第10話 渋川透は空気を読める。
翌朝、目を開けると見慣れない天井が目の前に広がっていた。それもそのはずで、今は観光地のホテルに泊まっている。
昨日のフレッシュマンキャンプでは、昼間は牧場でBBQと散策、夜はレクリエーション大会、それに加えて、石段街での高崎緋彩との邂逅。もしかしてあの夜の出来事は夢だったのではないか。俺の深層心理を反映して、かなりリアルな夢を作り出してしまったのではないかと、そう疑ってしまうくらい、俺にとっては濃い1日だった。
カーテンを開けると、燦々と輝く太陽の光が視界に差し込んできた。今日も晴天だ。
机の上には、人気テーマパークのチケット2枚が煩雑に置かれている。昨日のビンゴ大会の景品、どうやらこれは夢ではないようだ。来年の3月までの有効期限なので、早めに月乃に渡そして、有意義に使ってもらおう。
一人掛けのソファの上には、昨日脱ぎっぱなしにしてしまった衣類が山積みになっていた。早めに荷物をまとめようと、衣類を触ると、ズボンの一部が変色しているのに気づく。ハンカチも不自然にカピカピになっている。こちらもやはり夢ではなかったのか。
突然女の子と衝突して、アイスをぶつけられてしまったその跡がしっかりと残っている。ぼんやりと温かみのあるライトに照らされる石段街と高崎緋彩。あの時間が一番不思議だった。
普通、こういうイベントって恋愛的な意味でドキドキするような展開が期待されると思うが、残念ながらそうではなかった。
高崎緋彩がなぜ俺に対してあのような言動をしたのか、その事実に対しての理由は判明した。でも、相互理解できたわけでもなく、相手の存在を許容したわけでもない。ただその事実と行動が繋がって、それを認識しただけ。
決して、互いの距離感が縮まったわけではないのだ。
考えれば考えるほど、昨日の出来事全てが現実であると把握できても、やはり俺にとっては非現実的であったことに変わりはない。
昨日のことはこれで一旦解決としよう。これ以上あれこれ考えてもどうにもならないこと。そもそも俺と高崎緋彩は生きてる世界が違うのだから、今後よっぽどのことがなければ混じり合うことはないだろう。
朝食バイキングが9時まで。今は8時ちょっと前だからまだ全然間に合う。チェックアウトは10時だし、時間の余裕もある。さっさと食べに行ってしまおう。朝食バイキングの引換券を手に取り部屋を出た。
バイキング会場は、昨日とは異なるため、一般の客もいた。うちの学生もちらほらいるようだが、俺が見知る顔はない。朝はそこまで食欲がないため、ブラックコーヒーに、いちごジャムを塗ったトーストだけ持って席についた。
やはり朝はコーヒーに限るな。ブラックコーヒーっていつから飲めるようになったのだろうか。小さい頃は甘ければ甘い方が良いという精神のもと、ガムシロやミルクをたっぷり入れていたものだ。それが気づいた時には、甘さを一切無くしたブラックになっていた。
大人になるにつれて、子供の頃に持っていた大切なものはどんどん失っていく。多分、現実世界を見るようになって、そんな自分への甘えみたいなのを捨てていくのだろう。それと同時にコーヒーの甘さも捨てた。現実も苦く苦しい。ブラックコーヒーも苦い。おぉ、なるほど我ながらうまいことを言っているのではないだろうか。このコーヒーの味もうまい。2重にうまいこと言ったな。
なんていつものように一人の世界に入り浸っていると、俺が見知った数少ない人物が会場へ入ってきた。高崎緋彩だった。
色々物色しているようだが、遠目に見てもそこそこの量の料理を取っているのがわかる。一通り盛られたトレイを持ちながら、キョロキョロと席を探しながら歩いてくる。会場は満席に近かった。はけていく人もいるが、待っていた別の客ですぐに埋まってしまう。
高崎緋彩は俺の近くまで歩いてくると、目が合ってようやく俺の存在に気づいたようで、少しビクッと体が反応していた。すぐに目を逸らして、歩き始めるが、やはり席は満杯だ。
しかし、俺は二人掛けのテーブルに座っていることもあって、目の前の席は空いている状態ではある。全く知らないという関係でもないわけだから、声だけかけてみることにする。
「おい、席ならここ一応空いてるぞ。」
一応、という言葉を添えておくことで、ここに座れよ、と強要する訳でもなく、一緒に食べようぜ、なんてあなたと食べたいという意志表示を無くし、まぁ空いてるから座りたければ座れば?的なニュアンスにすることができる万能な言葉なのだ。
と勝手に解釈しているだけなのだが。
高崎緋彩は、目を細めいかにも嫌そうな表情を浮かべたが、最後は諦めたように俺が勧めた席へと無言で座った。
トレイを見ると、ウィンナーに卵焼きに納豆、ハム、焼き鮭、サラダ、ひじき、ご飯、味噌汁とてんこ盛りだった。そういえばBBQの時のおかわりも肉を中心に欲しがっていたな。結構大食いなのかもしれない。
「何よ。」
俺がジロジロと料理を見ているのが気に食わなかったのか、ジロッと睨んできた。やっぱり怖いなー。まぁそりゃ料理をジロジロ見られていい気がするやつなんていないか。
「いや、すまん。結構朝から食べるんだなと思って。」
「そういうあんたは食べなさすぎじゃない?」
「朝は食欲がないんだ。コーヒーだけでもいいくらい。」
ずるっとコーヒーを嗜んでみせる。
「ふーん、でも朝食が一番大事じゃん。脳と体の活性化にも必要だし、集中力や記憶力が高まる午前のゴールデンタイムの勉強にはうってつけじゃない。」
正論をぶつけられて、カッコつけて飲んでいたコーヒーをテーブルに置く。高崎緋彩は真面目なのだろう。昨日の話からも部活に真剣に取り組んでいたことはわかるし、確か元々医学部志望、勉強も得意なはずだ。彼女に取っての朝食は、俺みたくどうでもいい食事ではなく、日中の活動を最大限にするための重要な食事として位置付けているのだろう。
「お前、真面目だな。」
高崎緋彩は口に運びかけた卵焼きをお皿に戻し、不満ありげにこちらを見る。
「また馬鹿にする気?」
また、これはきっと昨日話した過去の出来事のことを指しているだろう。別に馬鹿にしたつもりはない。至って普通に抱いた感想を述べただけ。
「いや、そんなつもりはなかった。」
むすっとした表情に変わりはないが、再び卵焼きを口の中へと運ぶ。
「友達と一緒にご飯を食べに来なかったのか?」
ふと疑問に思ったことを口にした。女子同士の人間関係は今の所悪くはなさそうだ。まぁ、まだ会って2日、3日で悪化するほど距離を詰めてもないのだろうが、昨夜も一人で石段街へ来ていたみたいだし、なんとなく気になった。
「あまり集団行動って好きじゃないし、いちいち誘わなくてもいいかなって。」
「誘わなくたって、誘われることはあるだろう。そういう時はどうするんだ?」
「場合によるかな。そもそも食事する時ってあまり会話したくないの。食べることに集中したいし。会話されると、どのタイミングで食べればいいかわかんないし。そーゆー子に合わせるのが得意ではないの。」
世の中には会話と食事を同時に操って楽しむ人間は確かにいる。俺もそういう人間はあまり得意ではない。
上手くできる人間なら問題はないと思うが、下手な人間がそれをすると、食べ方が汚くなるし、客観的に見ても行儀が悪い。それなら、喋りたいならさっさと食べて、会話の時間を作ればいいし、メリハリをつけた方がいいのでは、と俺も常々思っていた。
と、すると今俺は高崎緋彩の食事の時間を邪魔していることになる。自分のトーストはもう食べたことだし、他の学生からも何かまた噂されるかもしれないし、さっさと席を立ったほうが良いだろう。
「そうか、それなら邪魔をしたな。すまん。」
残ったコーヒーをぐびっと飲み干し、トレイを持って去ろうとすると
「席、ありがとう。」
そう小さく高崎緋彩は言葉にして、目の前の食事に集中する。
こうして間近で高崎緋彩を冷静に見ると、世間的には綺麗な分類に入るのだろう。顔立ちも整っているし。ただ、昨日は前橋霞というミス安峰が近くにいたがために、その存在感が若干薄れていた。だから気づけなかった。あとは普通に怒った顔しか見てないから、というのもあるが。
さっさと部屋に戻ってゴロゴロ時間潰しでもしよう。
ホテルのチェックアウトを済ませ、安峰大学薬学部1年生一行は再びバスに乗り、帰路に着く。フレッシュマンキャンプは2日間とは言いつつ、2日目は帰るだけの日程。お家大好きな俺にとっては嬉しい日程なのだが。
帰りのバスの席も隣は境宗介。当たり障りのない会話を振られては反応するを繰り返す。おそらく、本当は俺と高崎緋彩とのことで何か聞きたいのかもしれない。境宗介はそういうのに敏感だ。行きと帰りで俺たちの雰囲気が何か変わったことに気がついているだろう。けれど、高崎緋彩は後ろの席、こんな近くで話したら会話は筒抜け。高崎緋彩もいい気はしないだろう。
バスに揺られて1時間強。大学へと戻ってきた。名残惜しそうに外で喋り続ける人もいれば、俺みたくさっさと帰ろうとするやつもいる。高崎緋彩は2、3人の女子と話している。
ここに留まる理由もないため、さっさと帰ろうと思ったが、やはり境宗介に呼び止められた。
「渋川君、このあとみんなで遊びに行くけど、どうかな?」
案の定の誘いだ。というか、お前ら遊び過ぎじゃね?どんだけ一緒にいたいの?
「すまん、疲れたから家に帰る。」
これは事実である。人とコミュニケーションを取る大変さ、そして知らないところで寝る心地の悪さ、その他肉体的・精神的疲労感でいっぱいであった。
そして、境宗介の提案を断るのはこれで3回目。やはり彼は性懲りも無く俺を誘い続ける。
「了解。ゆっくり休んで。また来週かな、今度は授業で。」
軽く手を振り、その場を立ち去った。境宗介の良いところは、しつこく勧誘してこないところだ。これで「まぁまぁそう言わずに」とか言いながら肩組んでくるやつだったら、フルシカトをかますことに決めている。
昨日は時間の関係で自転車で大学まで来ていたので、停めてある駐輪場へ向かうと、複数の自転車がドミノのように倒れていた。この時期の群馬の風はかなり強い。自転車で向かい風に立ち向かおうものなら、髪の毛はオールバック、顔面はぐしゃぐしゃになる。よくテレビで芸人が巨大扇風機の風で変顔を披露しているのをイメージするとわかりやすい。そのくらいの風なのだから、自転車を倒すなんて容易い。
とはいえ、ドミノ状態になった自転車を取り出すのは容易ではない。端から順に元に戻していくしかないのだ。
一台一台起き上がらせていくと、後ろから聞き覚えのある儚げな声が聞こえた。
「渋川くん?手伝うよ。」
前橋霞先輩だ。今日は一度も見ていなかったが、昨日とは打って変わって、シャツにパンツスタイルとラフな格好だ。それでも前橋先輩の持つ魅力が薄まることはない。
「あー、いや、このくらいなら大丈夫っすよ。」
「まぁまぁ、そう言わずに、お姉さんの言うことは素直に聞きなさい。」
急なお姉さんキャラ。初見の印象は近寄り難い、高嶺の花のような存在だったが、しゃべってみると案外子供っぽさもあって親しみやすい。
「すんません。」
一緒にドミノ自転車を立ち上がらせること5分。なんとか俺の自転車までたどり着いた。二人でやるとこうも早く終わるとは。
「これが俺のです。助かりました。」
ヨイショと自分の自転車を起き上がらせ、軽く故障がないか確かめる。
「よかった。もう帰るの?」
「はい、別に用もないので。」
「君はやっぱり一人が好きなんだね。」
前橋先輩はくすくすと笑う。そういえば昨日の牧場でも言われたっけか。
「昨日は楽しんでくれた?」
楽しむ、いつからだろうか、俺は楽しむということが分からない。何かをしてて楽しいと感じない。人が楽しそうにしているのはわかるが、自分がその感情を抱けない。昨日のレクリエーションもそうだった、みんな楽しそうに笑いながら、あの時間を過ごしていた。前橋先輩もそうだった。俺がビンゴで1等を取った時も、この人は楽しんで笑っているようだった。別に面白いことをしたわけでもないのに。
分からなかった。
だから、楽しかった?と問われて、「楽しくなかったです。」は俺の中の真の答えではない。正しくは「楽しいが分からないです。」だ。
ただ、この場でそれを言ったとしたら、前橋先輩に余計な気を使わせてしまう。それにあれだけ準備してきたことに対して、そんな感想を伝えたら傷つけてしまう可能性もある。
だから、俺は
「楽しかったです。」
こう答えるしかなかった。
昔の俺だったら素直に「楽しくなかったっす。」とぶっきらぼうに言っていたと思う。けれでそうもいかないと、妹の月乃に叩き込まれた。そのおかげもあって、空気が読んで発言できるようになった。
だから今回は、空気を読んで嘘を付いた。
「そう。それならよかった。」
前橋先輩は優しく微笑んで、一言そう言うだけだった。何が楽しかった?とか深く突っ込んでこない。境宗介もそうだった。俺が真意でそう言っているのではないと、気づいているのだろう。でもそう言うしかないという状況を理解して、俺に気を遣って、ただ肯定するだけ。
話す相手に恵まれている、そう感じざる得なかった。
「そういえば渋川くん一人暮らしだっけ?」
空気感を察知してなのか、話題を変えてきた。頬に指を当て、はてと考える仕草もまた子供っぽい。
「そーですね、ありがたいことにそうさせてもらってます。」
「あれ、でも
「いや、うちは母子家庭なので、特別裕福ではないです。」
「あ、ごめんなさい。不謹慎なだったね。」
そういえば、他人に家庭事情なんて今まで話したことなかったな。まぁそもそも聞く人間もいなかったし、そこまで仲の良い人間もいなかったせいもあるのだが。
事実、俺は母子家庭で育った。
確か、小学校3年の頃に–––––––と、過去を思い出そうとした瞬間、ズキンっとこめかみ付近に痛みを感じ、手で押さえる。
「っ・・・」
「大丈夫!?」
前橋先輩が近づいて、俺の肩に優しく手を添える。服の上からでも前橋先輩の暖かみを感じる。にしても近い。流石に近い。すっと後ろへ一歩後退り、前橋先輩と距離を取る。
前橋先輩が触れたからなのか、それともただの一瞬の出来事だったのか、すぐに痛みは引いた。
「大丈夫です。心配させてすみません。」
「本当に?送ってこうか?」
「いやいや、本当に大丈夫です。ただ疲れてるだけだと思うので。」
仮に本当に前橋先輩に家に送ってもらったとしよう。そしてそれを誰かに見られたとしよう。俺の来週からの大学生活は穏便では済まないだろう。人間は噂好き。一度広まれば尾ひれが付きに付きまくってもはや原型を留めないことすらある。
さらにその影響は俺だけに留まらず、前橋先輩にも及ぶ。100歩譲って俺は良くても、影響力がある前橋先輩に男の噂が立ってみろ。それこそ大ごとになる。
周囲から見ればさぞ羨ましいシチュエーションだろう。憧れの先輩と一緒に帰って、その後の展開を勝手に妄想する。ドキドキが止まらない。まさに青春。いや、これを青春と呼ぶのか、ただの変態と呼ぶのか俺には分からない。おそらく後者だろう。
「そう?でも本当に気をつけてね。」
「はい、昨日今日と先輩もお疲れ様でした。」
「うん、じゃあまた来週から頑張ろうね。」
前橋先輩は薬学部棟へと戻っていった。
「頑張ってね」ではなく「一緒に頑張ろうね」と言えてしまうところが、前橋先輩の魅力の一つだろう。同じ環境で、同じ学び舎で、共に過ごす仲間として意識させている。このさりげない一言でも、相手をグッと惹きつける。
昨日、境宗介は俺と前橋先輩に近しいものを感じると言っていたが、本当にそうだろうか?やっぱり俺とは正反対。何ランクも上にいるようだ。今回ばかりは境宗介の単なる勘違いだろう。
風がビューっと吹き荒ぶ。また自転車がドミノ倒しにならないうちに帰ってしまおう。
ゆっくりと自転車を漕ぎ出し、今度こそアパートへの帰路に着く。
大学生に青春は遅すぎる? ゆうじん @yuzin825
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