージシャンの方々も利用されるらしく多数のサイン色紙が飾られている。
「リハーサルとかは“リハ室”がありますからご自由にどうぞ。」実行委員さんに勧められて早速優太君がヴァイオリンの調整に向かう。
「ピアノとヴァイオリンかあ。楽しみです。」目を輝かせる瞳さん。
美咲さんも二人揃っての演奏を聴くのは初めてだ。
優太君が音合わせをしている間に控室で談笑する。実行委員の皆さんは美穂が美咲さんと同率1位、優太君がヴァイオリン部門の単独1位であることがまだ信じられないようだ。時間が近づいてくると美咲さんと瞳さんはホール会場へ。戻ってきた優太君と出番を待つ。
「!」ふとモニターを見ていた優太君が気付いた。席の前列から幼稚園児、小学生の順に座っているのだ。美穂も食い入る様にそれを確認する。「演奏プログラムを変更しよう!」土壇場での変更だ。
実行委員の方々にその旨を伝える。驚いた表情の皆さんだったが快く了承をいただいた。いよいよ本番だ。
「みなさーん!こんにちわーっ!私は美穂、そしてこちらが優太お兄さんでーす!今日はよろしくお願いしまーす!」突然の美穂のマイクパフォーマンスに驚くホール。特に美咲さんと瞳さんは余りの登場の仕方に唖然としている。
「幼稚園のみんなはこの曲知っているかなあっ?」そう言って美穂がピアノを弾き始める。「アンパンマンのテーマ」だ。
「わあーっ!」園児の皆に笑顔が弾ける!ホール内もびっくりだ。てっきり堅苦しい曲だろうと思っていたようで皆緊張が屠れたようだ。園児の皆は身体を揺らせてノリノリだ。
2曲目は「ムーンライト伝説」を弾いていく。今度は小学生の皆さんもノリノリだ。ピアノコンクールなどでは絶対に見られない美穂の演奏に美咲さんと瞳さんは驚くばかりだ。控室でも実行委員の皆さんが大騒ぎだ。「うそっ!小学生だよね!小学生だったよね!」
「はーい!みんなありがとう!3曲目からはお姉さんの曲になりますね。」そう言って優太君のヴァイオリンが加わる。
「恋はみずいろ」だ。優太君のヴァイオリンの調べがホールを包み込む。「上手いわあ!優太君!さすが1位の貫禄ね。」美咲さんも瞳さんも思いっきり聴き惚れていた。
続いては二人の代名詞と言える「シバの女王」だ。特に優太君のヴァイオリンが身体に沁み込んでくる。中には涙ぐんでいるお姉さんたちも見受けられた。
5曲目は優太君の独奏「G線上のマリア」だ。皆も知っている有名な曲だが優太君の奏でるヴァイオリンの音色が堪らなく心にしみる。
美穂もピアノの手を止めて優太君の独奏に耳を傾ける。
美穂は迷っていた。優太君を休ませたい!次にピアノのソロ曲を入れるべきかどうか。そんな時演奏しながらの優太君からアイコンタクトが!軽く頷く美穂。
「優太くん!ホ短調いくよっ!」檄を飛ばす美穂。長丁場の「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」へ入っていく。
オーケストラ部分を美穂がピアノのためにアレンジした二人だけのヴァージョンだ。オーケストラとは異なる仕上がりだが良く編曲されている。驚く美咲さんと瞳さん。「演奏だけでも難しいのに編曲まで!」あまりの素晴らしさに聴き惚れる2人。ホール内も同様だった。初めて聴くヴァイオリンとピアノだけの演奏だ。「誰の楽譜なの?」「始めて聴くわ!」音楽に携わる皆さんからそんな声が聞こえる。そんな中二人の高速演奏が続く。皆さんの目が優太君に集中する。もうプロの演奏、佇まいだ。静かなホール内に優太君の高速演奏だけが響く。時折り美濃の伴奏も入るがメインは優太君のヴァイオリンだ。そして第1楽章が静かに終わった。
「わあーっ!」凄まじい歓声と拍手が巻き起こった。
優太君は深々と一礼した。美穂は優太君を称える。拍手を送った後客席へ向かって一礼した。
汗でびっしょりの優太君にバスタオルを渡し、熱くなったヴァイオリンを預かる。直ぐにタオルでヴァイオリンに着いた優太君の汗を拭き取っていく。
「シャワーって浴びれますか?」美穂が実行委員の方に尋ねると「はい。ご案内します。」と答えてくれた。用意していた優太君の着替え一式を持たせて見送る美穂。初めての公の場での優太君とのコラボに大満足の美穂だった。
「優太君、美穂ちゃんおつかれさまーっ!」珍しく興奮した美咲さんと瞳さんが控室へ戻って来た。
「二人ともすごく見事な演奏だったわ!もうプロの領域ね。」美咲さんが目を輝かせながら美穂に言った。
「美穂ちゃんって司会もするのね!びっくりしちゃった!」瞳さんも驚きを隠せなかったようだ。
「ありがとうございます。ごめんなさい、優太くん、今シャワー浴びているんです。」美穂は水筒の水を飲みながら笑顔で答えた。
「実は老人ホームと保育園で演奏会をしているんです。そのせいか慣れちゃって。」そういって再び水を口にする美穂。
「美穂ちゃんは器用だわあ。」感心する2人だった。
「美穂ちゃん、たいへん!アンコールが!しかもちびっ子たちからも!」実行委員お数人が控室に駆け込んできた。
「えっ!アンコールて言ったって優太君シャワーだよ!」慌てる瞳さん。「どうする?美穂ちゃん。」美咲さんも心配顔で美穂に声を掛ける。
「はい。取り敢えず私がちびっ子たちのアンコールに答えます。その間には優太君が戻ってくると思いますから。」美穂はにっこりと笑って再びステージへ。歓声が上がる。
「みなさーん!アンコールありがとうございまーす!実は優太お兄さんはシャワー浴びてます!直ぐに戻ってくるから待っていてくださいねーっ!」そう言いながらピアノを弾き始める。ちびっ子たちから歓声が上がる。「ドラえもんの歌」だ。大きな声で歌ってくれる子もいる。楽しそうだ。そして「アンパンマンは君だ」へと続いていく。幼稚園の皆は大はしゃぎだ。ホール最前列の騒ぎに目を丸くする高校、大学のお姉さんたち。保育士さんたちも驚きを隠せなかった。続いての曲は「マジンガーZ」だ。今度は小学生の男の子たちが元気になる。そして女の子向けには「ふたりはプリキュア」を演奏する。これには悲鳴を上げて喜ぶ女の子も出るほどだ。
中学生のために美穂が弾いたのは「モルダウ」だ。場内から「ああーっ!」と言う声が漏れる。なぜ校外者、しかも小学生の美穂がこの「モルダウ」を演奏するのか?それが分からなかった。
「美穂ちゃん!何で「モルダウ」なの?」瞳さんも首を傾げていた。
「瞳さん。コンクールの時、雑談で合唱コンクールがあるって話しをされてましたよね。」優太君が瞳さんに声を掛けた。「この美穂ちゃんの演奏は中学の皆さんへの美穂ちゃんからのエールだと思いますよ。」そう言いながらヴァイオリンを片手にステージへ向かう優太君。「ありがとう、教えてくれて!」そんな優太君の後ろ姿にお礼を言う瞳さんだった。
ピアノを弾く美穂のそばへ歩み寄る優太君。それに気づきにっこりと微笑む美穂。その光景に場内がどっと沸いた。
高校生向けの曲は優太君のヴァイオリンを活かした「ロミオとジュリエット」だ。しっとりとした優太君のヴァイオリンの音色が涙を誘う。何人もの女の子たちがハンカチを目に当てている。
最後は大学生向けの「ひまわりのテーマ」、美穂が一人涙して演奏した名曲だ。ここでハプニングが発生する!二人の演奏中に幼稚園児たちが涙を流し始めたのだ。慌てたのは保育士さんや先生方だ。
「どうしたの?」「何で泣いちゃったの?」優しく涙を拭いてあげる。
「悲しいお歌だから・・・。」一人の女の子がそう言ってまた泣き始めた。純粋な感性に驚かされる大人たち。
「あの二人!大した小学生だわっ!」美咲さんも脱帽だった。
「皆、上手に演奏することに夢中になり過ぎていたのね。私も、演奏を楽しんではいなかったかも。二人にはお勉強させていただいちゃったみたいね。」
長くなってしまったアンコールだが、最後は鉄道ネタで締めくくる。
ヴァイオリンによる電車警笛が鳴ると車内放送のメロディだ。
「ハイケンスのセレナーデ」、「アルプスの牧場」そして締めくくりは「鉄道唱歌」だ。拍手喝采の中無事にアンコールが終了した。
学芸会?どころではない内容に皆大満足だ。とても小学生とは思えない演奏と進行内容に称賛の声が上がった。
二人が控室に引き上げてきた。
「お疲れさまでした!」「見事なステージだったわ!」祝福を受ける二人。「いえいえ、とんでもないです。こちらこそありがとうございました。」二人で静かにお礼を言う姿からは想像できないほどのエネルギッシュな演奏会だった。
「一息ついたらお昼にしましょう!」美咲さんはそう言ったもののホール出入り口には二人を出待ちする大勢の女子学生たちが陣取っていた。控室の窓からそっとその様子を確認する二人。お互いに顔を見合わせて困り顔だ。
「学内は諦めて外で食べましょうか?」実行委員の一人の提案で入ってきた西門からそっと抜け出すことになった。職員通路を通り西門へ。守衛さんにご挨拶をして8人でぞろぞろと美咲さん行きつけの喫茶店へ向かう。西門辺りは住宅街で人通りもまばらだ。
白い壁に濃い緑色の窓の縁取りといった美穂の好みの喫茶店だった。
「美咲さんも私と好みが似ているのかな?でもどこかで見たような喫茶店だわ。」そう思いながら店内へ。「2階空いていますか?」美咲さんが尋ねると「お一人様いらっしゃいます。」とのウエイトレスさんの返事。2人の話しぶりから美咲さんはどうやら常連のようだ。2階への階段を上がっていく。その先には広い空間がありその中央にはグランドピアノが置いてある。「なるほど!だから美咲さんのお気に入りなんだ!」納得しながら部屋を見回す美穂。「あっ!」お一人様を発見して驚く美穂。
「パパ!何をしてるの?」テーブルにノートパソコンを広げて企画書を作成していた私だった。「えっ?おじさん?」優太君も驚いた様子だった。
「おおっ!二人とも無事に終わったようだね。あっ!美咲さん!瞳さん!皆さんこんにちは。今日は二人がお世話になりました。」
「お父さま、こんにちは。今日は二人に助けていただきました。」美咲さんと瞳さん、実行委員の皆さんに揃ってお礼を言われたものの事情を知らない私には今一つピンとこなかった。
皆が緊張するだろうと私は1階の空いている席に移動することにした。席を移る際に美穂に耳打ちする。「ナポリタン、旨いぞ!」
「やだあ!パパったら!」美穂が笑う。
階段を下りていく私の後ろから皆の声が聞こえる。
「美穂ちゃん、お父さんに何て言われたの?」皆からの質問攻めにあせっているようだった。
お昼ご飯を頂きに来店してから時はあっという間に流れ既に16時を回っていた。皆よくも話題に事欠かないものだと感心してしまう。と言う私は10時頃からこの喫茶店にお邪魔しているのだが・・・。そろそろ企画書も出来あがるしコーヒー追加して少しのんびりするか。そう思っていたが2階からピアノの音が。誰が弾いているのだろうか。「モルダウ」が流れてくる。曲が終わると再び「モルダウ」が始まる。曲調で美穂が弾いていることが分かる。そして更に「モルダウ」が。3連続の3者による同じ曲の演奏だ。どうやら最初に弾いた瞳さんにアドバイスをしているようだ。美穂もピアノを弾き始めてから3年が過ぎている。短い経験ながら人様に教えることも出来るのだろう。時々笑い声が聞こえる。本当にコンクール上位入賞者の皆は感心するほど仲が良い。店のマスターが2階への階段をロープで塞ぐ。おいおい!まだお客がいるぞ!そう思って聞いてみた。「美咲さんの貸し切りになりますので。」申し訳なさそうにそう答えてくれた。
ピアノの音に吸い寄せられるように喫茶店の1階は女子学生たちでいっぱいになった。どうやら美咲さんのピアノ演奏を聴くために来店するらしい。しかし今日は美咲さんの他に瞳さんと美穂がいる。
さすがに流れてきた曲が美咲さんの演奏でないことに気付くお客さんたち。「だれ?誰が弾いているの?」客席のあちこちからそんな声が聞こえる。そのうちお客の一人が気付いたようだ。「さっき、ホールで聴いたよね、この曲調。」「うん。あっ!美穂、美穂ちゃんだ!」
その一声で喫茶店の1階は途端ににぎやかになった。先ほどから「モルダウ」しか弾いていないのだが耳が肥えた皆さんは演奏の違いが分かるようだ。今度は瞳さんだわ。あっ!これは美咲さん!といった具合に大盛り上がりだ。曲が終わるたびに拍手が起きる。
「皆さんこうして美咲さんの練習を楽しんで聴いていらっしゃるんですよ。」コーヒーのお替りを持ってきてくれたマスターが教えてくれた。「お客様、申し訳ないのですが席をカウンターにお移りいただけないでしょうか?お待ちのお客様が大勢いらっしゃるもので、一人でも多くのお客様に入っていただきたくて。本当に申し訳ございません!」深々と頭を下げるマスターに快く席を移動した。すぐさま4人の女子高校生たちが私のいたテーブルに腰を下ろす。
「申し訳ありませんでした。何かサービスさせていただきます。午前中からいらしてますよね。軽食などいかがですか?」マスターに勧められるままチーズトーストをお願いする。
チーズトーストを作りながらマスターは尋ねてきた。「今日はお仕事でおいでですか?」私はコーヒーを飲みながら答える。
「いいえ。小学生の付き添いです。」えっ?と驚くマスター。
「ひょっとして、上の?」そういって2階を指差すマスター。
「はい。」私が平然と答えるとうんうんと頷いた。ずっと不思議に思っていたんですよ。この近くに会社は無いし出かける素振りもないし、なるほど。そういうことだったんですね。」「ははは、そういうことです。」2人で顔を見合わせて笑った。
ちょうどチーズトーストを食べ終わる頃だった。1人の警察官が店を尋ねてきた。普通に会話をするマスター。
「ご苦労様です。今日は防犯パトロールですか?」
「いや。実はご近所から苦情が入っております。人が大勢集まっているが何事かと。」そう言ってマスターと2人で店の外へ出て行った。
再び2人が店に戻って来た。そして2階へ。私も続く。
「あっ!関係者以外は・・・。」制止する警察官に思わず言ってしまった。「いえ!私は美穂の保護者です!」
その一言で1階が大騒ぎになった。しかし構っていられない。
2階に行くと警察官が事情を説明してくれた。どうやら演奏会後にここの喫茶店に美咲さん始め3人がいるとポケベルで発信されそれが広まったとのこと。実際に演奏を聴いた人たちが瞳さん、優太君そして美穂のことをさらに拡散してしまったようだ。
問題は少し離れた駐車場までどの様にして移動するかだ。
「非常階段って何処に出られますか?」美穂がマスターに尋ねた。
家と家の間の小道を使えばその駐車場の脇に出られますよ。私が案内します。」「それでは10分したら私は応援を呼んで群衆を解散させます。」そう言って無線で連絡を入れる警察官。
その手はずで私たちは喫茶店から抜け出した。真っ暗な中をお嬢様2人を連れての大進行だ。しかし4人とも楽しそうだ。やっと駐車場に着く。マスターに皆でお礼を言い、私は自分の名刺を渡した。「お会計はうちで全額払いますからこちらまでご連絡ください。」
「ありがとうございます。おおっ!お父さんはそういうお方でしたか!」
驚くマスターにお礼を言って美咲さんと瞳さんのお宅へ向かう。美咲さんの道案内で暗くなった道を進む。途中で瞳さんが携帯電話で自宅へ連絡を入れる。それに驚かない小学生二人を不思議そうに見つめる瞳さん。「うふふ。実は私たちも持っているんです。」そう言って二人で携帯電話を瞳さんに見せた。「まあ!」
「瞳さん。生意気な小学生でしょ?でも防犯のために持たせているんです。」私がそう言うとくすくすと笑うお嬢様2人。
やがて洋館のような立派なお屋敷に着いた。暗闇の中にそびえる白亜な洋風な建物だ。取り敢えずご両親にご挨拶をと玄関への階段を上がっていく。「しみじみ見ると可愛い車ですね。」美咲さんがそういってわが家の車を褒めてくれた。「はい。ありがとう。実は妻の車なんです。」そう言った会話をしながらやっと玄関に辿り着く。
「2人ともお帰りなさい。」迎えてくれたのはお母さまだ。
「こんばんは。夜分に失礼いたします。」そう言って3人で玄関に入った時だった。
「わ!わあっ!美穂!美穂・・・。あなた!あなた!」そう言って慌てて奥へかけて行った。
「えっ?美穂ちゃんがどうかしたのかしら?」不思議そうな2人のお嬢様。私たちも同様だった。「ひょっとして美穂ちゃんのファン?」さっきの騒動もあり優太君が美穂に囁く。「やだあ!照れちゃうよ。」そう言って恥ずかしがる美穂。
「ほら!あなた!はやく!」そう言いながらお母さまがお父さまを連れて玄関へ戻って来た。
「これはこれは・・・。えっ!美穂じゃないか!どうして?どうして?」お父さまも大慌てだ。
取り敢えず私たちは応接間へ通された。
「実は、その子、美穂は・・・。」そう言いかけたお母さまは瞳さんと優太君と美穂の3人にピアノの練習でもと席を外させた。
「美咲。驚かないで聞いて頂戴。美穂ちゃんはね私の一番下の妹の娘なの。訳があって里子に出したって聞いた時は妹を責めたの。大切なわが子を何で!って。そしたら私よりもっと幸せにしてくれるご夫婦に育ててもらうのが美穂にとって一番幸せななの!って泣いていたわ。今日会って分かったわ。妹の言う通り!幸せそうな美穂を見たときに物凄い安堵感に包まれたわ。育ててくださって本当にありがとうございます。妹とはそれっきり音信不通で。だから美穂が今頃どうしているかと毎日気に掛けておりました。」
「それで!それでなのね!初めて美穂ちゃんに会った時に小学生なのに、あんなにピアノが上手くて、明るくて、とても素敵な子だと思ったの。何だか引き寄せられるように私から声を掛けたの。美穂ちゃん明るく返事してくれたわ。全くおじけるところもなく天真爛漫で。だって大切に育てられている子だって一目で分かりますから。」美咲さんも涙を拭いながらそう話してくれた。
「いや、美穂ちゃんというすごい小学生がいると娘たちから聞いておりまして気にはなっておったのです。名前を聞くと姪の美穂のことを想い出したりしてね。でも!本当に偶然とはいえ強いご縁があったのでしょうな。」
「そういうご事情でしたか。実は私の妻が美穂の才能を一瞬で見抜いたんです。それでお母さんから事情を聴いて・・・。」私は美穂を養女としてうちに来てもらった経過を説明した。
その後、美穂の実父の情報をいただいた。なるほど。美穂の才能豊かな理由が良く分かった。こうして劇的な1日は終わった。
ゴールデンウイーク中は信子と優太ママは地方公演のために出張中であった。そのため優太君はわが家で過ごしていた。昨日の疲れもあるのだろう、今朝は美穂もお寝坊のようだ。
「おはようございます。」先に起きてきたのは優太君だ。
「おはよう。顔を洗っておいで。」私は朝食の準備をしながら優太君に声を掛けた。テーブルに3人分のパン皿とスープ用のカップというシンプルな朝食だ。飲み物は二人にはトマトジュース、自分はコーヒーを入れる。優太君の朝食を先に済ませて練習を始めさせなければ。今日は美穂と二人での練習も予定している。その前に単独での練習をするようだ。
優太君が食卓に座るタイミングでフレンチトーストが出来上がる。
男2人での朝食も悪くはない。昨日の出来事などを話してくれる優太君。美穂との演奏をするにあたり曲数を増やしたいとのことだ。
その為にも練習時間を有効に割り振らなければならない。美穂には自分の練習だけでなく遥香さんとの連弾の練習もあるからだ。
洗面所で物音がする。どうやら美穂が起きてきたようだ。
「おじさん、明日の老人ホームの帰りに楽器店に寄りたいのですが・・・。」遠慮がちに優太君が言う。
「新しいヴァイオリンかい?」私が尋ねると小さく頷いた。
「おはよう!遅くなっちゃった。」美穂は昨日の疲れを全く感じさせない何時もの元気な美穂だった。私は美穂のフレンチトーストを作るために席を立ち台所へ。
「ありがとうパパ。」その何時もの明るい美穂の声を聞いて安心した。
朝食が終わると優太君を追いかけるようにピアノルームへ向かう美穂。一緒に演奏できる曲に磨きをかけるのだと言って笑ってくれた。
後片付けも終え新聞を読みながらまったりと過ごしていると電話が鳴った。結婚式場からだった。明日の16時からの披露宴での演奏依頼だった。早速美穂に確認すると大丈夫とのことだった。美穂も忙しいゴールデンウイーク後半になってしまった。
今日は3人とも早起きだ。午前中は老人ホームでの定時演奏会、夕方は結婚式場でのピアノ演奏、そして優太君のヴァイオリンの購入と盛り沢山だ。お昼過ぎに優太君を迎えに家に戻りどこかで昼食をとることにした。
老人ホームでは皆さんにコンクール第1位のお祝いの言葉と飾り付けに出迎えていただいた。皆さんの手作りの飾り付けは温かみが込められていて美穂が皆さんに愛されているのが良く分かった。
何時ものように懐メロのメドレーを進めてく。そして最後の曲になったところだった。
「リクエスト良いかしら?」一人の老婦人が声を掛けてこられた。
「はい。何という曲でしょうか?」にっこりと答える美穂。
「あのね、美穂ちゃんのお歌が聞きたいの。」まるで子供の頃に帰ったような笑顔で話をされる老婦人。
「美穂ちゃんの可愛いお声で「みずいろの手紙」を歌ってくださらないかしら?」突然のリクエスト、しかも歌唱付きだ。
“そう言えば楽譜に歌詞も書いてあったわ”
おもむろに序奏を弾き始める美穂。マイクは私が美穂の口元へあてがうことにした。美穂の澄んだ歌声が演奏と共に会場に流れる。
会場のお年寄りの皆さんの目が輝く。前回の「乱れ髪」もそうだったが美穂は歌も上手い。それにしても一度見た楽譜に載っていた歌詞を思い出しながら歌うとは。美穂の記憶力には脱帽であった。
歌い終わると割れんばかりの拍手。歌手の美穂の誕生だった。
「お歌のリクエストありがとうございました。今、他にリクエストはありますか?次回までに練習してきますので。」そう言うと早速、「逢いたくて逢いたくて」とのリクエストが。
「いやいや、あなた!小学生の美穂ちゃんには無理だよ!」そんな声も多数上がったが取り敢えず練習してみることとした。
ホームの皆さん方にお礼を言って一先ず家へ戻る。
美穂の衣装を積んで優太君と一緒に出発。
途中でお昼にする。二人のリクエストはハンバーガーだ。この辺はやはり小学生だ。二人で同じものを美味しそうに食べている姿は非常に微笑ましい。
しばらく走り結婚式場に到着。優太君は初めての式場に興味津々だ。
地下駐車場に車を停め、信子に習った通り従業員通用口から中へ。日が良いせいか中は戦場のような忙しさだ。その勢いに押されながら事務室へ。早速フロアマネージャーさんとチーフのお姉さんにご挨拶。
別室にて式次第の打ち合わせ。男女の司会の方々も参加しての本物の打ち合わせだ。美穂は小学生ながら打ち合わせに参加している。それに感心する優太君と私だった。司会のお二人とは今回が2回目とのことでもうすっかり気心が知れているといった感じだ。
2回の新郎新婦の入場には「結婚行進曲」とやはり「キャンユーセレブレート」で、最後のご両親への花束贈呈には「瀬戸の花嫁」を演奏することとなった。
「結婚行進曲」はワグナー編曲のものでよろしいですか?」最後に美穂が確認する。驚く他の4人。
「美穂ちゃん、メンデルスゾーンの編曲のものも弾けるの?」
「はい。」美穂が力強く返事する。
「良かった!弾けないかもしれないってお客様に話してあるの。直ぐに確認します。」そう言ってチーフは走って行った。
「そうか。2種類あるんだ。」司会の男性が続けた。「それじゃあナレーションで誰の「結婚行進曲」だって紹介してあげるよ。」そう言って美穂の肩を軽く叩いた。「ありがとございます。」美穂は笑顔で答えた。打ち合わせの間中優太君は落ち着きが無かった。美穂が気がかりなのだろう。大勢の招待客の中での演奏など自分では想像も出来ないからだ。打ち合わせが終わった美穂はドレスに着替える。
フロアを担当する皆さんに交じって点呼を受ける美穂。皆から声を掛けてもらい嬉しそうだ。既に社会人となった美穂が羨ましい優太君だった。
いよいよ会場へ向かう。こちらを向いて軽く手を振る美穂。
いよいよ開宴だ。クルーさんたちが会場の各扉を開けるのに合わせて美穂のBGM演奏が始まる。さすが美穂、見事な演奏だ。入場して着席する招待客の皆さんがピアノを演奏しているのが小学生だと気づき少しざわつく。すかさず司会者が美穂の紹介をすると「おおーっ!」という驚きの声と同時に拍手が起こった。美穂は演奏しながらお辞儀をしてそれに答える。この辺は信子の躾の賜物なのだろうか。
いよいよ新郎新婦の入場だ。扉にスポットライトが当てられる。それに合わせて美穂の「結婚行進曲」が静かに流れる。ゆったりとしたペースでの演奏だ。歩き難いであろう新婦への美穂の配慮なのだろうか。
新郎のお母さまがしきりに気にして美穂に視線を送っている。しかしその内美穂を見なくなった。恐らく安心していただいたのだろう。
控室でモニターを見ている私たちは粛々と進行して行く披露宴に見入っていた。
お開きとなった後もピアノを弾いて招待客を送り出す。その時、数人の招待客が美穂の元へ。演奏を称賛してくださった。そして記念撮影まで。ピアノを弾きながら笑顔で写真に納まる美穂。何故か美穂が遠くへ行ってしまいそうな気がした瞬間だった。
最後の招待客が会場を出るとクルーの皆さんがあちこちから美穂の元へ。そして美穂を囲んで温かい拍手の嵐。少し照れ臭そうな美穂。
控室に戻って来た美穂を優太君と迎える。
「お疲れさま。」そう言って3人でハグし合う。優太君は美穂をじっと見つめて言った。「素晴らしい演奏だったよ。俺、美穂ちゃんを誇りに思う。」嬉しい言葉だった。美穂は「ありがとう!」と言って優太君に抱き着いた。「わあっ!」嬉しい悲鳴を上げる優太君を羨ましく思った。
そんな時、フロアマネージャーとチーフが入ってきた。
「本日はありがとうございました。お陰様で当方非常に助かりました。それで、本日の・・・。」そう言いながらチーフに目配せした。
前回と同じ大きめのポチ袋だ。「あと、こちらはご両家から“薄謝”をお預かりしております。」チーフはそう言ってポチ袋を3通美穂に渡した。少し驚いた表情の美穂。
「実は美穂ちゃんの評判が非常に良く、今後正式にオーダーが発生した場合の対応について…。」そうフロアマネージャーが美穂の評判に着いて話してくれた。そのうえで是非今後もこの仕事をお願いしたいとのことだった。美穂は頷いて聞いていた。
「失礼ですが。こちらはお兄様でしょうか?」フロアマネージャーが優太君に尋ねた。
「うふっ。優太くん老けて見られてるうー。」美穂がくすくすと笑い出す。
「えっ!ゆ・う・た・・・君?」怪訝そうなチーフ。しばらく考え込む。それを見てフロアマネージャーが言った。
「まさか!学生ヴァイオリンコンクールで1位になったあの?」
「ああ!そうだ!その優太君?」2人で声を合わせるように驚く。
「あっ。はい。そうです。」俯き加減で答える優太君が可愛かった。
結婚式場を後にして優香さんの会社のヴァイオリン専門店へ向かう。
店内はヴァイオリンだらけだ。そう、ヴァイオリン天国だ。
優香さんが教えてくれた店員さんを紹介してもらう。
「いらっしゃいませ。私、香織と申します。」そう言って私に名刺を渡すと二人を見て驚く香織さん。「きゃっ!優太君・・・。そして美穂ちゃん?」さすが音楽関係者、すでに二人のことはご存じのようだ。少し落ち着きを取り戻した香織さんに優太君が話す。
「予算30万円で1挺探しているのですが・・・。」
「そのご予算でしたらこの辺りのものが。」そう言って店の一角へ案内してくれた。美穂も私もヴァイオリンには疎く綺麗なヴァイオリンたちに見惚れていた。
その中の1挺を手に取る優太君。「弾いてみても良いですか?」
“ホ短調”の出だし部分を軽く弾く。それに感動する香織さん。
さらに別の1挺を弾いてみる。「うーん。違うなあ。」納得のいかない優太君に美穂が香織さんに話しかける。「香織さん。力強い演奏に答えてくれるのはどの子ですか?」
「それでしたらこちらがお勧めです。でも、ご予算的に。」香織さんがそう言って持ってきてくれたのは造りが少しクラッシック調の明るい色合いのブラウンの1挺だった。早速弾いてみる。
「あっ!ほら!優太君の音だよ!」音で見極めてしまう美穂。これには優太君も香織さんも脱帽だった。他にも数挺弾かせてもらったがやはりキープしていたこの1挺が最適と思われた。
折角決まったのだが浮かない表情の優太君。値段は40万円弱。予算オーバーだ。残念そうな二人。
「仕方ない。私が買います。」私はそう言って香織さんにクレジットカードを手渡した。少し戸惑う香織さん。
「パパ!弾けもしないのに買ってどうするの?」美穂が不機嫌そうに私に言う。
私は優太君の耳元でそっと囁いた。
「優太君!中古だけど30万円で買わないかい?」
沈んでいた優太君の顔が一瞬で輝いた。
次の日、優太君は朝から新しいヴァイオリンを弾いていた。すごく気に入ってくれたようで私も嬉しかった。
今日は午後から遥香さんの高校の新入生歓迎セレモニーが行われゲストとして招待されていた。早いもので二人がお披露目されてからもう1年が経った、この1年間の二人の成長ぶりには目を見張るものがあった。美穂の演奏レパートリーの拡大、優太君のプロ並みの演奏など様々な要素を吸収しまくる二人だったと思う。
二人で演奏する曲の最後の練習をする二人。練習中も仲の良い二人だ。早めのお昼ご飯は私が作る特製ラーメンだ。特製と言ってもチャーシューが多めに入っているだけのラーメンなのだが。
3人でラーメンをいただく。優太君のどんぶりはチャーシューで覆いかぶされている。それを見て驚く優太君。更にそれを見て大笑いする美穂。優太君はチャーシューが大好物と美穂に聞いていたのだが・・・。
遥香さんの高校へ到着する。それにしても賑わっている。新入生歓迎とはいうものの近隣への交流の場としてオープンにされているとのことだ。職員専用の駐車場に車を入れる。事前に郵送していただいた“駐車許可証”をダッシュボードに掲示して大講堂へ向かう。真新しく改修された大講堂だが造り自体は変わっていない。3人ですたすたと控室へ向かう。懐かしがる二人。1年前、大勢の生徒さんの前でデビューした優太君にとっては特に感慨深い場所なのだ。
控室で実行委員の皆さんとご挨拶。第1位のコンビの登場に盛り上がる控室。遥香さんは丁度演奏中だった。皆さんとの雑談がにこやかに進む。その中で飛び出したのが優太君と美穂のファンクラブの存在だ。しかも部活動として認められているという。信じられないという表情の二人だったが学校案内にも掲載されているのを見てさらに驚く二人。駅前と正門前で皆さん待ち構えているとのことだった。車で来て正解だったかも・・・。気持ちは嬉しいが近隣の方へのご迷惑が気になる二人だった。
遥香さんが演奏を終えて戻って来た。「わあーっ!美穂ちゃんお久しぶり!」そう言いながら美穂の手を掴む遥香さん。「一緒に弾きましょ!」連弾の初披露だ。
拍手の中、2人が並んでピアノの前に座る。「えっ!」会場から驚く声が。コンクール1位の2人が何度も練習した「仮面舞踏会」の連弾だ。もちろん優太君も初めて聴く。息の合った演奏が見事だ。
遥香さんのご近所さんたちが“遥香さんが2人いる!”と驚いた2人の演奏に静まり返る場内。みなじっと聴き入ってくれている。
やがて迎えるフィナーレ。二人の高速演奏も静かに終わった。
と、同時に割れんばかりの拍手が沸き起こる。手を取り合って皆さんにご挨拶する2人。そして引き上げる遥香さんと入れ違いに優太君の登場だ。今度は美穂と優太君の演奏だ。曲は「カルメン幻想曲」だ。二人で夜遅くまで練習していた曲だ。後半の超高速のヴァイオリン演奏が最大の山場だ。
美穂の力強いピアノでそれは始まった。圧倒される場内。そして優太君のこれもまた力強いヴァイオリンの演奏。新しい相棒は二人が思っていた通りの音を奏でる。もう1年前の優太君ではなかった。
余りにも進化し過ぎた優太君の演奏に皆くぎ付けだ。そして最大の山場の超高速演奏だ。それに負けない美穂の指捌き。確実に澄んだ音を奏でていく。「もうプロだわあ!」遥香さんが思わず叫んだ。
満面の笑みを浮かべて二人が戻って来た。練習を重ねてはきたもののやはり超高速のパートがお互い不安だったのだ。しかしやっと演奏を終えて安堵感に包まれる二人だった。そんな二人を遥香さんを含む皆さんに笑顔の拍手で出迎えられすごく幸せを感じる二人だ。
皆口々に最後に凄い2曲を聴かせてもらったと絶賛してくださった。
会場では誰も席を立とうとはしなかった。閉会のアナウンスが流れて我に帰った様におもむろに立ち上がり帰り始めるといった様子だ。
それ程に最後の2曲のインパクトが強烈だったのだろう。
音楽部だけではなく美穂と優太君のそれぞれのファンクラブにも入会希望者が多く詰めかけていた。
「美穂ちゃん、優太君。素晴らしい演奏だったわ。さすが1位同志のコンビね。」遥香さんにそう言われて喜ぶ美穂。
「そう言う遥香さんだって素晴らしい連弾でしたよ。まるで“遥香さんが2人いる”みたいでした。」優太君のその言葉に素早く美穂が反応する。
「うふ。遥香お姉さん、また言われちゃいましたね“遥香さんが2人いる”って。」美穂は続ける。
「遥香お姉さんから正確な演奏を学べなかったら優太君との演奏も成り立たないと思います。遥香お姉さん、本当にありがとうございます。」美穂はそう言って遥香さんの両手を握り頭を下げた。
「もう!美穂ちゃんったら!大袈裟なんだから!」笑いながら涙を流す遥香さんだった。
突然私の携帯電話が鳴った。結婚式場のチーフからだ。どうやらお客様との打ち合わせの最中らしいのだが今から来れないかという内容だった。美穂も確認する。美穂は電話口で話を聞いていた。
具体的な話は美穂の方が早い。私は美穂と電話を代わった。
一通り話を聞くと美穂は「遥香お姉さん、一緒に来てください。」と遥香さんにお願いした。
4人で結婚式場へ向かう。遥香さんは未だ事情が呑み込めていないようだった。私が事の経緯を説明するとやっと理解してもらえた。
「まあ!美穂ちゃんったらいつの間にこのようなお仕事を。」遥香さんが驚くのも無理はない。小学生が結婚式場の演奏をするなど前代未聞だったからだ。しかし美穂は遥香さんや美咲さんと同じ満点を取って同率ながら学生第1位になった小学生だ。ありえない話ではなかった。
話の内容では、格式の高いお家柄同士の披露宴とのことでご親戚、ご招待客の皆さんクラッシク愛好家でいらっしゃるそうだ。演奏者リストにある美穂に興味を持たれ一度会ってみたいということだった。美穂は単独だけでなく遥香さんとのピアノの連弾、優太君とのヴァイオリンとの共演をも視野に入れているようだ。
式場に付くと直ぐに応接室に案内される。私は3人に言った。
「格式を重んじる人は肩書を重んじる。だから自分の第1位であることをさらりと自己紹介で述べること。いいね。じゃあ行っておいで。」私はそうして3人を見送った。
応接室には新郎新婦とそれぞれのご両親がいらっしゃった。
やはり話には聞いていたようだが、実際に小学生2人と高校生ながら幼顔の遥香さんの登場に驚かれたようだ。
そして聞かされる3人の経歴に再び驚く6人の大人たち。
「それでは早速実際の会場へ参りましょう。」チーフの案内で披露宴会場へ。その豪華さに圧倒される優太君と遥香さん。
「何時もの音大の大ホールと一緒ですよ!」そう言って2人の緊張を和らげる美穂。
「3人には申し訳ないけど、私共の親族とお客様はクラッシクしか聴かないと言った方々ばかりなの。是非、皆さんの演奏を聴かせてくださいな。」そう言う新郎のお母さまに美穂が答えた。
「はい。お母さま。」そう言って「結婚行進曲」を弾き始めた。
「まあ!メンデルスゾーン編曲の!」驚き喜ぶ皆さん方。
そのまま「トルコ行進曲」へと移る。弾いている最中に遥香さんに目で合図を送る。すかさず遥香さんが加わり連弾となった。
さすがの6名様も口を開けて驚いて2人を見つめるばかりだ。
「こ、これが学生第1位の実力なのね。すばらしいわ!」思わず新婦が叫ぶ。他の5名様も大満足のようだ。
次の曲は先ほど披露した優太君との「カルメン幻想曲」だ。二人の演奏は6人の心を震わせたのだろう。涙を流して皆さんが聴いてくださった。
演奏が終わるとお母さまが立ち上がってこう言われた。
「全てお任せします。よろしくお願いいたします。」
場所を会議室に変えて新郎新婦と打ち合わせを行なう。
「いやあ、ご3方の演奏、素晴らしかったです。4人とも笑顔で帰っていきました。本当にありがとうございます。」新郎がそう言うと新婦も頷きながら言った。「素晴らしい式になるわね。」
ここで司会の2人も加わり、更に細かい打ち合わせが続いた。
次の週の土曜日は保育園での演奏会だ。優太君に留守番をお願いして遥香さん宅へ向かう。そして遥香さんを乗せて保育園へ。
何時もより人が多い。気のせいだろうか?
「遥香お姉さん、今日は歌います!」突然の美穂の宣言に驚く遥香さん。「はい。遥香お姉さんの「犬のおまわりさん」に合わせてちびっ子たちと歌います。」確かに遥香さんは美穂の歌声を聴いたことが無かった。
何時も通りの流れの中「犬のおまわりさん」を弾き始める遥香さん。
すると美穂がちびっ子たちの前に出て手拍子を取りながら言った。
「さあーっ!皆も一緒に歌いましょう!」「はーい!」喜んで返事をするちびっ子たち。そして美穂の歌が始まる。
「まいごのまいごの子ネコちゃん・・・。」美穂の綺麗な声に遥香さんだけではなく詰めかけていた全員が驚いた。美穂の澄んだ声はマイク無しでも会場の隅までよく聞こえていた。
「オペラ歌手みたい!」「すごい声量!」「天使の歌声だわ!」
遥香さんも演奏しながら美穂の歌声に聴き惚れていた。
ちびっ子たちも突然の“歌のお姉さん”の出現に大喜びだ。
こうして初めての美穂の歌唱は絶賛の中、見事に成功した。
結婚式を翌週に控えた日曜日、何時ものように練習に励む3人だった。遥香さんを送った帰り道、急に美穂が言い出した。ピアノを弾きながら歌を歌いたいと言う。早速郊外にある大手電気店へ向かう。
流石にマイクを手に持つわけにはいかないのでヘッドセット式を探す。ワイヤレス、無線式は良いと思ったが老人ホームには無線を受ける装置が無い。マイクスタンドも考えたが無線式だと着けたまま会場内を移動できる。結局ヘッドセット式ワイヤレスマイクと受信装置を購入することにした。
その帰り道、もう一つお願い事があると言う。
「カラオケに連れて行って欲しいの。」そう言う美穂を優太君行きつけのカラオケ店へ初めて連れて行く。優太君は顔なじみだが、ヴァイオリンを弾くばかりでカラオケで歌ったことはないとのことだった。
3人で受付を済ませると直ぐに部屋に通された。何だかわくわくするような魅惑的な部屋だ。優太君はいつも一人用の部屋を使っているとのことで広めの部屋は初めてだった。
「僕(最近自分の事を俺とは言わなくなった)歌ったことないです。」少し緊張気味の優太君。美穂は興味津々ですでにマイクを持って離さない。最近流行りの通信カラオケで音もすこぶる良好だ。
取り敢えずは接待等で使い慣れた私が「あ」から始まる1曲で歌う。
驚く二人。いやいや、カラオケは場数だ。
次に美穂が曲を選びイントロが流れる。ああ!リクエストのあったあの曲か。小学生の美穂にはどうだろうか。そう思いながら聴いてみることにした。緊張気味に歌う美穂。さすがに音程は外さない。一通り歌い終えた美穂。何やら頷いている。もう曲を覚えたようだ。
「美穂、好きな人のことを想いながらしっとりと歌ってごらん。」
2回目はもうスムーズに歌い続けていく。「恥ずかしがらないで歌に入り込め。切ない気持ちで歌ってみて。」
3回目、あっという間に歌い方を身に着ける美穂。さすがの音楽センスだ。ふと気づくとオーダーを取りに来た女性が中に立っていた。
「ここで晩ご飯にするか。」そう言って二人の好きなものを注文する。
ドリンクバーに向かった二人を見送って思わず想い出のあの曲を入れてみた。丁度二人位の年の頃、信子と歌ったあの曲だ。戻ってきた二人は興味津々で聴き入っている。
「試しに歌ってみようか。」そう言いながらマイクを持つ私。
一人で男女のパートを歌っていく。音楽センスの良い二人は即座に覚えてしまう。そして歌い出す。世代を超えたあの曲だ。
小学生ながら二人とも歌が上手い。とても初めてとは思えなかった。
「銀座の恋の物語」を娘と彼氏に歌ってもらうとは。懐かしさで涙が出そうになる。突然、美穂から聞かれた。
「パパ、演歌の“こぶし”ってどうやって歌うの?」
「うん。この歌を歌ってごらん。」そう言って「アンコ椿は恋の花」を歌ってみせる。「一種のビブラートのようなものかな。」曲の合間に解説をすると二人で頷いている。「歌手によってそれぞれの“こぶし”があるから原曲を聴くのが一番だよ。」
よし!月曜日は寄り道して「逢いたくて逢いたくて」のレコードを探しに行こう。
今日は3人での披露宴への出演だ。余興なしのクラッシックコンサート形式の披露宴だ。初めての参加となる優太君と遥香さん。司会者の2人とチーフ、クルーの皆さんに励ましていただき何時もの2人に戻ったようだ。そしていよいよ開場する。美穂の演奏する「喜びの歌」が流れる中続々と招待客が入ってくる。そして初めてピアノを演奏しているのが幼い美穂だと知り一瞬立ちすくむ。着席してもなお美穂を見つめている。その奥には緊張気味に座る優太君と遥香さんがいる。黒いズボンに白いブラウスが良く似合う3人だ。
徐々に席が埋まっていく。美穂の流れるような調べに誘われるように最後の招待客が席に着く。全員がピアノを弾く美穂に視線を投げていた。司会者の披露宴開始の挨拶と3人の演奏者の紹介が行われる。「おおーっ!」と言うどよめきの中立ち上がり一礼する3人。
いよいよ新郎新婦の入場だ。会場の扉にスポットライトが当てられる。フロアマネージャーが美穂に目線を送る。美穂の演奏が始まる。
メンデルスゾーン編曲の「結婚行進曲」だ。会場内に驚きの声が上がる。いかにもクラッシクらしい披露宴の始まりだ。扉が開き盛大な拍手の中新郎新婦が入場してくる。ややスローテンポなのは花嫁のウエディングドレスを考慮した美穂の心配りだ。厳かに高砂の席に向かう新郎新婦を目で追いながら演奏をフェードアウトしていく。
最初の山場は無事に予定通りクリアできた。暫くは仲人、来賓の方々の挨拶が続く。それでも気が抜けない3人。
いよいよ新郎新婦がお色直しのために退席する時間となった。今日は2人揃っての退場だ。美穂が「メヌエット」を弾く。何時もの美穂の演奏とは違い若干たどたどしい。会場の招待客も驚いた表情を見せる。その中で新婦のご両親だけがにこにこと笑顔で2人を送り出した。司会者から「メヌエット」の説明が行われる。新婦が初めてご両親の前で弾かれた曲だと言う。会場内で「なるほど!」と言う声が上がった。美穂のたどたどしい演奏の意味を理解していただけたようだ。
新郎新婦が戻られるまでが3人の演奏会だ。先ずは美穂の「英雄ポロネーズ」からスタートだ。食事を楽しみながら美穂の演奏に耳を傾ける招待客のみなさん。会話もなく会場に流れるのは美穂のピアノの旋律だけだ。演奏が終わると食事の手を止めて拍手が起きる。立ち上がってお礼の一礼をする美濃。その横に遥香さんが登場する。
二人並んでピアノに手を置く。連弾だ。会場内に「おおっ!」と言う声が上がる。「仮面舞踏会」が流れ始める。まるで同じ人物が2人演奏していると思わせる見事な連弾に耳の超えた方々から驚く声が思わずあがる。小学生と高校生の見事な連弾に思わず食事の手も止まるようだ。曲が終わり2人で立ち上がり一礼する。立ちあがって拍手してくださる方も多く会場内は熱気を帯びてきた。
次はいよいよ優太君の登場だ。ヴァイオリンとピアノの共演に再びどよめきが起こる。美穂のピアノのリードで「カルメン幻想曲」が始まる。優太君の力強いヴァイオリンの演奏が会場を魅了していく。
とても小学生のコンビとは思えない二人の演奏に酔いしれるような会場だった。もう感嘆の声しかあがらなかった。「この曲をこんなに
見事に演奏するとは!」
演奏が終了すると拍手喝采だ。二人で前に出てご挨拶をする。そして遥香さんを呼んで今度は3人で深々とご挨拶をする。見事な演奏に拍手が鳴り止まなかった。
お色直しを終えた新郎新婦の再登場だ。美穂が「渚のアデリーヌ」をたどたどしく弾きは始める。すると新婦の両親がナプキンを目に当てて泣き出してしまった。司会者のアナウンスが流れる。初めてのピアノ発表会で弾いた想い出の曲とのことだ。美穂の演奏が当時のことを想い出させたのだろうか。演奏を終えた幼い新婦をご夫婦で優しく褒めて抱き締められたとのことだった。新婦も歩きながら涙を流していた。そんな涙を新郎がハンケチで拭う仕草が余計に愛しく思えた。
披露宴も後半を迎える。再び同僚やご友人の挨拶が続く。
そして新郎新婦からご両家のご両親への花束の贈呈だ。
美穂が「エリーゼのために」を演奏する。最初はたどたどしく弾いていたが徐々に美穂の演奏に変わっていく。誰でも知っている曲だが、この曲は幼かった花嫁が初めてピアノ教室で習って弾いてくれた曲だ。もう花嫁のご両親は涙、涙で大変な状態だ。それを心配する優しい新郎新婦。周りの温かい拍手に包まれて無事に花束贈呈、ご両親への感謝の言葉が述べられてそのままお見送りとなった。
美穂の「くるみ割り人形のワルツ」に乗ってお開きとなった。
最後の招待客が出られると新郎新婦とご両家のご両親が3人に一礼してくださった。3人も深々と一礼し無事にお開きとなった。
扉が閉まるとフロアマネージャーとチーフを始めとするクルーの皆さんが3人の周りに集まって来た。そして大きな拍手をいただいた。
「こんな披露宴初めてだよ!」口々に賞賛の言葉をいただいた。
緊張が解けたのか遥香さんが泣き出した。それを二人の小学生が慰める。そんな様子に皆笑顔になった。
「こんな素晴らしい披露宴は初めてだよ!」司会者のお2人にも絶賛していただいた。3人にとっては大きな成長であった。
着替えを終え控室に戻ると支配人、フロアマネージャー、チーフの3名がいらっしゃった。お褒めの言葉と“薄謝”を1人2通ずついただいた。驚く優太君と遥香さん。「遠慮なくいただきなさい。」私はそう言って2人を安心させた。
しばらくの間6人での談笑となった。評判の良かった美穂の演奏に加え2人の演奏も大いに評価していただいた。まだまだ若い3人だ。
この先どのように成長していくのだろうか。それが楽しみである。
ゴールデンウイークを挟んだ長かった地方公演から2人のママが帰ってきた。久しぶりの親子の再会に大喜びの二人。しかも美味しい地方のお菓子などのお土産も楽しみの一つだった。
お菓子をいただきながら皆でおしゃべりをする。お互い、話題には事欠かない。
そんな中、優太君が新しいヴァイオリンを披露する。そのヴァイオリンを見た優太ママが怪訝そうに言った。
「優ちゃん、良い1挺を手にしたのね。でも、それってベルギーの老舗有名メーカーのものだよ。高級なヴァイオリンを製造するメーカーだわ。廉価品のシリーズでさえ40万円位はするわ。予算は30万円、差額はどうしたの?」さすがのヴァイオリニストの優太ママの質問に驚く二人。
「ママ、中古品として30万円で買ったんだよ。」答える優太君。
「中古品なの?とてもそうは思えないわ。」
言い難そうにしている優太君に代わって私が説明する。
やっと理解してもらえた。そして差額の10万円弱を払ってくれると言う。しかし、美穂の電子ピアノをプレゼントしていただき美穂が有効に、楽しそうに使っていることを揚げ、相殺と言うことで納得していただいた。
そうするとやはり一刻も早く音を聴いてみたいということになり皆で優太君のヴァイオリンの演奏を聴くことになった。
5人でピアノルームに移動してソファーや椅子に陣取る。ヴァイオリンの音色を楽しむために美穂の伴奏は、今回は無しだ。美穂は初めて聴衆者として優太君の独奏を楽しむこととなった。
演奏が始まる。「チゴイネルワウゼン」、サラサーテの名曲が流れ始める。美穂も私も初めて聴く曲だ。優太君!何時の間に!美穂と顔を見合わせてしまった。お留守番をお願いしている間に練習をしていたのだろうか。
深い音色に包まれながら優太君のヴァイオリンの調べに酔いしれていく。優太ママも大満足のようだ。そう言えば美咲さんが話していた。「優太君の演奏ってもうプロの領域だわ!」
曲が終わり皆で拍手する。優太ママは優太君の演奏の成長ぶりを大いに褒めてくれた。そして続けて言った。
「数あるヴァイオリンの中からよくこの1挺を選んだわね。助けてくれてありがとう、美穂ちゃん。」美穂を見つめて優しく頷く優太ママ。いつもそばで優太君の演奏を聴いてくれている美穂の助言と確信したようだ。
「ママ!良く分かったね。その通りだよ。僕が悩んで迷っていたら美穂ちゃんがこういう音のヴァイオリンが良いと言ってくれたんだ。」嬉しそうに話す優太君。
「美穂ちゃん、いつも優太のことを気に掛けてくれて本当にありがとう!」そう言って美穂にお礼を言ってくださった。美穂は少し照れたようだったが信子にそっと抱きしめられ嬉しそうだった。
この場を借りて美穂と優太君が歌唱を披露することになった。
2人のママは初めて聴く二人の歌声に胸をわくわくさせていた。
二人の何時もの話声からある程度想像できるもののやはり聴いてみたい気持ちが先走るほどだ。
美穂のピアノが鳴る。あの曲だ。序奏を聴いた途端信子の目から大粒の涙が溢れ出る。私たちの想い出の曲、そう!「銀座の恋の物語」だ。しかもガイドメロディー無しのオーケストラバージョンだ。
優太君の甘い歌声が流れる。「わあーっ!」思わず両手で口元を覆い感動する優太ママ。信子はもう涙が止まらない。想い出の曲を娘とその彼が歌ってくれているのだ。こんなに嬉しいことは無かった。
私も同様だった。あの頃が鮮やかに想い出される。幼いながらも大勢のパーティー客の前で大人ぶって二人で歌ったあの時を!
美穂の歌声も素晴らしかった。綺麗に澄んだ声はまるで天使のようだ。小学生の頃聴いていた吉永小百合さんの歌声を彷彿させるほどだ。2人のママがそれぞれの思いで二人の歌に聴き入っていた。それんしても優太君の甘い歌声は男の私が聴いていても惚れ惚れしてしまう。
曲が終わり3人の拍手の中美穂が言った。
「2人とも、私のこぶし回しを聴いてみて。」そう言いながら伴奏を始める。「ええっ!」思わず顔を見合わせる2人のママ。
美穂が弾き始めたのは「みだれ髪」だ。まさか小学生の美穂があの美空ひばりさんの名曲を歌うとは!
先ほどとは違って今度は低音を響かせる美穂。さすが美穂の絶対音感と記憶力だ。名曲を見事にカバーしていく。老人ホームで大うけなのが手に取るように分かったようだ。歌い終えると美穂が言った。
「遥香お姉さんとのデュエットもあるんだよ。」そう言って嬉しそうに微笑む。
「二人ともすごいわあ!」優太ママは大興奮だ。
「本当に、二人とも良い声を持っているわ。そうすると遥香さんとのデュエットも楽しみね。」信子も嬉しそうだ。
「ねえ、優太君も変声期前だし、3人でボイストレーレーニングに通ったらどうかしら。」
次の土曜日は遥香さんが尋ねてくる日だ。バスと電車を乗り継ぎわが家まで通ってきてくれる。
「信子おばさま、ご無沙汰しておりました。」久々の信子との再会に嬉しさを隠せない遥香さん。最近の報告を交えながら皆で談笑する。
その中で信子に相談があるという。それは音大での生活、カリキュラムなどについてだ。
「遥香さん、音大を受けたいのね。」ティーカップから口を離しながら信子が尋ねた。
「はい。私、やっとピアノを弾く楽しさを知ることが出来ました。だから、もっともっと深くピアノに触れていきたいんです。」目を輝かせながら話す遥香さんに思わず見とれてしまう美穂。こんな真剣な遥香さんを見たのは初めてだったからだ。
「遥香さん、良く決心したわね。推薦は学校指定ではなく特別推薦にしましょう。推薦人は私と優太ママの2人です。学校長宛に願書を出しましょう。遥香さんの実力とコンクールでの成績なら大丈夫よ。ただし、課題曲は1曲だけだから十分練習しましょうね。時間を見てうちに来てちょうだいね。私が車で送り迎えするから大丈夫よ。遠慮しないで練習に来てちょうだいね。そうだ、それに合わせてボイストレーニングも。」
「ボイストレーニングって?」戸惑う遥香さん。
「美穂と2人で歌うんでしょ。」信子は嬉しそうに言った。
「えっ!でも私、カラオケでも歌うことが少ないし・・・。」
「だからボイストレーニングで声を出せるようにするのよ。遥香さんも可愛い声をしているから期待大だわね。ねえ、美穂。」信子の話に頷く美穂。「私が遥香お姉さんの声に近づけるから大丈夫だよ。」
今一つ美穂の言う言葉の意味が分からない遥香さんだった。
明日のホームの公演に向けての練習を始めるという美穂。信子もその練習風景を見守ることになった。
今までのクラッシックから馴染みのある懐メロや歌謡曲をピアノで演奏、歌唱を行なうというのだ。平日などは皆さんで歌を歌われているとのことで方向転換を美穂なりに図ったようだ。
ピアノを演奏しながら歌う美穂に感心する遥香さん。
「遥香お姉さん、演奏は私に任せて歌ってみて。」そう言って小柳ルミ子さんの「瀬戸の花嫁」を弾き始める。最初から高音域を必要とする選曲に感心する信子。これで遥香さんの発生音域を知ることが出来る。
遥香さんの歌声は期待通りだった。「何だか美穂の歌声と似ているわ!」そう信子は思った。
「実は、遥香お姉さんとこの歌を一緒に歌いたいの。そう言って序奏を弾き始める。ザ・ピーナッツさんの「恋のバカンス」だ。2人で一緒に声を合わせて歌いたいという。一通り曲を聴いて遥香さんは小さく頷いた。もう歌えるようだ。さすがコンクール1位の実力者だ。歌詞を見ながら正確に音程を取っていく遥香さん。
「ねえ、2人で歌ってみて。」信子に言われて今度は2人で歌い出す。
2人の声質が似ていることもありばっちりの歌声だ。
「2人とも、レコードがあるかもよ。」そう言われて私の大量のレコードコレクションを探す2人。そして2枚を見つけ出す。「恋のフーガ」も練習することにした。レコードを聴いて曲調を学ぶ。
2人の練習の合間にお茶とお菓子の準備をする信子。嬉しそうだ。
そんな時、私が帰宅。新しい、と言っても中古だが、大きな9人乗りのワゴン車を購入したのだ。出入りのハイヤー会社さんに譲っていただいたものでなかなか豪華な造りだ。ガラスはスモーク仕様で外からは覗けない。また冷房効果も高そうだ。今年の夏の高原でのお泊りや日頃の3人の送り迎えに有効に使える。しかも待機中は私のオフィスにもなる優れモノだ。さっそく明日から活躍できそうだ。
2人が練習している間私は車の手入れを始めた。信子は優太君と優太ママを車で迎えに行くと言って自分の車で出かけて言った。
お昼を迎える頃、2人の練習が終わった。午後からは優太君を交えての練習をするという。そんな時、信子と優太君親子がやって来た。
優太ママに挨拶する遥香さん。テーブルに着くと優太ママが遥香さんの両手を握って「音大受験、任せておいて。きっと大丈夫。」と励ましてくれた。嬉しそうに頷く遥香さんだった。
信子と優太ママがお昼の準備を始める。それに加わろうとする優香さんと美穂を2人のママが制す。「4人入ると狭くなるから大丈夫だよ。2人とも座っていてくださいな。」
今日のお昼はサンドウイッチのようだ。テーブルの4人はそれぞれ自分の飲み物の準備をする。楽しい昼食になりそうだ。
朝8:30に遥香さんを新しいワゴン車で迎えに行く。今日は老人ホームでの公演だ。豪華な車に驚く優香さんを乗せて一旦わが家へ戻る。遥香さんを交えて朝食をいただくためだ。既に信子と美穂が準備にかかっていた。甘い匂い、そう!フレンチトーストだ。
4人でいただく朝食もなかなか良いものだ。何時も一人で過ごしていた遥香さんも嬉しそうだ。そして以前に比べて明るくなったように思える。賑やかな朝食を終えると少しの間にティータイム。甘いお菓子とミルクティーをいただく2人。お喋りに余念がない。
そうこうしている間に出発の時間になった。これから4人で優太君と優太ママを迎えに行くのだ。美穂と遥香さんは一番奥の席に、信子は助手席に陣取る。広々した車内は快適そのものだ。BGMでチゴイネルワイゼンを流す。「優太君が弾いているみたいだね。」遥香さんがそう言うと皆も納得した。それ程優太君の成長が顕著なのだ。
マンションの入り口付近で待つ優太君と優太ママの前に黒い大きなワゴン車を止める。開いたドアから2人が乗り込んでくる。余りの広さに驚く2人。しかしすぐにお喋りの輪ができる。そして老人ホームへ到着した。相変わらずの賑わいだ。近隣の方も大勢いらして活況を呈していた。
裏口から入りそっと正面入り口付近にある掲示板を見る。入居者の皆様からのメッセージが沢山貼りつけられており、美穂と優太君が1件1件目を通しメモを取っていく。それが終わるとそれぞれのメモに返事を書いていく。このために30分早く訪れているのだ。
事務室を覗くとみなさん出計らっておられるようで入り口は施錠されていた。これほどの賑わいなら仕方ないのかもしれないと皆で納得した。
業務用エレベーターで控室へ。着くと直ぐに3人は着替える。女子が2人いるので優太君がトイレで着替えるという。その間に私は会場に行きインカムマイク2セット分をセッティングする。
2人のママは会場で立ち見を決め込んだようだ。会場には遥香さんの学園のそれぞれのファンクラブの生徒たちが詰めかけていた。これに驚く2人のママ。そんな中3人が登場しいよいよ開演だ。
何時もの様に美穂の挨拶とメンバー紹介。その都度拍手と声援が飛ぶ。ファンクラブの生徒たちの声援を聞き入居者の皆さんもにこにこと笑顔になっている。
中学生に見える女子高校生と中学生に見える女子小学生、それに中学生に見える小学生男子。妙にバランスが取れている3人だ。
開演を告げる「リンゴの唄」を美穂がソロで演奏する。拍手が起こる。これはもう定番となったオープニング曲だ。
2曲目は「みかんの花咲く丘」だ。今まではピアノ演奏だけであったが今回は遥香さんの独唱バージョンだ。会場内に遥香さんの愛らしい声が響く。「おおっ!」驚く入居者の皆さん、だけでなくファンクラブの面々も同様だった。特に音楽部の皆さんはカラオケでもあまり歌おうとしなかった遥香さんの伸びのある歌声にため息をついていた。歌い終えた遥香さんが一礼して美穂の右側に座る。音楽部、ファンクラブの皆さんから盛大な拍手が起こる。そう、連弾が始まる。ホームの皆さんはなぜ二人で座っているのかが良く分からないようだ。そんな中、学校長のお母さまだけが連弾を察知して大きく手を叩いてくださった。見事な「トルコ行進曲」が流れる。初めて聴く連弾に会場の皆さんは驚くばかりだ。
3曲目は「雨の中の二人」を優太君が歌う。マイクを持つ優太君にファンクラブの皆さんから黄色い声援が飛ぶ。
序奏に合わせて2人のコーラスが入る。それから優太君の甘い歌声が流れる。入居者の皆さんも優太君の甘い歌声に一瞬で虜になったようだ。特におばあさま方が熱心に聴き入ってくださっていた。それにしても3人とも歌が上手い。楽器を奏でているからなのだろうか。
4曲目は2人でピアノを弾きながらの「恋のバカンス」だ。2人の声が似ているせいか完成度が高い。まるでザ・ピーナツさんを彷彿させる歌唱力だ。連弾での演奏も素晴らしかった。会場の皆さんはにこにこ顔で2人の演奏と歌声に酔わされていた。
5曲目は「みずいろの手紙」だ。前回美穂がやっとの思いで弾いて歌った曲。今回は完璧に仕上げてきた。「お元気ですか?・・・。」美穂のセリフで始まる。会場内からきゃあーっ!という声が上がる。美穂が歌い出す。澄んだ天使の様な歌声が響く。もう会場内はうっとりだ。
6曲目は遥香さん独唱の「瀬戸の花嫁」だ。遥香さんの愛らしい高音の伸びが素晴らしい。お母さまが思わず呟く。「何て子たちなのでしょう!」
7曲目は遥香さんがピアノを担当。優太君もヴァイオリンを構える。
ピアノとヴァイオリンの序奏。それだけで入居者の皆さんから拍手が起こった。リクエスト曲の「逢いたくて逢いたくて」だからだ。
美穂の大人びた声が流れる。先ほどの天使の様な歌声とはまた異なる大人な歌声に驚く会場内。併せて美穂の色っぽい歌いまわしにため息が漏れる。とても小学生とは思えない歌唱だ。間奏に入るヴァイオリンの音色も素晴らしかった。
8曲目は遥香さんの「東京のバスガール」だ。レコードを探している時に見つけお気に入りになったという。余りの懐かしさにおばあさま方から「ああーっ!」という喜びの声が上がる。
9曲目は優太君の「旅の夜風」だ。渋い声で見事に歌い上げていく。そして伴奏は2人の見事な連弾だ。黄色い声援が飛び交う。演奏会というよりはもうコンサートだ。
ラスト10曲目は優太君のヴァイオリン演奏で「東京ラブソディー」だ。遥香さんと美穂が会場の両サイドから入居者の皆さんに声を掛けていく。皆さん笑顔で握手をしてくださる。2人も嬉しそうに笑顔で答える。2人が中央部分で出会うとハイタッチ!これにまた盛り上がる会場。優太君の演奏が終わるころ遥香さんがピアノ椅子に座る。そして優太君の演奏を引き継ぐようにピアノを奏でていく。
挨拶に向かう優太君と戻ってきた美穂が笑顔でハイタッチ。優太君の登場ということもありファンクラブを中心に大盛り上がりだ。
美穂も演奏に加わり連弾での「東京ラブソディー」と4パターンの演奏を行う。優太君が揉みくちゃにされながら戻ってくるといよいよヴァイオリンも加わってのフィナーレとなった。
盛大な拍手と歓声の中演奏会は終わった。
3人が控室に戻ると2人のママが飲み物を準備してくれていた。
「お疲れさま。3人ともよく練習したのね。」優太ママが3人に声を掛ける。演奏もだが、公演の内容に感心したようだ。
「本当だわ。演奏も凝っていたし、歌も皆、上手だったわよ。」信子も感心したように褒めてくれた。
笑顔の3人はやり切ったという満足感に浸っていた。もう3人一組のユニットが完成しつつあった。
そんな時、控室のドアをノックする音が。信子が対応する。入って来たのは学校長さんだ。皆で起立してご挨拶をする。
「いやいや、お気遣いは無用です。それにしても、見事な公演会でした。演奏、歌唱、進行、プログラムのすべてが満点の公演でしたよ。入居者の皆さんも十分楽しんでおられました。何でも、ホーム内が明るくなって活気が出て来たとのことです。これも3人のおかげだとホーム長さんに伺いました。本当にありがとう。ところで、遥香さん、もう進学先はお決まりですか?」
「はい!決めております。」はっきりとした口調で答える遥香さん。
「おお!そうですか。」
「学校長さん、実は遥香さんの特別推薦入学願書を後日お出ししようかと思っているんです。」信子に続いて優太ママが話す。
「推薦者は信子さんと私の2名です。」
驚く学校長さん。いや、驚いたのはそのことを知らなかった美穂と優太君も同じだった。
「そうですか、そうですか。実は遥香さんには当校への入学をお願いしようと思っていたのですよ。もちろん“特待生”としてね。」
学校長さんからの予想以上の話に今度は居合わせた全員が驚いた。
「遥香お姉さん!すごーい!“特待生”だって!おめでとう!」真っ先に美穂が祝福の声を上げた。それを皮切りに祝福の嵐となった。
そんな中、再びドアをノックする音が。皆で「はーい!どうぞー!」と声を掛ける。
「失礼します。」そう言って入って来たのはホーム長さんと事務のお姉さん、その後には4,5人の男性たちが続く。
「お3方、お疲れ様でした。それにしても見事な演奏でした。もうみなさん感激されてお部屋へ戻って行かれました。ありがとうございます。あっ、こちらは“音楽療養師”の方々で本日はどうしても見学をされたいとのことでおいでになっていらっしゃいます。」ホーム長さんによると入居者の皆さんの健康状態がすこぶるよろしいとのこと、併せて皆さん明るくなられたとのこと。この要因は美穂たち3人による演奏会、つまり音楽の効果ではないかと思われているとのことだ。積極的な外部の人との交流が大きな要因などだろうとのことだった。暫く皆さんと意見交換、雑談をした。遥香さん、最初は遠慮していたものの次第に雰囲気に慣れて活発に意見を述べていた。
「遥香さんお姉さんになったわね。」2人のママの共通の感想だった。
最後に学校長さんとお母さまのお部屋へご挨拶に行く。
「まあーっ!皆さんお揃いで!」大喜びのお母さまは真っ先に今回の演奏会を褒めてくださった。演奏もだけど、3人のお歌が見事でした。それぞれ良い声を持っていますね。遥香さん、あなたは童謡や文部省唱歌を歌うと映えるお声よ。優太さん。そろそろ変声期ね。もっと渋い声が出せるようになるわよ。橋幸夫さんのお歌、良かったわよ。最後は美穂さん。色んな声が出せるのね。でも今は声をつぶしてはダメよ。優太さんと同様に変声期を終えるまでのどに負担を掛けないようにね。それと、遥香さんと美穂さん。お互いの弱い部分を連弾で見事にカバーしましたね。特に遥香さんの演奏が楽しく弾むように聞こえます。ごめんなさいね、長々と。遥香さん!音大に来てくださいな、お願いします。」そう言って深々と頭を下げられるお母さま。そんなお母さまに涙を流しながら「はい。私!音大を受験させていただきます!」と告げた。
「まあ!嬉しいわ!」お母さまも涙を流しながら喜ばれていた。
「最後に、信ちゃん。3人にボイストレーナーを付けてあげて頂戴。
この子たちは音大の宝物ですからね。」信ちゃんという言葉に信子とお母さまの親密な関係があると思った。
訪問を終えた3人はすごく嬉しそうだ。美穂が信子に尋ねた。
「ねえ、ママ。ママとお母さまってどういう関係なの?“信ちゃん”っておっしゃってたから・・・。」美穂は不思議そうだ。他の二人も同様にお母さまの“信ちゃん”が心に引っかかっていた。
「うふふ。それはね、お母さまはママの音大時代の専任教授だったの。」信子は懐かしそうに話してくれた。
「そう、母の最期の愛弟子が“信ちゃん”なんだよ。どうしても自分が“信ちゃん”を育てるって言ってねえ。だから美穂ちゃんが気になって気になって。そんな時“信ちゃん”は美穂ちゃんをよろしくって挨拶に来てくれてね。母さんは飛び上がるほど喜んだそうだ。」
遠くを見つめる様に話す学校長さんの言葉に全員が頷く。
車寄せに音大の学校長専用車が待っていた。学校長を迎えるためにドアを開けて待つ運転手さん。学校長さんが後部座席に収まると軽くドアを閉めて小走りで運転席へ戻る。その時信子が運転手さんに小さなポチ袋を握らせた。「あっ!信子さん!いけません!」運転手さんは慌てて信子にポチ袋を返そうとする。「いいえ、田中さん。お休みの日に遥々ありがとうございました。音大に戻ったらどこかで一息入れてください。お気を付けてお願いします。」信子も顔なじみの運転手さんのようだ。何度も頭を下げて運転席に乗り込む運転手さん。車はゆっくりと動き出しホーム長さんを始め、居合わせた一同全員でお辞儀をして学校長さんをお見送りした。
「おじさんってあんなに偉い人だったんだね。」美穂がぽつりと言う。
「美穂ちゃんだけだぞ、学校長さんを”おじさん”って言うのは。」優太君が笑いながら美穂を小突く。一同大笑いとなった。
今日は遥香さんとのレッスン日。来週の保育園での演奏会の仕上げになる。今までの演奏主体から童謡の歌唱へ大きく舵を切る予定でいた。遥香さんの愛らしい伸びのある歌声を十分楽しんでもらえたら、そう思う美穂だった。美穂の伴奏で遥香さんが歌う。
2人の練習は順調に終わった。もうお昼だ。お昼過ぎには優太君がやってくる。お昼ご飯の準備は2人に任せてワゴン車で優太君を迎えに行く。優太君のマンション入り口は数人のファンの皆さんが出待ちをしていた。申し訳ないと思いつつ裏口から優太君を連れ出す。
家に戻るともう昼食の準備が出来ていた。4人でパンケーキをいただく。午後からは優太君の練習時間だ。和やかな時間が流れる。
「そうだ!今年の夏合宿だけど、3人とも予定はどうかな?」私が口を開く。
「さ、3人って、私もですか?」遥香さんが嬉しそうに尋ねる。
「あっ!そうか!遥香さんにはまだ説明していなかったね。」私は概要を遥香さんに説明する。
「遥香さん、来ていただけますよね?」優太君のごり押し気味のオーダーだ。
「はい。ありがとうございます。参加させていただきます。」快い返事が返ってきた。
「良かったあ!これで連弾が出来るね。」大喜びの美穂の声がリビング中に響いた。
お昼ご飯も終わり優太君はピアノルームへと入って行った。
3人でお茶とお喋りを楽しんでいた時遥香さんの携帯電話が鳴った。
席を外し廊下へ出て何やら話し込んでいる。
一旦電話を終え遥香さんがリビングに戻って来た。
「遥香お姉さん、電話終わったの?」美穂が尋ねる。
「うん。実は美穂ちゃんに相談があるの。」遥香さんが言うには、生徒会長からの電話で、学園のアニメ研究部が友好関係のある他校のアニメ研究部と交流会を催すとのことだ。その中で女の子向けのアニメソングを歌ってくれないか?という話だった。どうやら市の文化センターで行われるようだ。市内の各高校が参加するという。
「わあーっ!楽しそう!遥香お姉さん、やりましょうよ!」美穂は乗り気だ。そんな美穂に後押しされて遥香さんも気持ちを固めたようだ。早速その旨を電話で伝える遥香さん。
「今から来れますか?って言ってるけど・・・。」少し困った顔をする遥香さん。
「遥香さん、遠慮しないで。送って行くよ。何処まで?」私の言葉に安心したのか続けて話し出した。
そんな訳で、優太君にお留守番をお願いし、指定された学園近くの喫茶店へ。休日ということもあり広い店内は貸し切り状態だ。
可愛い柄に塗られたグランドピアノが部屋の隅に置かれていた。それが気になる美穂だったが先ずは打ち合わせだ。
各高校が集まる地元では有名な交流会のようだ。
「実は、この2曲を歌って欲しいの。本当はコーラス部にお願いしていたのだけど予選大会と日程が重なってしまったの。」と生徒会長さんが経緯を話してくれた。「あとね、当日はコスプレでお願いしたいのよ。だからファッション研究部の部長に採寸をお願いいたのよ。」そう言って部長さんを紹介してくれた。
「実はね、歌っていただきたいのはこの2曲なの。」そう言って2枚のレコードを取り出して見せてくれた。それは「アタックナンバーワン」と「エースをねらえ」の2曲だった。早速店長さんにお願いして曲をかけてもらう。真剣な表情で聴き入る美穂。遥香さんも同様だ。
「ピアノお借りします。」そう言ってピアノの前に座る美穂。
おもむろに弾き始める。序奏から完璧に弾いていく。居合わせた皆が驚く中、2曲目も弾き始めた。
「ねっ?私が言っていた通りでしょ?」遥香さんも感心しながら生徒会長に耳打ちした。余りの出来事に言葉もない皆さんだった。
弾き終えた美穂が遥香さんに言った。「遥香お姉さんは「エースをねらえ」をお願いします。私は「アタックナンバーワン」を歌うわ。
そう言うが早いかバッグから五線譜ノートを取り出し楽譜を作成していく。これには再び皆が驚く。やや荒っぽいながら楽譜が完成。
さっそく遥香さんが弾き始める。見事なカラオケバージョンの出来栄えだ。遥香さんは確実に美穂の楽譜を弾いていく。
「こ、この子たちって?」マスターが思わず呟く。
遥香さんの演奏を聴きながら今度は「アタックナンバーワン」を譜面に落としていく。先ほど聴いたレコードの演奏を想い出しながらの作業だ。併せて歌詞も記入していく。一旦遥香さんから譜面を回収して歌詞を記入。これで準備万端だ。
「すごいわあ!1度聴いただけなのに!」皆が感心する。
「これが出来るのは美穂ちゃんと・・・。」遥香さんが一瞬口を止めた。
「えっ?美穂ちゃんと・・・誰?」生徒会長さんが尋ねる。
「うん。美咲さん!」
今日は忙しくなりそうだ。午前中は保育園での公演、午後からはアニメ研究部員としての交流会に参加する。
保育園では何時もの入場に続いて遥香さんの童謡を披露する。愛らしい声と優しい仕草での歌唱にちびっ子たちからはたくさんの拍手をいただいた。まるで歌のお姉さんのような2人だった。特に「ドレミの歌」と「犬のおまわりさん」が好評だった。見学されていた園長さん他の皆様方からも盛大な拍手とお褒めの言葉をいただいた。
園児のちびっ子たちも加わってのお見送りを受けてアニメ研究部の交流会会場である市民文化センターへ向かう。途中でハンバーガーショップのドライブスルーに立ち寄りお昼ご飯を調達して車内でいただく。美味しそうにハンバーガーを食べる二人をルームミラーでチラ見していると本当の姉妹なのではと錯覚してしまう。
市民文化センターに到着。取り敢えず2人を降ろして駐車場で待機する。ピアノの有無を確認するためだ。私がお昼を頂きながら待っていると美穂から電話が入った。ピアノはあるとのことだ。
会場内に入るとかなりの参加者で活況ぶりが伺える。参加校は6校で順番にステージにて発表していくようだ。遥香さんの学園の高校は幹事校ということで最後のトリを飾る。なるほど、アニメ研究部だけでなく生徒会他の皆さん方の意気込みが高いのも頷けた。
2人は更衣室へ案内された。そこにはファッション研究部の皆さんが既に待機していた。これから2人のコスプレ衣装への着替えが始まる。更衣室で淡いブルーのレオタード姿になった2人が出てくると着付けが始まる。白い短パンを履かされる。そして同色の巻きスカートを着けられる。ブルーの刺繍が施された光り物入りの短か目の羽根の付いたベストを着させられる。どんどん変身していく。白いレースのアームカバーと手袋、やはり白いエナメルの靴とハイソックス。髪は高い位置でのポニーテール、そこへ大きなブルーのリボン。次は巻きスカートの上にラメが輝くレースの生地を巻き着ける。最後の仕上げは派手目なお化粧だ。そして、見事に“ティンカーベル”に変身した2人。その可愛らしい姿をカメラに収めていく写真部のメンバーたち。皆口々に「かわいい!」を連発している。ファッション研究部の皆さんも想像以上の出来栄えに驚いていた。本番を前に皆で記念撮影をしたりと大盛り上がりだ。どうやら発表のテーマは“スポコン少女アニメ”のようだ。発表の締めに2人が登場しテーマ曲を歌うのだ。
つつがなく研究発表が終わると両舞台袖から2人が登場。
どよめく場内。男子高校生たちの喜ぶ声と「かわいい!」と叫ぶ女子高校生たちで興奮のるつぼと化していた。中には立ち上がっている面々も見受けられた。そんな中美穂がマイクでご挨拶。そして遥香さんがピアノの前に座る。おもむろに序奏が始まる。
「おおーっ!」と歓声が上がる。
美穂の「アタックナンバーワン」だ。伸びのある綺麗で、力強い歌唱に圧倒される場内。見事に歌い上げた美穂が一礼すると割れんばかりの拍手が起こる。そんな中遥香さんと入れ替わりピアノの前に座る美穂。そして弾き始める。今度は遥香さんの「エースをねらえ」だ。愛らしいながら力強い歌唱で会場内を魅了していく。会場内の熱気は最高潮に達していた。2人の歌唱力に感激して涙する人たちも多かった。こうして無事にアニメ研究部の発表は終了した。
2人が舞台袖に戻ると皆が駆け寄り祝福してくれた。
着替えるのかと思っていたが2人ともこのまま帰るとのことだった。
遥香さんを家の前で降ろす。暫くしてお父さんの驚く声が車の中まで聞こえてきた。美穂と一緒に笑ってしまった。
わが家に付くと美穂は一目散にピアノルームへ向かう。そっとドアを開け中へ。突然のティンカーベルの出現に「わあーっ!」と驚き2,3歩後ずさりする優太君。しかしティンカーベル姿の美穂をじっと見つめ「か、かわいい!かわいすぎる!」と言って両手を広げる。
そんな優太君の胸に飛び込む美穂だった。
翌日、市内の高校では遥香さんと美穂の話題で持ちきりだった。
当然、名前も公表されておらず、ただ遥香さんが通う学園の中等部のコンビであろうという漠然とした情報がまかり通っていた。
中学生に見える遥香さんと中学生に見える小学生のコンビだとは気づかれてはいなかった。遥香さんの通う学園ではかん口令が敷かれており大騒ぎには至っていなかった。美穂と遥香さんは2人揃っての外出は避けるように示し合わせた。お互いの家を行き来し練習に励むこととしたのだった。
遥香さんはお世話になった生徒会、音楽部、アニメ研究部、ファッション研究部、写真部へお礼を言って回った。何処の部でも2人の歌唱と衣装が話題になり遥香さんは嬉しかった。撮影された写真を見せてもらうと派手派手な化粧のためはっきりとは遥香さんと美穂の区別は難しかった。それ故「ホント、双子ちゃんみたい!」皆さん共通の意見だった。「少し背が低いのが美穂ちゃんだよね?」それ位の瓜二つのコスプレ姿だ。美穂に渡すため数枚の写真を分けてもらう遥香さん。生徒会の渉外係の生徒が生徒会室に入ってきた。電話交換室には2人の問い合わせ電話がかかってきているという。生徒会の方針と学園側ボ方針は一緒とのことで“学校外のサークル活動の一環であるため人物の特定は難しい”と応じるとのことだ。確かに参加者以外は2人の素性を知る者はおらず事態が収まるのを待つことが賢明であろう。
そんな中、信子が推薦入学の申込用紙と特待生申請用紙を持ち帰ってくれた。「お買い物に行くときに遥香さんに渡しに行こうね。」信子の提案に「うん!」と頷いて早速遥香さんに電話を入れる美穂。
相変わらず一人でいるという遥香さんをわが家へ招待することにした。「晩ご飯、一緒に済ませましょう。」信子の提案に大喜びの遥香さんだった。今日は優太君は練習休みのようだ。そう、信子が家に居るということは優太ママも家に居るということだ。
遥香さんを迎えに行き何時もの大型スーパーで買い物をする。3人でいると母親と2人姉妹と見間違えるほどだ。周りにいる人も親子だと認識しているようだ。遥香さんの好きなものを作ろうと意気込む信子と美穂。普段外食しかしていない遥香さんにとってはとても嬉しい家庭の味だ。
「遥香お姉さん、何が食べたい?」美穂がスーパーのかごをカートに乗せながら尋ねる。「あのね、すき焼きが食べたい!」
買い物を済ませて家は戻り、取り敢えずのティータイムだ。
遥香さんがアニメ交流会の時に撮影された写真を披露する。
「まあ!2人とも可愛いこと!」信子がにこにこ顔で写真を見つめている。「えっ?こっちが遥香さん?あら、こっちが美穂なの?」母親でさえはっきりと分からないくらい瓜二つな2人のティンカーベルだ。
「うーん、こっちが私だっけ?」美穂も自信なさそうだ。
「やだ、こっちが美穂ちゃんだよ。」そう指差して笑う遥香さん。
「そう言えば遥香さんのお父様、すごく驚いていたわよね。車の中まで聞こえたもの。」美穂が笑いながら話すと遥香さんも笑い出した。
「私もあんなに驚いたパパとママを見たのは初めて!」そう言って続けた。「しばらく写真撮影になったの。もう、しつこいくらい。」そう言ってまた笑う遥香さん。つられて笑う信子と美穂だった。
夕食まで2人でピアノと歌の練習をすることとなった。今日は連弾がメインだ。レパートリーを増やしたいのと優太君の歌唱の伴奏を2人で弾いてみようという試みもあった。オーケストラ部分を2人で担当しようということか。
すき焼きはダイニングテーブルで作る。
最初に牛肉をラードで軽く炒め醤油と砂糖で味を付ける。関西風のすき焼きに驚きながらも興味津々の遥香さん。焼き豆腐としらたき、野菜と加え煮えるのを待つ。生卵を器に溶いて準備完了だ。
「いっただきまーす!」取り箸を使って遥香さんからよそっていく。
初めて食べる関西風のすき焼きだ。「わあーっ!おいしい!」遥香さんの第一声に喜ぶ信子と美穂。「たくさん食べて頂戴ね。」
こうして団らんの時は過ぎて行った。
夜遅くならないうちに遥香さんのお宅へ伺う。まだご両親は帰宅されておらず、推薦遊学のための2通の書類を遥香さんに委ねる。
推薦人欄には2人のママの署名と捺印が既に押されている。
「何から何まで本当にありがとうございます。あと、すき焼きごちそうさまでした。」と恐縮する遥香さん。
「遥香さん、しっかりと自分の言葉でお父さまとお母さまにお話しするのよ。」そう言って信子と美穂は帰路に就いた。
朝、信子の携帯の電話が鳴った。久しぶりの優香さんからだった。2人でお邪魔したいとのことだった。
誰だろうと皆で話しているとインターホンのチャイムが鳴った。
玄関まで出向いた美穂が驚きの声を上げている。信子と私も急いで玄関へ向かう。
「こんにちは。極沙汰しておりました。」優香さんだ。そしてその後ろには碧さんが!何故だか分からない私たち3人。信子は今にも泣き出しそうだ。リビングへお通しして話を伺う。
優香さんは大手の楽器メーカーに勤めておりこの度スクール事業を強化する仕事を任されたとのこと。全国のピアノの教室などを訪問し提携をお願いしているのだそうだ。そんな折り碧さんのスクールを訪れ教室の皆さんが弾かれている曲調が信子のものに似ていると思い碧さんに同じ曲調を奏でるプロがいると話したのがきっかけとのこと。お互いにそれが信子であることを知り驚いたと同時に親近感を覚えたようだ。今回は本契約のために碧さんが上京、仕事終わりに尋ねて来てくれたそうだ。
「信ちゃんお久しぶり!陽子ちゃんや夏帆ちゃんの件ではお世話になりました。」夏帆ちゃんはウイーンで交換留学生としてレッスンに励んでいるとのこと、また、陽子さんはめきめき上達し、今では後輩の指導までこなしているとのことだ。併せて、これも美穂のおかげだとお礼を言ってくださった。美穂はなぜお礼を言われるのかが分からずポカーンとしていた。
「コンクールで皆さんと仲良くなれたことがすごく嬉しかったようでね、東京から戻って来てから人が変わったように明るく快活になったの。美穂ちゃん!本当にありがとう!」そう言って微笑んでくれた。美穂は少し照れたようで思わず信子に寄り添っていた。そんな美穂の肩を優しく抱き寄せる信子だった。
「私からは、結婚式場のお仕事ありがとうございます。チーフに電話したら3人ともすごく評価が高くて、プロ並みだって言われてとても嬉しかったわ。でも、まだ小学生だし無理だけはしないでね。」優香さんは嬉しそうに話してくれた。碧さんは驚きを隠せない表情でその話に聞き入っていた。
そんな折り、玄関を開ける音が。優太君だ。今日は優太君と美穂の練習日なのだ。
「碧さん。プロのヴァイオリニストのお出ましよ。」優香さんがこれまた嬉しそうに碧さんに話しかける。
「こんにちは。いらっしゃいませ。」そう言って入ってきた優太君。碧さんとは初対面だ。
「初めまして。優太と申します。」小学生とは思えない丁寧な挨拶に少し驚く碧さん。そして、「ゆ・う・た君?ヴァイオリニスト?」しばらく考え込む。「ああーっ!ヴァイオリン学生ナンバーワンの優太君!」手を叩いて思わず立ち上がる碧さん。「わあーっ!美穂ちゃんとお友達だなんて!素敵な二人だわあーっ!」すっかり興奮気味の碧さん。
「優香さん、ヴァイオリンの件ではお世話になりました。ありがとうございました。」優香さんにお礼を言う優太君。
「いやあーっ。標準語を喋る男の子ってカッコいいわあ!」碧さんの言葉に一同大笑いだった。
ピアノルームへ向かう二人を見送って、話はなおも弾む。
「あれ?音が聴こえないわね。遠慮してくれているのかしら?」碧さんがそう言ってピアノルームの方へ首を向ける。
「いえいえ。完全防音なの。だから24時間練習に使えるのよ。でも深夜はパパのオーディオルームになっているけど。」信子が笑いながら説明する。そしてインターホンで美穂に話しかける。
「美穂ちゃん、練習が終わったら1曲聴かせてくださいな。」
しばらくして大人4人でピアノルームへ移動。想像以上の広さに驚く碧さん。
「二人とも腕を上げたんでしょ?聞いているわよ。」優香さんは楽しみのようだ。
「それでは今練習中の「ハンガリー舞曲」です。お聴きください。」
直ぐに美穂のピアノから演奏が始まる。グランドピアノのただならぬ音に身震いする碧さん。「立派なピアノだと思っていたけど!まさか?」更に美穂の演奏に身体を震わせる碧さん。「以前自分の教室で弾いてくれた美穂ちゃんじゃない!明らかに進化し過ぎている。小学生、いや高学生の域をも完全に超えているわ!」そう思う間もなく優太君のヴァイオリンの演奏が始まる。「なに?この音色!この子も小学生とは思えない演奏をするわ!とんでもない二人が共演している!」碧さんは余りにも二人の見事な演奏に打ちのめされていた。
それ程衝撃的な演奏だったからだ。
隣にいた優香さんも同様だった。暫く留守にしていた間にこんなにも進化できるのか!という気持ちでいっぱいだった。
併せて聴いていくうちに誰の編曲だろうかと思う2人のゲスト。
演奏が終わると4人全員が立ち上がって拍手を送った。
「一つ聞いても良いかしら?この編曲者はだれ?」碧さんが尋ねる。
「うふ。美穂の編曲なのよ、碧さん。」信子の返事に唖然とする碧さんだった。
「あと、そのピアノって・・・。」続けて質問する碧さんに信子が説明する。
「そうか!信ちゃんがおばあちゃん家のピアノさんが大好き!って言っていたピアノなのね。」そう言われると信子も懐かしさが込みあげてきた。
「二人に会えて、演奏も聴けて嬉しかったわ。こんな小学生がいるなんて!日本って広いものだと感じたわ!」そう言って帰路に就く碧さんと優香さんだった。
その週の平日、遥香さんは職員室を訪れていた。担任の先生と音楽部顧問の先生を交えて音大進学希望であることを伝えた。特別推薦をしていただき、特待生認定の申請も行う旨伝えた。驚きながらも大喜びの職員室。すべての先生に「がんばれよ!」と激励していただき、力強く「はい!」と返事する遥香さんだった。
遥香さんはその足で音大へ向かう。
都心に向かう電車の中で遥香さんをじっと見つめる2人の男性。
遥香さんは気づいてはいない。乗換駅でも距離を置いて後をついてくる。遥香さんが音大に入ると男性2人は足早に去っていった。
遥香さんは入り口の門で入門手続きを行う。「お名前だけで結構ですよ、遥香さん。」そう言って守衛さんたちが門を開けてくれた。ピアノコンクールの常連、もう顔も知れ渡っている遥香さんだった。
事務局窓口で2通の書類を提出。書類を見た受付のお姉さんの表情が変わった。直ぐに応接室へ通される遥香さん。暫くして現れたのは学校長さんだった。緊張気味の、立ち上がって挨拶する遥香さんに着席を勧める学校長さん。さすがお嬢様の遥香さん、身のこなしは完璧だ。そんな遥香さんに優しく話しかける学校長さん。
「今日は信子お姉さんに課題曲を見ていただくんです。」そう言って嬉しそうな遥香さんに目を細める学校長さん。
「信ちゃんなら安心だね。信ちゃんは人に色を付けないからね。あっ、難しかったかな。人に自分の手法を押し付けない、つまりその人の弾き方を重んじるという教育方針なのだよ。だから遥香さんもまだまだ伸びる。選考会が楽しみになって来たよ。」
遥香さんの緊張もほぐれてきたところで学校長さんがお昼ご飯に誘ってくれた。「はい。ありがとうございます。喜んでご一緒させていただきます。」明るく返事する遥香さん。遥香さんは学食での昼食を想像していたのだが・・・。
遥香さんは学校長専用車へ案内された。先日ホームでお見送りしたあの車だ。学校長さんがシートに身体を収めると反対側のシートへ案内される。さすがお嬢様の遥香さん。そつなく身をこなす。
2人を乗せた車はとある高層ビルの地下エントランスへ。
そこで車を降り専用エレベーターに乗る。VIPカードをかざさなければ扉が開かないシステムのようだ。ものすごい勢いで最上階へ向かう。着いた先は別世界だった。高級感あふれるフレンチの名店だ。
しかし遥香さんは落ち着いたものだ。学校長さんもその落ち着きぶりに多少面食らっていた。直ぐに受付を澄ます学校長さん。
「あっ!遥香お嬢様、ご無沙汰しております。」受付の女性が学校長さんだけでなく遥香さんにも挨拶してくださる。
「遥香さん!ここ、良く来るの?」驚いて尋ねる学校長さん。
「はい、時々父と母と参ります。」微笑みながら答える遥香さん。
窓際の席に案内されるのだが、愛らしい制服姿の遥香さんは人目に付き過ぎるようだ。店内の視線を独り占めだ。
咳ばらいをしながら一人の紳士が2人の元へ。
「あっ!パパ!」遥香さんが声をあげる。
「えっ?パパ?」面食らう学校長さん。
「お前、学校も行かず何をしている!」強い口調のお父様。
「やだ!パパったら。今日は進学と就職活動での大学・会社訪問の日だよ。あっ、こちらは音大の学校長さん。お食事に誘っていただいたの。」状況を的確に説明する遥香さんにパパもたじたじだ。
「あっ!初めまして。遥香の父でございます。」
「いえいえこちらこそ。音大学校長でございます。」
大人のやりとりでの名刺交換だ。お父さまはお客様といらしているとのことで早々に自分の席に戻って行かれた。
「そうか、このお店はお父さまの行きつけでもあるのだね。」学校長さんの顔に笑みが戻った。
2人でランチのコースを頂く。食事マナーも完ぺきな遥香さんに改めて感心する学校長さん。
「お食事中失礼致します。私こういう者です。」そう言ってダンディーな紳士が2人に近づいてきた。さっと名刺を2人に渡す。その名刺は大手芸能プロダクションの副社長の肩書が。じっと名刺を見つめる遥香さん。続ける副社長さん。
「先ほどからお嬢様を拝見させていただいていました。身の素振り、ルックス、話し声と言葉使い、申し分ありません。ご興味がおありでしたら是非私共へご連絡ください。」そう言って足早に自分の席に戻って行った。
「やれやれ。ここでもガードし切れなかったか。」苦笑する学校長さん。実は昼下がりや放課後の女子大生や女子中高生へのスカウトが音大でも問題になっているとのこと。特にある程度顔が知れている遥香さんや美穂、優太君には注意を払っているとのことだった。
「遥香さんが一人で歩いて来たって言うからびっくりしちゃってね。でもまさか、ここでスカウトされるとは。しかもスカウトマンではなく大手タレント事務所の副社長からとはね。」苦々しい表情ながらちょっぴり嬉しい学校長さんだった。当の遥香さんはキョトンとした表情で名刺を眺めていた。
「会社のトップの人からのスカウトなどなかなかあるものではないよ。記念に取っておきなさい。将来役に立つかもね。」そう言って食事を続ける学校長さんだった。
会食を終えて音大へ戻る。
「私はここで降りるけど遥香さんはこの車で戻ってください。」そう言う学校長さんに車外へ出て食事のお礼を述べ深く一礼する遥香さん。にこにこと手を振りながらそれに答える学校長さんだった。
遥香さんを乗せた学校長専用車が走り出す。行き先を信子お姉さん宅と告げると何の躊躇もなく向かってくれる。
「信子様は学生の頃から存じ上げております。」そう言う運転手さんからは信子の音大時代の話をいくつか聞かせていただいた遥香さん。
信子に近づけた喜びを噛みしめていた。
やがて学校長専用車はわが家の前に停まった。
何事かと信子が玄関まで顔を出す。走り去る学校長専用車。
そしてそこに立っていたのは遥香さんだった。勘の良い信子は遥香さんの推薦入学関係の書類提出が無事に終わったことを察知していた。遥香さんをリビングに通し状況を尋ねた。音大での出来事、学校長に昼食を御馳走されたことなどを信子に報告する遥香さん。
「あら、良かったじゃないの。」そう微笑みながら紅茶を入れる信子。
“遥香さんの特待生入学はもう決まりね”そう思うと一人で喜ぶ信子だった。しかし、選考会で無様な演奏は絶対避けなければならない。その為にも課題曲のレッスンを少しでも早く進めておきたかった。なぜなら、推薦遊学の選考会とピアノコンクールの日程が近いからだ。併せて2件の演奏準備、曲数で3曲の練習が必要だからだ。
「お茶を頂いたら早速始めましょうね。」信子に言われ「はい。」と元気に返事する遥香さんだった。
ああ!昭和は遠くなりにけり!第5話 @dontaku
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