田舎者 ティグラ・フェダーテ 3
生徒たちが戻った教室に、やってきたのは一人の老人だ。三人目の教官である。
小柄で痩せているが、背筋をしゃんと伸ばしている。硬い木材を大ぶりのナイフでざくざくと粗く彫った像のような、まっすぐさと鋭さを感じさせる姿であった。
教壇に立って、生徒たちを睨め回した。
「もっと真面目に座れ。固くなるな。緩くなるな。……よし。おれはおまえらに学問や礼儀を教える教官の、シラマ・ツーブリッジだ。背筋を伸ばせ」
前のほうの席に座っている生徒を注意した。
「今日は初日だから、ちゃんとした授業はやらん」
一歩前に出て、
「二つだけ。二つだけ考えろ。一つ、自分が護国騎士にふさわしいかどうか。もう一つは、護国騎士が自分にふさわしいかどうかだ」
どういう意味なのか、ティグラにはよくわからなかった。他の生徒たちも同様のようだ。
「今日は魔力検診と、剣技の試合があったはずだ。その結果、自信を失った者もいるかもしれん。諦めることは悪いことではない。ウッド騎士道学院は、入学から一ト月以内の自主退学には入学金を返還することになっている。その間に、ついていけんと思った者は遠慮するな」
何人かの視線が自分に向けられているように、ティグラは感じた。
(誰がやめるかよ)
逆にティグラは胸を張ってみせた。
「自分の実力に不安がないとして、おまえらはなぜ護国騎士を志望した? なぜ護国騎士になりたいのか? 取り繕うことはない。自分で自分の動機を真面目に顧みてみろ。金か? 地位か? かまわん。なんでもいい。それが護国騎士でなくとも実現できそうなことだったのなら、悪いことは言わん、別の道を行くがいい」
入学最初の授業で、まるで退学を勧めるような話を続けられて、戸惑わない者はいないだろう。ティグラも、今さらなんでそんなことを言うのか訝しんだ。
「護国騎士は、この道が最高だと信じて疑わん者か、どうしても他に道のない者のどちらかしかなれん。自分が当てはまるかどうか、よく考えるといい」
まるで脅すようなことを言って、教官はにやりと笑った。まるで木像が笑ったように似合っていなかった。
(それなら、おれの答えは決まってる)
ティグラにとっては、考えるまでもないことであった。
そもそも、一六カ国連合帝国における騎士とはどういった存在であろうか?
外敵もモンスターもいない帝国において、騎士団が果たす大きな役割は治安の維持にある。個人の犯罪というより、内乱、紛争、謀反など大規模なものに関わるものだ。
この国には騎士団が一七存在し、護国騎士団を除いた者は正騎士と呼ばれる。正騎士は、貴族王族など社会的地位のある者だけに資格が与えられる。ここウッド騎士道学院でも、正騎士志望コースには貴顕の子弟が集まっているのだ。平民でもなれる護国騎士だけが特異な存在だといえる。
一六の国それぞれに警備隊や衛兵は存在するが、騎士団は帝国の直属であるため、一六カ国の垣根を越えて活動することができ、国境を自由に行き来する特権をもつ。
名誉と地位があり、実権も強い。各国から集まった組織のため、特定の地域と癒着することも少ない。帝国内部における、軍事力を持った国際警察、とでも言うべき存在なのである。
それだけに、騎士一人一人が武芸を極める必要性はほとんどない。ある程度の水準さえあればよいのだ。護国騎士団を除いては。
教官が教室を出ていくと、一気に緊張が解けて弛緩した雰囲気になった。
「あんな言葉でやめるやつなら最初から入らねえわな」
ルイトンが頬杖をついてにやにやしている。ティグラも同感だった。
ロブが振り返ってルイトンに質問する。
「きみはどうして護国騎士に?」
「ん? そりゃアストラルアクションだろう。強くなりてえからさ」
「ええ? ちょっとぼくには理解できないなあ」
「強くなれば女にもてるだろ!」
と力強く断言するルイトン。
「ちょっとまって、結局、強くなりたいの? もてたいの?」
「両方。どっちかといえばもてたい。女にもてたい」
「なんか俗だなあ。それに、強くても持てるとは限らないとぼくは思うな」
「じゃあアンタは何よ? 金か?」
「ナドガー商会の御曹司であるこのぼくが、お金目当てに志望すると思うかい?」
「んじゃ何よ」
ロブは少し、はにかむように、
「ぼくが子供のころ、騎士団の巡行を見てね」
「それで憧れた?」
からかい口調のルイトンに、赤面したロブが言い返す。
「ぼくにだって子供っぽいところはある」
「巡行ってなんだ?」
ティグラが聞いた。
例によってふたりが驚く。
「そんなことも知らないってのか。おれんとこより田舎だな」
騎士団が威を示すために、各地を仰々しく巡るのだ。その盛大で整然とした美しさは、子供たちに騎士への憧れを植え付けるには充分なきらびやかさがあるのだった。
ただし巡行は田舎の田舎までは来ないので、開拓村で育ったティグラは知らなかったのである。
「憧れちゃ悪いかい」
「まあ、そいつは……わからないでもない」
ロブの言葉にルイトンも同意したところを見ると、彼も騎士団の巡行を見て感動した過去があるみたいだった。もてたい、と連呼していたのは、本音であると同時に、照れ隠しのようなものなのだろう。
「アンタは?」
話を振られたティグラは思い浮かべる。
五年前のことを。
……トールヴァのことを。
◇◇◇
五年前。ティグラ一〇歳のときの出来事を語ろう。
この日、ティグラの運命を変える出来事が起こったのである。
晩秋、作物の刈り入れが終わり、冬支度が始まっている。ティグラは一人で、森の川へ釣りをしに行こうとしていた。そこへ母が声をかける。
「マルヤも森へ行きたがっているわ。連れて行ってあげなさい」
ティグラは不満を胸中に沈めて黙っていた。下から覗き上げるような目つきに、母は苛立ったように、
「わたしたちも忙しいの。釣りしながらでも見てられるでしょ。マルヤが行きたいと言っているのよ。おともするのが当然でしょう。まったく、気のきかない!」
耳障りな継母の声。
自分にもっと力があり、稼ぎがある大人であれば、こんな生活から抜け出せるのだろうか。だがティグラはまだ子供で、しかも特に秀でたところのない、疎まれた子供でしかなかった。
「アンタなんか別にいらないけど」
鼻に皺を寄せて、妹のマルヤは言い捨てる。マルヤはまだ七歳ながら、完全にティグラを下に見ていた。
子供二人で森へ行かせるのは不用心と思う向きもおられるかもしれないが、この地方の森には、大型の危険な獣はいないのである。いるのはせいぜい小型の手乗り山猫や牙無し猪といったところだ。だから子供だけで森に入っても問題ないとされていた。
マルヤはいつもの気まぐれですぐ道を外れる。ティグラがそのたびに引き戻さねばならなかった。それも言えばすぐ戻ってくるということでもなく、しばらく待つはめになる。
苛立ちが溜まっていく。ティグラは早く釣り場へ行きたいのだ。釣りは遊びではなく食料調達の立派な手段である。魚が釣れないと継母に怒られる。
ついにマルヤは途中で座り込み、花を眺めはじめた。ティグラが早く行くぞと言ってもまるで無視だ。気に入らない言葉をティグラが言うとマルヤはすぐ無視するのだ。
業を煮やしたティグラは妹の襟首を掴んで引きずっていく。マルヤは悪口をわめきながら暴れる。ティグラの手に噛みつきさえした。
反射的にティグラはマルヤの体を突き飛ばす。妹は尻餅をついたところで泣き出した。わざとらしいほどの大声だ。ティグラは噛まれた手の痛みに耐えながら立ち尽くす。
(なんでこんなやつと一緒に行かなきゃいけないんだ)
いっそ、妹が森の奥に消えていってしまえばいい、という考えさえよぎった。
ティグラは泣き止むのを待つしかなかった。
わがままな妹をなんとか連れて、森の奥の開けたところにある淵までやってきた。人の背丈の倍以上ある巨岩があるため、大岩の淵と呼ばれている。
ティグラは釣りをはじめた。マルヤは勝手にそのへんで遊ばせておく。もう知ったことか。
日は動いていき、やがて斜めに落ちかかる。髪に葉っぱをつけてマルヤが戻ってきた。ティグラはもっと早く帰るつもりだったのだが、数が釣れなかったので粘ってしまった。
道具を片付け、釣果の入った魚籃を持って帰ろうとした、そのときだ。
近くの木々から一斉に鳥が飛び立った。次いで、リスや山鼠、ウサギなどが飛びだしてきて、一部が溺れるのも構わず、淵を渡ろうと次々と水に入る。
まるで森の中にいる何物かから逃げ出してきたかのようだった。
マルヤも不安を感じたのか、さりげなくティグラへ近づいてきた。
瞬間、正面の木立が破裂するような勢いで、巨大な獣が飛び出してきた。
それはティグラが今まで見たことのない獣だった。顔は猫に似ている。ただ、その大きさといったら。牛よりもなお大きい。大岩よりも大きいかもしれない。まるで小さな獣を無理やり内部から膨らませたみたいに、毛皮部分はまばらで、大半は皮膚なのかむき出しの筋肉なのかよくわからないピンク色の肌だ。頭は小さいまま体だけが異様に巨大である。
口の端からは絶えず赤黒い泡が弾け、二本足で立ち上がった姿はまるで壁のようだ。
獸が吠えた。
ビリビリと体の芯までしびれる轟音だ。獣臭の風が吹く。ティグラは完全に気を呑まれてしまい、動けない。頭は空白になり、恐怖心すら抱く余裕がなかった。勝手に息が上がる。
遥か頭上から獣の感情がない瞳が見下ろしてくる。
妹が服を強く掴んでくるのを、ティグラは感じた。マルヤが震えている。
妹、いつもティグラを見下して、言うことも聞かない妹。家族とも思えず愛情のかけらも感じていなかった、森に消えろとまで思った妹だ。
ティグラは妹の手を振り払って一人で逃げ出すことだってできた。
しかし。
力が抜けて手足のある場所もわからないような状態ながら、ティグラは妹の体を押し離した。
「そこの大岩の割れ目に入れ! そしたら安全だ」
外からは見えないが、亀裂の奥には、子供がやっと一人入れるくらいの空間があるのだ。たとえ獣が爪を振り下ろしても、牙で噛もうとしても狭くて届かないだろう。
「アンタは……?」
不安そうに揺れる妹の声。
「いいから早く!」
マルヤは振り返りつつ、大岩の割れ目に入っていった。
ティグラはそんな妹のようすを見ていなかった。獣から視線を外すことなどできなかった。
怖い。自分も頑丈な岩の中に閉じこもることが出来たらどんなに安心できるだろうか。
ティグラは魚の入った魚籃を脇に放り投げた。獣がそっちに気を取られた隙に駆け出す。
(なるべく大岩から引き離さないと)
そのあとどうするかまでは考えが回らない。とにかく獣をマルヤから遠ざけることを考えて、ティグラは走った。
すでに獣は魚に興味を無くし、追ってくる。
四本脚での疾走。子供の脚力では逃げ切れない。獣の熱い息が首筋にかかった気がして、ティグラは鳥肌を立てる。勝手に涙がにじむ。
息が上がる。手足が重い。
どれだけ逃げたか、時間の感覚がない。ずっと逃げ回っていたのかもしれないし、ほんの瞬間かもしれない。
もう走れない。体力の限界だ。
兎の巣穴か、草の下の石か、ティグラは蹴躓いて転んでしまった。
振り返ればすでに獣がそこにいた。
想像してみてほしい。自分の倍以上高いところから見下ろす、陶器のように感情のない獣の目を。その恐怖! ティグラの体はすくんだ。その場にへたり込んだままだ。
獣が大きく前足を振りかぶる。恐ろしい形の爪が並んでいる。かすっただけでも助からないだろうと思える長く鋭い爪だ。
ティグラに逃げる力はなかった。確実な死が空を裂いて振り下ろされるのを、ただ見上げ続けていた。
瞬間!
何かが割って入り、獣の爪を食い止めた。
ティグラの目に映る、その姿は何者か。
最初、ティグラは岩が飛んできたのだと思った。ぶつかった音からしても、硬い何かだ。しかしそれは意外にもティグラの方を振り返った。男だ。人間であった。
人間なのに首から下の体がまるで鉄のように硬化していた。
このときのティグラは知らなかったが、これは自らの体を鋼と化す、〈大地〉陰系の魔法〈鋼鉄の男〉なのだ。
ティグラを振り返って男はにっと笑った。傷のないティグラを見てほっとしたようすだ。優男といってもいい顔立ちながら、無精ひげもあいまって野性味のある笑みであった。
「無事みてえだな。ちょっとそこで座って待ってな!」
鋼鉄化を解除し、男は両手で持った大長刀で獣の腕を弾き反した。
「おおお!」
ティグラを守るように、雄叫びをあげ、長刀を回転させて自分の二倍はある獣と渡り合う。渡り合うどころか、鋭さと素早さで上回っている。時折宙にしぶく血は、全て獣のものであった。
「すごい……!」
その強さたるや。ティグラは息を呑んでその戦いを見ていた。
いったい誰なのか。ティグラはこの男を見たことがなかった。同じ村どころか、近隣の村にもこんな強い人間はいないはずだ。渡りの狩人という風体でもない。
正体は分からないが、その戦いぶりはティグラの目を釘付けにする。
男の攻撃が空を切り、獣の一撃が彼を襲った。先ほどの硬くなる魔法は使う余裕が無かったのか、武器の柄でなんとかガードしたものの、衝撃でぐらつく。
「ああっ」
悲鳴を上げたのはティグラであった。
男は振り向かないままで、ティグラに大丈夫だとハンドサインを送る。
ティグラの目には、彼の背中が獣より大きいもののように映った。
◇◇◇
男はじりじりと獣を弱らせていく。そしてついに、鋭い切っ先を喉元に突き込んだ。深々と刺さる刃。男の盛り上がった両腕。
だがそれでも獣は止まらない。血を撒きながら辺り構わず暴れる。
男は一度刃を引いた。距離を取り、大きく息を吐くと、獣へ向かって駆ける。
跳躍、体を反らせ、長刀を振りかぶった。
魔法〈伸びよ金気〉! 鉱物の大きさを変える魔法だ。
長刀の刃がどんどん伸びていく。それを、男は思いきり振り下ろした。
巨大化した刃が真っ向から、脳天から胸の辺りまで切り下げた。
長刀を手放して男は着地。長刀の刃が元の大きさに戻り、獣の胸から地面へと落ちた。
しばらくの間があって……
地響きを立てて獣は倒れ込んだ。もはや動かない。
それを確認して、男はティグラに向き直った。
息が荒く、さすがに疲労の色が濃い。それでも男は笑った。見上げるティグラの目には、輝くような笑みに見えた。
「そら、立ちな」
男はティグラの腕を引っ張って立たせてくれた。
まだ足元がおぼつかないが、ティグラはそれを隠してなんとか立った。子供の小さな意地を、男は好意的な目で見守っている。
「家はどこだ? 送ってってやるよ」
ティグラはどきどきして、すぐには返事ができない。
あの強さ。かっこよさ。すごい。すごすぎる。男を見上げるティグラの目がキラキラしている。
この人は、決して常人ではない。そう、まるで芝居で見たような……。
「おじさん、もしかして……護国騎士?」
「何!? おまえ、なんでわかっ……あ」
男は慌てて自分の口を押さえたが、その態度でティグラは本当に彼が護国騎士であると確信した。頬が上気し、瞳の輝きが倍加する。
(本物だ! 本物の護国騎士だ)
その熱い視線に、今さら否定しても無駄だと思ったらしく、男は開き直ったように手を広げた。
「そう、おれは護国騎士のトールヴァ。おじさんじゃないぞ」
いったん言葉を切ってから、芝居気たっぷりに、
「――でも、このことはナイショだぞ。おれとおまえだけの秘密だ。いいな?」
「すげえ。秘密作戦の途中?」
「そう思ってくれていいぞ」
「お姫さまを助けるの? あれはモンスター?」
獣の死体を指さして聞く。
「残念ながらお姫さまはいないな。あれはモンスターじゃなく……えー……熊だ」
口ごもったあげく無理のある答えを返したトールヴァ。だがティグラは熊の名は知っていたが見たことがなかったため、素直に受け入れた。
「誰……?」
岩の割れ目から、マルヤが恐る恐る顔を見せていた。倒れた獣や、その前に立つ男に対しても怯えたような目を向けている。
「なんだ、お姫さまがこんなところにいた。妹か? 妹を避難させてたのか?」
一瞬驚いたあと、トールヴァがティグラに聞いた。それが真剣な顔だったので、怒られるのかなんなのかわからず、ティグラは少しだけうなずいた。
するとトールヴァは破顔して、ティグラの頭を乱暴に撫で回した。父が子に、あるいは兄が年の離れた弟にするような乱暴さであった。ティグラが父にしてもらったことなど一度もないが……。
「よくやったな。偉い! すごいぞおまえ」
「おれは何もしてない……」
頭がぐらぐらしながら、ティグラは答えた。実際、自分が何か役に立つことをしたという意識はなかった。あの獣をやっつけたのは、全部トールヴァのおかげだ。
「バカだな。いいか、たしかにアレを倒したのはおれさ。だがな、妹を守ったのはおれじゃない。おまえだ! おまえが守ったんだ。誇れ誇れ。それを誇れ!」
大人に褒められたことなど何年ぶりだっただろうか。実の母が亡くなってからはじめてかもしれなかった。
マルヤが警戒しながら岩から出てくると、走ってティグラに抱きついた。
今までのマルヤでは考えられない行動に、ティグラはまごつき、戸惑った。引き剥がすのか、頭を撫でればいいのか、抱き返してやればいいのか、全然分からず、ただ棒立ちでいることしかできない。
ただ、……悪い気分ではなかった。
◇◇◇
「――おい、おいって」
「きみだけ言わないのはずるいとぼくは思うな」
「どうして護国騎士になりてえんだ?」
二人の呼びかけに、ティグラは現在に戻ってきた。
「ああ、そうだな……」
まだまぶたの裏には、トールヴァの笑顔が焼きついている。
ティグラは、ちょっとだけ、あの日のように笑った。
「旅芝居にあこがれて、かな」
トールヴァが護国騎士なのは、ナイショなのだ。
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