嵐の予感 1

 重なった木々の枝葉の隙間から、星が瞬いているのが見える。

 夜の森である。


 ティグラは樹上にいた。周囲は暗く、彼の姿を発見するのは容易ではないだろう。


 息を潜めて周りの様子をうかがう。敵が近くにいるかもしれない。やられる前にやる。ティグラは目と耳を鋭く働かせた。


 がさりと音がした。眼下を敵が通った。ティグラには気づいていない。


(――やれる!)


 ティグラは木の上から降って敵を襲った。


 ひとつミスをした。落ちる際に葉擦れの音をさせてしまったのだ。気づいた敵が頭上を見上げ、落下してくるティグラを見つけた。


 剣と剣がぶつかり合い、暗い森の中で一瞬の閃光を放つ。ティグラの奇襲は見事に防がれてしまった。


 ティグラは着地、敵の攻撃の間合いから飛びのいて剣を構える。


「不意打ちとは卑怯だろう」


 敵はフィズクール・パンであった。ライルの友人。ルイトンのライバル。正統派剣術の使い手だ。


「仮にも騎士を目指す者としてだ」


(卑怯も何もあるか。実戦だ)


 内心で言い返したが、ティグラの額に汗がにじむ。剣の技量ではティグラはとうてい彼に及ばない。奇襲が失敗した時点でピンチであった。


 フィズクールの剣の構えは一分の隙もない。じりじりとティグラを追い詰める。こうなっては逃げることもできない。逃げようとした瞬間に斬られる。ティグラの額を汗が流れた。


(くそっ……)


 やがて行き場を失ったティグラは一か八か攻撃に出た。だが、


「拙劣!」


 フィズクールの完璧な受け流しからの反撃を食らい、即死した……。


 ……入学から二ヶ月が経っていた。つまりアストラルアクションの授業が始まってから一ヶ月である。


 アストラルアクションは装置の起動に多量の魔力が必要になるため、一日に一度しか授業ができない。上級生もいるため、ティグラたち初年生がアストラルアクションの授業を受けられるのは週に一度だった。


 週に一度、一度に八人だ。個人ベースで考えると月に一度か二度という計算になる。


 今フィズクールに殺されたティグラは、今回が二回目、最初のミリュエール先輩との戦いを合わせれば三回目のアストラルアクションであった。


 ティグラは硬い寝台の上から降りた。


「……ダメだったか」


 悔しそうに顔を歪めた。


   ◇◇◇


 さて、このごろティグラがどのような一日を過ごしているのか。朝から見てみよう。


 夜明けとともに起床、着替えて、寮の中庭にある水道で顔を洗う。これは、特に早いというわけではない。少し熱心な生徒なら、このくらいの時間に起きて朝食前に体を動かすのは当然なのだ。


 そのまま中庭で木剣を振る者もいる。自室で筋トレをしている者もいる。数は少ないが早朝から練武場で打ち込みや試合をしている人もいるらしい。


 ティグラは学院の敷地内をランニングする。これは村にいたときからの習慣で、家の朝の仕事がはじまる前に先生のところへ走って往復するのが体力作りの日課だった。


 ライル・ウォーカーとその友人たちも同じように走っているグループだ。時折すれ違うときもあるが、挨拶はする。主にライル以外のクラスメイトにだが。


 しばらく走ったのち、寮に戻って朝食だ。パン、スープ、肉、卵、果物と朝からそろっている。


 村にいたころは、朝はチーズだけ、なんて日も珍しくなかったことを考えれば、本当に恵まれた環境である。


 自分だけいい思いをするわけにはいかない。先生、妹、村のみんなの顔を思い浮かべる。護国騎士になれば高給取りというから、仕送りもできるようになるだろう。


 そうしたら、村を出る日まで反対していた親も認めてくれるだろうか。


 朝食の後は登校の時間だ。


 最初は学問の授業である。この日は歴史だった。

 生徒を睥睨しながら、シラマ老教官が滔々と語る。


「現在は一六カ国連合帝国だが、五〇〇年前は三六の国、一二八の小国が乱立していたわけだ。小国というのは、都市一つで国一つ、という程度の規模だな。この近くでいえばサザンバロウも元はその小国の一つだったわけだが――」


 ティグラは、学問が苦手だ。それでもなんとかついていけるのは、先生のおかげだ。先生はティグラに魔法の手ほどきや体力作りのみならず、読書や学問の基礎を教えてくれた。先生に会うまでのティグラは、田舎の子供らしく字も読めなかったのだ。


 次の授業は魔法である。魔法ドームは上級生がアストラルアクションに使うため、この日は座学だ。


 猫背のミジィ教官がだるそうに講義したのは、魔力を注入すれば誰でも発動できる魔法式についてだ。


 組み上がった魔法式は自分の属性ではない魔法でも発動できるので有用性が高いが、小型化ができないので、多くは建物に組み込むようなかたちで利用されている。


 魔法ドームの魔法耐性強化であるとか、アストラルアクションの装置がそれだ。


 魔法式を作ったり、整備したりする技術者が魔法技師である。希少な職であるため、収入は相当多い。騎士よりは確実に儲かる。

 魔法技士志望コースも、ウッド騎士道学院には存在する。


 いずれにせよティグラには縁のない話だ。彼は当然、護国騎士以外に志望を考えていない。彼はつまらなそうに話を聞き流していた。


 最後に、剣技の授業がある。


 素手の組み討ちばかりだった一ヶ月と違って、武器を使用するカリキュラムに取り組む生徒も増えている。生徒の自主性に任せる部分が大きいのは、おのおの使う武器が同じとは限らないからだ。


 キャニンベル教官は剣が得意で、剣の指導は手厚い。だからこの学院では、オーソドックスな剣を選ぶ生徒が多い。地方の学院には、マイナーな武器をしっかり教えることができる教官がいないのである。


 ただし護国騎士志望の生徒の場合、武器同士で試合形式の戦いというのはやらない。怪我の危険が大きいからと、アストラルアクションがあるからだ。


 ティグラは、まだ体の使い方を憶えろとコーチのカブト女に言われているので、素手での組み討ちをやっている。


「おら、かかってこい田舎者」


 ガーゾも素手を好んでいるようで、彼とやる機会は多い。あの日以来、ガーゾも油断しなくなったので、まだまだティグラは分が悪い。


「ぐえっ」


 投げられて地に這うティグラ。


 それでも、だんだん動きがわかるようになってきている。自分が上達している実感はあった。


「右に振られて踏ん張ったところを左に戻されて足をかけられたのか。右に体重をかけすぎたのか? バランスを失わないようにするには……」

「何をブツブツ言っている」


 倒れたままのティグラを、ガーゾが不気味そうに見下ろしていた。


 授業は昼をやや回ったところで終了である。三年生以上はここで下校してもいい。


 昼食を挟んで、あとは自習時間となる。自分が伸ばしたい分野を自主的に鍛えることができる。


 ティグラは、教室でルイトンやロブと学問の復習をすることが多い。だいたいルイトンに二人が教えてもらうかたちだ。ルイトンは剣だけでなく学問もできる。


 その後、寮に戻ったら自由時間だ。談話室でおしゃべりする者、読書する者、いろいろいるが、ティグラは朝のように走ったり、自室でトレーニングしたりすることが多い。


 水道で体を洗ったら夕食となる。その後、消灯時間まで自由。皆思い思いに、交流を深めたり、自室で勉強したりトレーニングしたりして過ごす。

 ティグラはというと、気づかれないように寮を出て、森へ向かうのだ。



   ◇◇◇


「本日のアストラルアクションはどうだったかね」


 と、カブト女がティグラに聞いた。

 フィズクールに負けた日の、夜稽古の休憩時間中だ。最近は夜でも暖かい日が多い。


「なかなか前回のようにはいきませんね」


 前回のアストラルアクションではなんと一人倒すことに成功していた。相手はライル派閥でもティグラの友人でもない、都会者グループのケイレススという男子だった。


 今回のような頭上からの奇襲によるものだ。障害物に紛れて奇襲する能力なら、ティグラもクラスで最下位ではない。特に生まれ育った場所に近い森や山ならなおさらだ。


 アストラルアクションが単なる剣技と魔法を組み合わせただけの競技ではないことがそれによってもわかる。足場が悪い場合もある、敵が発見できない場合もある、それでも対応できる能力が必要とされるのだ。


 その点において、ティグラには希望がある。剣が下手でも、魔法が大して役に立たなくても、体力と山育ちの経験を生かしてそれをカバーする戦い方を考えることができるからだ。道場剣術ばかりやっていてはそうはいかない。


 もう一つは、相手を殺す覚悟の問題である。特に各生徒の初戦において、いくら痛覚をカットしてある擬似的な戦いといえど、クラスメイトを殺すということに抵抗のある生徒は多かった。ライル・ウォーカーがミリュエール先輩を相手にしたときもそうだが、ためらいが見てとれるのだ。だがティグラは、ライルと逆に初戦でしっかり先輩に殺されたこともあり、アストラルアクションでのとどめに逡巡はなかった。


「とはいえ、そればかりでは通じはしないわけだがな」


 毎回身を隠す場所があるとも限らないし、むしろ、他のみんながアストラルアクションに慣れていくにつれ、ティグラのアドバンテージも失われていく一方だろう。


「そこで振り落とされないためにも……」

「地力が必要、ということでしょ」


 それは何度も聞かされている。


 だからティグラは今でも夜の森通いを続けて、カブト女のコーチを受けているのだ。


「とにかく」


 と、カブト女は話題を戻した。


「現在ライル・ウォーカーが何をしていようが、君が気にすることではない。君が今すべきことは地力をつけることだ」


 ティグラもそれはわかっていた。目先の勝利ではなく、再来年へ向けての地固めの時期だ。

 地道に、地道に。


 ――だが、彼らを取り巻く状況が、そのような悠長なやりかたをいつまでも許すか、どうか?


   ◇◇◇


 自室に戻ったカノは、憂鬱だ。


 なぜか?


(ずっとこのままでいいのかな……)


 そのことである。


 一ヶ月前勢いでミリュエール先輩に偽装してしまったわけだが……。


(こんなに長い間先輩のふりをし続けることになるなんて思ってなかった……!)


 おかげで、寮の中でティグラとミリュエール先輩がすれ違うのを見るだけで心臓がバクバクする羽目になったし、もうどうしよう。さいわいティグラは人のことをあまり詮索しないタイプらしく、カブトをかぶったカノに向かって二年生のカリキュラムだったり先輩のプライベートだったりについて質問してくることはあまりなかった。……何回かはあったけど。それでそのたびに無理やり話題の方向転換をしたけど。


 彼を騙しているという罪悪感が、森で会うたびにチクチク胸を刺すのだ。


 それともう一つ。


 クラスの誰かに話しかける作戦、いまだに実行されず。


(あの、でも、頑張って話しかけようとはしたんだよ……?)


 先日、いよいよ今日こそ、と決意してカノは教室の中をうかがっていた。


 狙いはニャンコだ。彼女はライルの友人であるがグループに入っているという感じではなく、独立独歩、誰と誰が仲が良いとかほとんど気にしないマイペースな生徒だということはわかっている。


 そこがかえって話しかけやすいのではないか、と観察の結果、彼女を選ぶことにしたのだ。彼女なら突然カノがしゃべりかけても怪訝な顔もしないのではないだろうか?


 挨拶だけでもいい。一言、それで次に続ける勇気が出るはずだ。


 そのニャンコはちょうど教室の中にいた。あまりじろじろ見ないようにしながら視線を飛ばす。


 話しかける。そう考えただけでカノの胸が早鐘を打つ。


 ニャンコが立ち上がった。教室を出ようというのか、カノの席に近づいてくる。


 今だ、さりげなく立って軽い挨拶を交わせば――


 と、そこでカノの動きが止まった。気づいたのだ。


 彼女の後ろの席にはティグラがいる。彼女が毎夜のようにコーチしている相手が。今カノがニャンコとここで会話をしたとしたら、彼に声を聞かれてしまう。


 カブト女がカノであることがバレてしまうのではないか? そう気づいた。


 ティグラはカブト女の声をミリュエール先輩と間違えているが、カノの声を聞いたらその間違いを認識するのではないだろうか。もちろん、気づかないという可能性もあるが、どちらの公算が大きいのかカノには分からなかった。


 結局、カノはそのまま座り直した。ニャンコは妙な動きを見せたカノをちらっと見たが、それだけで脇を通り過ぎていった。


 で、終了。それでつまづいたことにより、その後は決意が固まらないままぐずぐずと今まで過ごしてしまったのだ。


(だってしょうがない、そんなに簡単にいくわけないじゃん!)


 自分で自分に謎の逆ギレをしつつ、カノは頭をかかえた。


 ティグラといえば、さっきまでもそうだが、彼の夜の特訓にカノは毎晩付き合っている。練習メニューだけ与えてティグラに一人で練習させるということができない。カノが止めないとティグラはいつまでも練習を続けてしまうからだ。練習しすぎは体によくない。


 カノがコーチになる以前、ティグラの成績が冴えなかったのは疲労が溜まっていたせいもあるのではないか。そう思わせるほど、ティグラの訓練は激しかった。


 カノが適切なところでストップをかける必要があるのだ。


 でも、あれだけ根を詰めて地味な練習を続けられるというのはすごい。ティグラは決して上達が早いほうではない。天才でもないし器用でもない。それでも、這うような遅さでも、止まらずに前に進むのだ。


(本当にすごい)


 カノは卓上にある、ティグラにもらった薬の貝殻を指で軽く動かした。


「ティグラ君……わたしは先輩じゃなくて、カノレー・リヴァーロなんだよ」


 誰も聞いていないのをわかっていれば、言えるのに。


   ◇◇◇


 嵐の前触れは、おしゃべりな女子生徒の姿をしていた。




 ティグラらは、先日の歴史の授業を三人で復習していた。


「一六ヶ国になる前は小国が乱立、サザンバロウもそのうちのひとつと……サザンバロウっておまえの出身地だよな」


 ルイトンに目を向けた。


「そうさ、歴史ある街並みってのが自慢でね。馬の首祭りってのがあるぜ。帝国に組み込まれる前から続いてんだ。祭りの間だけは馬肉食ってもいいっていう」

「奇祭というやつだね。この街出身のぼくにはちょっとわからない感覚だな。もっと新しくて洗練されたものを取り入れていったほうがぼくはいいと思う」


 ルイトンはサザンバロウの歴史に、ロブは首都スリーツリーズの繁栄にそれぞれ誇りを持っているようだった。


 ティグラの開拓村はどうだろう……フロンティアといえば聞こえはいいが、住民は案外保守的だったような気がする。新しい土地を切り開く者というより、見知らぬ土地に根付いた草のように、今ある土地にしがみついて動かない、そんな村だった。


「で、ちゃんと憶えたか?」

「えっ?」

「聞いてろよ。だから、ウッド王国が諸国家連盟に参加した年」


 諸国家連盟は連合帝国の前身である。この間の授業の最後のほうでやったのだが、ティグラはすっかり忘れていた。


「あんまり憶えられないようなら、図書館の本で自習すればいいとぼくは思うな」


 記憶力のいいロブが上から目線でティグラにアドバイスする。


「数字だけ憶えてもすぐ忘れるから、まずは物語を頭に入れたほうがいいよ」

「八七三年六月三日、夕闇が迫る時刻」


 とルイトンが言った。それはちょうど二年ほど前の日付だった。いきなり何を言い出したのかと怪訝そうなティグラとロブに対して、ルイトンはにやりと笑ってみせた。


「おれがはじめて女の唇を奪った日付さ。印象的な物語があれば、些細な数字でも簡単に憶えられるって実例だ」

「そして、その女に平手で打たれた日でもあるんだろう?」


 ロブの混ぜっ返しに言い返さなかったところを見ると、図星なのかもしれない。


「八七〇年七月一四日! ぼくが騎士団の巡行を見た日だよ」

「八七〇年七月一五日は巡行を見た興奮のあまり、家の宝石を落として割った日か?」

「ぼくがそんなことするわけないだろう……ちょっと欠けただけだよ」


 二人のやりとりに笑いながらティグラは立ち上がった。


「おいティグラよ、どこ行くんだ。おまえもなんか言え」

「八七〇年……」


 と言いかけて、ティグラは言葉を止めた。トールヴァのことは秘密だという、あの約束はまだ有効のはずでである。


「八六九年の八月ごろ。徹夜で薪割りした」


 その事件の細かい日付までは憶えていない、というより、開拓村は一日単位で数えるような生活ではなかったのだ。


「じゃあ、図書館行ってみる。なんか面白そうな本でも探す。魔法の訓練するつもりだったけど」

「おう、そうしろ」

「代わりにぼくが魔法の訓練やるから安心していいよ」


 なんの代わりになるわけでもないが、ロブがティグラの足を叩いて軽口を言った。


   ◇◇◇


 ティグラは、入学以来はじめて図書館に足を運んでいた。四角い建物は厳かな雰囲気を醸し出している。中に知識が詰まっているんだぞという圧が強い。


 入り口の隣にはめ込まれている、手形の描かれた板に手を当てて、魔力を注ぎ込む。温度と湿度を一定に保つ魔法式が建物に組み込まれていて、来館者の魔力供給で維持されているのだ。来館者はここで一定の魔力を注ぐことによって入館を許される。


 本を挟んで議論を戦わせる者、本を持って音読している者、本棚にとりついている者に、近くの本を取ってくれと大声で頼む者。図書館の中は賑やかで、外から感じたような無言の圧力は存在しない。


(歴史物語の本はどこだ)


 辺りを見回す。本は部屋の壁一面に並べられている。中央部には机が並んでいて、そこで選んだ本を閲覧するのだ。


 気が遠くなるような本の数であった。先生の家には棚一つ分の本があったが、それだけでも読み尽くせる気がしなかった。だがこの図書館にある本の数はそれとは比較にならない。一生をかけてもほんの一割も読めまい。これほど大量の本が世の中に存在する必要があるのだろうか?


 しばし圧倒されていたが、ティグラは歴史の本を探すことにした。


 どうやら棚ごとにジャンル分けされているらしい。なるほどそうやって整理するというやり方があるのか。先生の家の雑然とした本棚しか知らなかったティグラにとっては新鮮だった。


 探し歩いて、それらしき棚にたどり着いた。


 ウッド王国の歴史……それも、学者が眉間に皺を寄せながら読むようなものではない、できれば図版の多い楽しい読み物を探して、棚の本を取ってめくっては戻し、めくっては戻しする。


 その中に『護国騎士団の歴史と意義』という本があった。今勉強している歴史とは関係ないが、護国騎士という文字に惹かれて、ティグラはそれを手に取った。適当にページを開く。


『……でわかるように、護国騎士団は他の騎士団とは明確に異なる存在であるといえる。果たして、かの騎士団が帝国の治安維持に何らかの明白な役割を果たしていると自信を持って断言できる者がいるだろうか? かの騎士団は巡行すらしないというのに。』


 護国騎士団は巡行をしない?


(じゃあロブが見たのは別の騎士団ってことか)


 それも不思議ではない。いずれにせよ、平民が騎士に憧れたなら、護国騎士になるしか道はないのだ。


「その本は貴族が書いとるから護国騎士に厳しいんよ」


 横からにゅっと誰かが登場した。


「何をお探しかな、ティグラフェダーテ君。ウヒヒ」


 不気味に笑ったのは、ティグラの知った顔だった。小柄なのにミジィ教官に負けないほど猫背なので余計低く見える。毛量の多い髪は手入れが行き届いておらす、ところどころピンピンと跳ねている。


 図書館に入り浸る魔法オタク、ニャンコだ。


「図書館で見るのははじめてじゃん。珍しい。何の本? 魔法? 魔法の本探しとるんか? あちし、気が向いたら勝手に司書みたいなことやっとるんよ。遠慮せんと聞いたらいい」


 まともに話すのははじめてだが、独特のテンションは教室で見る時と変わらない。いつも下から見上げるような目線で、薄ら笑いを貼り付けている。ちゃんとしたら可愛いだろうに、挙動が全てそれを裏切っているような女子だ。


「歴史だよ。場所でわかるだろ」

「魔法じゃないの? 魔法じゃないんか。まあいいけど。その本、平民は大したことできんって言いたくて、護国騎士を槍玉にあげとる。ウヒヒ。んでもま、出来は悪くないから、そのへんさっ引いて読むといい」

「読んだのか?」

「ザ・愚問! つかさ、そんなのより魔法の本読もう。魔法はいいよ、楽しいよ。ウヒ」


 魔法魔法言いながらティグラの回りをちょこまかする。今日は図書館に知り合いが来ていないし、珍しいからとティグラにじゃれついているのだろう。


「おれは今日やった歴史の勉強に来てるんだよ」

「でもその本違うじゃん? 今日の授業と関係なかろ?」

「それはまあ……そうだな」

「じゃあ魔法の話でも変わらんのじゃないんか? あちし、魔法の話したいなー」

「魔法の話は他の人としてくれ」


 放っておいてくれないだろうか、とティグラは思う。せっかく(珍しくも)学問についてやる気を出しているというのに。


 この少女は物知りなのかもしれないが、少々やかましすぎる。昔家で飼っていた鶏で、朝に鳴かず昼から日没まで鳴き続けて、近隣の住民を悩ませていたやつがいたのを思い出した。あいつは早めに締められてしまったが、とティグラはニャンコをちらっと見た。クラスメイトを締めるわけにもいかない。

 食えないからな。


 相手にしないでいると、ニャンコはつまらなそうに唇を尖らせたが、すぐにいたずらを思いついた子供のようににんまりした。


「ティグラフェダーテ君が好きな、ライルウォーカー君の魔法についてはどうかな?」


 思わず顔を上げたティグラ。


「ウヒヒ、興味ありそうじゃん」


 そうだ、この女はライル・ウォーカーと仲がいいのだ。ティグラは本を棚に戻した。


 二人は近くの円卓に落ち着く。


「ライルウォーカー君は剣も魔法も上手だけど、剣はまだ人間の範囲内じゃん。でも魔法はぶっちぎりの天才よな。あちし、剣とかあんまり興味ないんよ」

「剣技もできないと護国騎士にはなれないだろ」

「だからなるべく魔法でカタをつけたいんよ。魔法はいいよ、楽しいよ。ウヒヒ」


 卓上に上体を投げ出しながらニャンコが笑う。


「そいやさ、ライルウォーカー君がはじめてここ来たとき変なこと言っとったんよ。『図書館で静かにしなくていいの?』とかとか。なんでも、彼の前世の世界は図書館で話したらいかんのだと。変なの。それじゃ本読みながら議論ができないじゃん。ねえ」


「それで、あいつの魔法についてってのは?」


 彼女の口が回るのに任せていたら、どこまででも脱線しそうだ。


「そんなに聞きたいん? ライルウォーカー君って、以前は〈上天〉の〈火球〉とか、派手派手な魔法使っとったじゃん。でも最近は、〈滄海〉の魔法ばっかり練習しとるんよ。〈滄海〉って、あちし好みのシブい魔法が多いんよね。あっ、でも〈上天〉が嫌いってわけじゃないんよ。あちし、そういうところで選り好みはしない人。〈上天〉〈虚空〉〈大地〉〈滄海〉それぞれによさがあると思わん? たとえば〈上天〉の魅力は……」


 またすぐ話がそれる。


「ライル・ウォーカーが〈滄海〉の魔法を? たとえば?」

「いろいろ。〈影人〉とか〈踊り水〉とか〈快眠〉とか〈霧の中〉とか……」


 流暢にいくつもの魔法名を指折り数えるニャンコ。


 ライルがそうするのには何か理由があるのだろうか? それとも、「しばらくは数学を重点的に練習しよう」というのと同じように、たまたま〈滄海〉を強化する期間というだけか? ティグラはその点をニャンコに聞いてみたが、彼女は露骨につまらなそうな顔をした。


「あちし、ライルウォーカー君の魔法の話がしたいんよ。魔法を使うライルウォーカー君の話がしたいのと違うんよ」


 ライルについてはこれ以上大したことも聞けそうにない。


「じゃあ歴史の勉強するからな」


 話は終わりだ、と言ったつもりだった。

 ニャンコはにっと笑った。


「実はニュースがあるんよ。教官室でたまたま盗み聞きした」

「ニュース?」

「今度、学院に護国騎士が来るんだと」


 と、ニャンコが言った。


「へえ」


 ティグラの目が見開かれる。彼はトールヴァ以外の護国騎士を今まで見たことがない。


「思っとったより反応薄いじゃん」


 無知なティグラには、それがどれほど重大なニュースなのかよくわからなかったのだ。


 護国騎士団のみならず全一七騎士団の本部は全て帝都にある。連合帝国の中枢、唯一無二の皇帝がまします、帝都アイセルドーン。


 そこから、一六ヶ国の中でも周縁部であるウッド王国へと、護国騎士がやってくる。


 巡行のついでか? いや、護国騎士団は巡行をしないのだった。ならば将来の後輩候補を激励に?

 例年の慣行なのか? 何人で来るんだろうか?

 いったい何のために?


 わからないことだらけだ。


「来るのは一人だって言うけど、あちし護国騎士見たことないし、珍し楽しみじゃん。どんな魔法使うのか、プロの煉化速度はどんなんかな。9? 10?」


 たしかに、志望している護国騎士がやってくるというのは大きなニュースかもしれないが、ただそれだけの話だ。


(来るのがトールヴァだったら別だけど)


 護国騎士団は一〇〇人からいる。トールヴァが選ばれる確率は高くなさそうではあるが……。


 だが、どうせ会うなら、自分が入団するときがいい。それでこそ格好がつくというものだ。


「本題はここからなんよ。その護国騎士……」


 ニャンコは猫のように笑った。まだ何かがある。


「特別選抜試験の試験官、やりに来るらしいんよ」


 ――これこそが、嵐の到来を告げる風である。

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