森の夜 2

 ティグラは寮の外に出た。


 今夜は暗い。暗雲が月を隠している。昼は暖かい季節になってきたが、太陽が沈むと風はまだまだ冷たい。

 暗夜の中、大股に歩を進めている。


 このウッド騎士道学院は、首都の市街ではなく郊外の丘陵地にある。周囲に人家は少なく、敷地を全て壁で囲われているわけではない。


 寮の裏は森に続いていて、その部分は簡単な柵で区切ってあるだけだ。


 その柵に穴が空いている場所があるのを、ティグラは知っている。入学初日に見つけていた。初日の夜に寝付かれず歩いていて発見したのだ。学院外の森は、故郷の森と似ている気がした。


 その森をティグラは歩き……途中からこらえきれず走り出した。ほとんど暗闇の中を、感情にまかせて走った。足を根に取られて転びそうになってもお構いなしだ。ほぼ毎晩通っているから道は憶えている。


 小さい丘のてっぺんに一本の木が生えている。その木の根元まで来て足を止めた。


 息が荒いのは体ではなく感情が荒ぶっているのだ。


 頂上の木は、人間ほどの太さで、胴体あたりの高さの部分は完全に皮がはげている。周囲には落ち葉が散っている。


 深呼吸をすると、ティグラは木に向かって思い切りタックルした。ぶつかるとがっちりと掴まえ、引っこ抜こうとするように力をこめた。


 やがて手を放し、距離を取るとまたタックル。それを繰り返す。

 木肌がはげ、葉が落ちたたのはこのせいだ。


 普通ならここまでにはならない。尋常でない回数、一ヶ月の間繰り返した結果である。


 ティグラは初日から毎夜欠かさずここへきてトレーニングをしているのだ。はげた木のみならず、下生えがすり切れるほどに踏みならされた地面を見ても、どれほどの時間ここで過ごし、練習し、力を出し尽くしているのかがうかがい知れる。


 人より多く練習しなければ追いつけないことくらいわかっている。護国騎士志望コースの生徒のなかで、一番下手であることは自覚していた。


 剣技の授業でガーゾとばかりやるのも、彼を倒すことが目標、というより、実際は彼以外によろこんで相手をしてくれる生徒がいないからだ。ティグラと組んでも練習にならないと思われているのだ。


 教官はもっとまともな生徒を指導するのに忙しく、底辺のティグラのところまでなかなか下りてこない。


 一部の生徒たちに、なぜやめないのかと言われていることも知っている。さっきのライルも、そういった意見を代表したものにすぎない。


 ――魔力容量150以下の者が大学院へ行った事例はない……。


(くそう!)


 ティグラは木に拳を叩きつけた。さっきの会話を思い出して、再び暗い怒りが湧き上がる。


 ライルは、ティグラのことを競う相手だと見ていないのだ。それがありありとわかった。


 挑戦者にとっての屈辱は負けることではない。相手にされないことだ。


 いつになったらライルと競うレベルまでいけるのか。ちょうど夜の森を見通せないように、まったく先が見えない。


(くそう)


 拳が震えている。


 ひょっとしたら……ひょっとしたら。自分には才能がないのではないか。学院に入学するところが精一杯だったのではないか。なぜなら、こんなにみんなから遅れている。追いつけない。


 ライルの忠告に従ったほうが――


 そんな弱気をかき消すように、ティグラは木に思い切り頭突きした。何度も額をぶつける。


 涙がこぼれたのは、額の痛みのせいに違いない。自分のふがいなさに対する感情などではないはずだ。


 頭をぶつけ続ける。そうすれば痛みの中で弱気が消えていくと信じているかのように。


「あああああ!」


 風が雲を動かし、月が現れた。ティグラの思いなど知らぬげに、清らかな光が地を照らす。


「ふふふ……」


 他に誰もいないはずの森の中、笑い声が聞こえた。

 ティグラは周囲を見回す。


「誰だ!」


 声色からすると女のようだが……?


 木立から、すっと人影が姿を現した。それをキッと見て、ティグラは、


「……誰だ?」


 困惑した声音に変わった。


 たしかに女性であろう。服も女物だし、体型もそうだ。

 でも誰なのかはまったくわからなかった。


 それはなぜか。


 彼女はバケツのような形のフルヘルムをかぶっていた。平服にカブト姿というのはなかなかに非現実的であった。しかもそれが、月下の森に登場したとあっては、もはや夢かと思うような違和感だ。


 カブト女は見得を切るように、ティグラに指を突きつけた。


「少年、安心したまえ。わたしが君のコーチになれば、君は強くなれる!」


   ◇◇◇


 はたして、ティグラの返答は。


「いや……いらない」


 鼻白みながらも、きっぱりと断った。


「ええっ?」


 カブト女は予想もしていなかったというようにたじろいだ。


「いる……いるでしょ? なんで断るの?」

「そんな怪しい恰好してる人を信用しろというのが無理だろう」

「たしかに。……こ、これには事情があるのだ」

「事情?」

「それはともかく!」


 強引に話を戻す。


「君には指導者が必要だ」

「放っておいてくれ、おれはおれでやる」


 ティグラは女に背を向け、木へのタックルを再開した。もう話すことはない、ということだ。


 トレーニングを続けていると、女はティグラの視界に入るように回り込んできた。


「『おれはおれでやる』……それで一ヶ月経った結果が現状ではないかな。ガーゾ・センダーにも勝てない程度の実力」


 ティグラのタックル。カブト女は焦れたように言葉を継ぐ。


「なぜ教えを乞わない? 一人でやろうとする?」

「気が散るから黙ってくれ」


「ライル・ウォーカーにも、彼を一番だと認めているクラスメイトにも教わりたくない。彼に対抗するために自分の力だけで逆転してやる。そんなことを考えているんじゃないだろうな」


 ティグラは視線だけ動かしてちらりと女のほうを見た。


「地力がある者、基礎が出来ている者の独習には意味があるかもしれない。だが、君は! ただの素人だ。戦い方も知らない、どう上達すべきかもわからないのに、こんなところで一人体力作りばかりやっている場合か。そんなのは愚だ!」

「ぐっ……」


 ティグラはついに動きを止めた。


(女だからってなんでも好き勝手に言っていいわけじゃないぞ)


「おい、あんたいい加減に……」

「泣くほど悔しいんだろう!?」


 カブト女は、一歩前に出た。カブトの間から、わずかに彼女の瞳が見える。それはまっすぐティグラを見据えていた。


「わたしなら君を強くできるよ」


 彼女の表情まではわからないが、その声音は真摯であるように聞こえた。

 ティグラの心は少し動いたが、まだ不審な点はある。


「なんでそんなにコーチしたがるんだ?」


 そのことであった。


 そもそもこのカブト女が何者か知らないが、押しかけコーチをするなら、普通は才能がある者のところへ行くだろう。ライルは別格としても、ノンノ・ノナとか、剣技に長けたルイトンだっていい。落ちこぼれのティグラをわざわざ教えるというのは、何か理由があるはずなのだ。


 カブト女は途端に落ち着きをなくした。なんかもじもじしている。


「だって、その……君にやめてほしくないからだ」

「なんでだ?」

「い、いいじゃないの、それは。そんなことより、君はもっと違うことを考えるべきだ。剣技の実力向上を」


 心が弱っていなかったら聞く耳など持たなかったに違いない。だが今のティグラは違う。追い詰められていると言ってもいい。


「強くできるって、本当だろうな」


 まだ疑念が完全に晴れたわけではないが、役に立つのなら利用してみるのもいいかもしれない。

 その躊躇を感じ取ったか、カブト女は語を継いだ。


「少なくとも……」


 もう一度、彼女はティグラに指を突きつけた。


「ガーゾ・センダーには勝てる。明日にでも」


 まるで当然のようにきっぱりと言い切った。


「明日?」


 さすがにそれは、都合が良すぎはしないだろうか。


「わたしの言うことに従うだけでいい。騙されたと思ってやってみたまえ。そうすれば……」


 月光がカブトに反射して、青白く光った。カブト女は高らかに宣言する。


「明日、君はガーゾ・センダーに勝つ!」


   ◇◇◇


 翌日になった。入学してからちょうど一ヶ月。退学時に入学金が戻ってくるのは今日の日付が変わるまでだ。


 朝から、他の生徒たちがティグラを見る目が違う気がする。いよいよやめるのかどうか注目が集まっているのだろう。ライルが退学を勧めたことまでは広まっていないようだが。


 ルイトンやロブの軽口も、普段より微妙に遠慮がちで、あえて退学のことに触れないようにしているのがわかった。その気遣いは、ありがたいがありがたくない。


 練武場で、今日も剣技の授業がある。


「才能の無いやつは、とっとと入学金を返してもらって家に帰るんだな」


 ガーゾが嘲る。その小憎らしい表情、口調。むしろこれくらい遠慮のないほうがやりやすい。


 ティグラはいつものように突っかかっていき、いつものように投げられてしまった。

 周りの生徒たちからため息が漏れたような気がした。


 土に頬を擦り付けて、ティグラはゆっくり立ち上がる。


 そしてまたもガーゾへ突進し、返り討ちに遭う。代わり映えのしない光景だが、これは実はカブト女の指示によるものだ。

 転げながらティグラは、昨夜のことを思い出している。


「まず君はいつものように戦い、ガーゾ・センダーを十分に油断させるのだ」


 土まみれとなるティグラ。頭を振って土塊を落とすと、腰を落とした姿勢のままガーゾを睨み合った。無策で突っ込んでいくのをやめたのだ。


「そうしたら、次は距離を保って機をうかがう」


 これだけで相手の思惑を一つ外せる。カブト女の言うとおり、ガーゾは戸惑いを見せているようであった。


「突っ込んでいくふりのフェイントを繰り返して挑発する」


 まっすぐ突進する、と見せかけて急停止して間合いを取る。ガーゾの周囲を回るように動き、時に視線を外してみせたり、気のないそぶりをしたかと思うと不意に間合い内に踏み込み、また離れる。


 急にいつもと違ってバカみたいに突っ込んでこなくなったティグラに、ガーゾは早くも焦れ出した。苛立ちが声に出る。


「雑魚が何を無様にうろちょろと」

「誰が雑魚だって?」

「貴様の他に誰がいる。授業についていけないナマクラが」

「なんだと」


 カッとなったように、ティグラはフェイントを放棄してまっすぐ突進した。

 ガーゾの挑発に乗ってしまったようであった。

 ならばけっきょく今までと同じパターンになってしまう。


 だが。


 それもカブト女の指示のうちなのだ。


「まっすぐ行ったら、やっぱりいつもと同じか、とガーゾ・センダーは安心する。今までの君の無策な戦い方がいい前振りになるからな。安心とは隙を意味する。そこを突け」


 ティグラはいつものように行くと思わせておいて、寸前で一気に体を沈めた。ほとんど腹から滑り込むようにしながら、相手の胴体ではなく片足首を捕らえる。抱え込み、しがみついた。


「掴んだら、君の連夜の体力トレーニングが生きる。掴んだまま立ち上がって持ち上げるんだ」


 ガーゾは不安定な片脚立ちになった。いつもと違う展開に慌てた顔のガーゾ。ティグラは全身の筋肉に力を込める。


「そのまま押し倒せ!」


「おおおお!」


 二人は折り重なるようにして倒れた。


 ガーゾが下に、仰向けになっている。その上に、脚をホールドしたままのティグラが倒れ込んでいた。


 土埃が舞って、ゆっくりと収まっていく。


 ティグラは目を見開いて、倒れたガーゾを見ていた。僅かな空白ののち、胸の内に喜びがやってくる。


「……やった! やったぞ!」


 ついに、はじめて、ガーゾに土をつけることに成功した。


 ティグラは今までの鬱憤を晴らすように声を上げた。客観的に見ればたかが授業の中で一回倒しただけだ。聞いている者の中には、それくらいで大げさな、と憫笑した者もいたかもしれない。だがそれでもかまわなかった。噛みしめるようなガッツポーズ。


「おれが倒した……!」

「やかましい、早くどけ!」


 ガーゾは不機嫌にティグラを蹴りのけた。




「見たか?」

「ぼくが思うに、ガーゾを倒すのに一ヶ月かかるのはさすがに長いね」


 離れたところで、一緒に組み討ちをしていたルイトンとロブの会話だ。


「それでも、ようやくやったと言えるね。このまま成長していくのかな」

「どうかねぇ。まあ、第一歩ってところか」


 二人の顔には微笑があった。最近の余裕がないようすだったティグラのことを、二人とも心配していたのだ。




 授業が終わり、みんな練武場から引き上げていく。その中で、ティグラはひとり立っていた。


 向こうからライルがやってくる。お互い視線を合わせることなく、すれ違う。

 その瞬間、視線を動かさないままでティグラが口を開いた。


「おれはやめないぞ」


 ライルは一瞬歩を止め、振り返りかけた。

 が、何も言わず、ライルは視線を切って、そのまま歩き去っていった。


   ◇◇◇


 その日の夜。森でティグラとカブト女が向かい合って立っている。


(ただの口だけじゃなかった)


 この女、相応の実力があることは確かだ。

 果たして一体何者なのか。それについてティグラは昨晩から考えていたのだ。


 そこで、一つの答えを見いだしていた。もし、カブト女の正体が彼女なのだとしたら、ガーゾを倒す作戦をティグラに授けることも可能だろう。


 ティグラは、自分の推測が的中していることを半ば確信していた。

 だから、ティグラはカブト女に対して頭を下げた。


「ありがとうございました」


 カブト女は戸惑ったようすだった。


「どうした? 急に敬語など使って」

「いや、だって……」


 ティグラはカブトを見透かすように彼女をじっと見た。


「ミリュエール先輩……ですよね?」

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