第9話 高崎緋彩は振り返る。

 牧場でのBBQ、自由時間を終え、再度バスに揺られて宿へと到着した。牧場からさらに山を登ったところにあるが、観光地の中心に近づいただけあって、賑わいを増し、車の県外ナンバーも多く見られた。学校は春休み中のため、平日でも子連れの家族や学生が旅行に来ているのがわかる。

 今回泊まるのは、温泉地入り口付近にある大きなホテルだ。もちろん温泉もついている。広いロビーに入ると事前にチャックインを済ませてあったのか、順番に鍵が渡された。部屋割りは一人部屋か二人部屋となっており、二人部屋ではもちろん男女が分かれている。幸運なことに俺は一人部屋に割り当てられた。部屋はシンプルな作りで、風呂トイレが一緒のユニットバス、ビジネスホテルのようなものだ。

 部屋に荷物を置いたら、ホテルで一番大きい大宴会場に集まり、そこでレクリエーションが行われる。

 会場は既にセッティングされ、15個の円卓テーブルが規則的に並んでいる。白いテーブルクロスの上にはA~Oの札が置いてある。椅子は6〜7個置いてあることから、1グループがそれくらいに分けられそうだ。一番奥にプロジェクターが置いてあり、何やらトラブっているようで、先輩たちがあーだこーだいながらケーブル類を接続している。少しすると、ブインという音とともに真っ白だったスクリーンに映像が映し出された。どうやら席次表のようだ。グループ分けはランダムなようで、俺はFグループに割り振られていた。そして、不運というべきか、宿命というべきか、高崎緋彩と一緒のグループであった。

 ただ、先ほどのBBQのおかげもあってか、少し警戒心は薄れている。あの場面では、それなりに喋る時間もあったし(もちろん不穏な空気の時もあったが)ビンタを食らうこともなかった。

 気になるのは、あの時、高崎緋彩が何かを言おうとしたこと。深追いすることはなかったが、あの最後の姿は何か俺の心に引っかかるものを作った。

 テーブルに着席して待っていると、続々と他の生徒も入室してくる。高崎緋彩もそれに合わせて入ってきた。スクリーンに映された席次表を見るなり、目を少し見開くのがわかった。それは嫌悪感なのか驚きなのか判別はできなかったが、何かしらの感情を抱いたことは確かだろう。

 高崎緋彩は俺と席を一つ開けたところへ座った。おそらく真正面は俺と目を合う可能性があることから避け、隣はもちろんあり得ないから、だろう。

 着席してから特に会話はない。その後のレクリエーションも何事もなく進んでいった。先輩たちが、みんなが楽しめるように一生懸命に考えてくれたのであろう。その甲斐もあって、本当にみんな大いに盛り上がっていた。何事もなく終わればよかったのだが、一つ予想外のことがあった。

 それがレクリエーションの最後に行われたビンゴ大会での出来事だ。通常であれば、ビンゴになった人から景品を選ぶ、もしくは1等から順に景品をもらえる、というのがルールとして多いが、今回はビンゴになった人からくじを引き、そのくじで景品が決まるというもの。つまり、最初にビンゴになればいいというわけでもないのだ。

 これの理由としては、従来のビンゴルールだと後半の失速がどうしても発生してしまい、盛り下がっていく傾向にあるということだ。実際その通りではあると思う。後半の消化作業感は否めない。それを防ぐ今回の特殊ルールは画期的だ。平等にチャンスが広がり、ハラハラドキドキ感といった楽しめる時間も多くなる。しかしそのルールは俺に不運とも取れる幸運をもたらしてしまった。

 なんと1等を取ってしまったのだ。あの時の歓声というか感嘆というか、俺に取ってはかなりキツかった。ただでさえ注目を浴びるのが嫌いなのに、これほどまで視線を集めてしまうのはキツかった。

 しかも1等の景品が、大人気テーマパークであるウォルトスカイのペアチケットだった。当たった時の司会進行をしていた先輩は、「大事な人と行ってくださいね〜」なんて冗談めいて言っていたが本当に冗談はよしてくれ。前橋先輩をチラッと見ると、くすくす笑っていた。くそ、絶対に面白がっていやがる。あの美貌と性格がなければ普通に嫌いになっていただろう。


 レクリエーション後はそのままバイキングディナーとなった。お昼にたんまり食べていたおかげで、そこまでお腹が空いてなかったのだが、いざ豪華な食事が目の前に並ぶと自然と胃袋の空き容量が増える。3つに分かれた皿にバランスよくサラダやおかずを盛っていると、境宗介がにやついや顔で近づいてきた。


 「渋川君、やっちゃったね。」

 「おい、何も悪いことはやってはないぞ。悪いことをした雰囲気は流れているが、決してそんなことはしていない。」


 ビンゴ大会でのことだ。あれは平等に分けられた運だ。その運を俺が奇しくも得てしまっただけで何もしていない。


 「ごめんごめん。でもあのチケットはどうするの?」

 「さてな、妹にでもあげようかと思ってはいるが。」

 「月乃ちゃんだっけ?渋川君よりかは有効に使ってくれるかもね。」

 「あぁ、俺よりも社交的な月乃ならな。てか、月乃ちゃんって、お前何、狙ってるの?家族にでもなろうとしてんの?許さんよ?」

 「そんなこと考えてないって。本当に君は妹想いなんだね。」

 「冗談でもあんま妹のことはいじるなよ。」


 世間的にはこれをなんというか俺は知っている。そう、シスコン、というやつだ。これに関しては自覚している。俺は妹のことはもちろん、母さんも大切にしている。家族を大切するということは恥ずかしいことなのだろうか。おそらくこういった感情も欠如してしまっているのかもしれないが、それを抜きにしても俺は妹も母さんも大切な存在、これだけは変わらない。少なくとも、今の俺が保ててるのは二人のおかげでもあるのだから。

 チケットは月乃と母さんにあげよう。なんとなくそう決めてた。二人ならきっと楽しんでくれるだろうし、一番いい使い道だ。


 「わかったよ。そういえばまた高崎さんと同じグループだったみたいだけど、何もなかったかい?」


 境宗介はローストビーフを2切れを皿に盛り、次に何を取ろうか迷っている。


 「そうだな、今回は何もなかったよ。」


 俺は中華風の春雨サラダをトングで指差しながら、境宗介に取るように促す。


 「まぁ、そう毎回なんか起きてちゃたまったもんじゃないしね。」

 「あぁ。」


 俺からトングを受け取ると春雨サラダを一掴み取り、皿に追加した。


 「ご飯の後は、また自由行動だけど君はどうするの?」

 「特には決めてないな。」

 「僕の部屋が二人部屋で、何人か集まってトランプでもしようと思ってるんだけど、どうかな?」

 「それって女子も来んの?」

 「え?あぁ、来るよ。」


 またあのウェイウェイ系グループの奴らなのだろう。彼らは一人で過ごすことができないのだろうか。それとも誰かと過ごすというのが、彼らにとってのステータスなのだろうか。俺にはわからないが、やはりその空気感に馴染める気はしない。


 「悪いな、今回もパスするよ。」

 「了解。君もゆっくり過ごしなよ。」


 境宗介は一通り盛られた皿を自分のテーブルへと持っていった。牧場でも誘ってくれたが、2回連続で彼の誘いを断ってしまった。きっと彼はこれからも俺を誘い続けるだろう。そしてそれを俺は断り続けるに決まってる。


 夕食後はフリータイム。温泉に入ろうが、少し外で出歩こうが自由だ。もう大学生という身分であることから、そういう管理は自己責任ということで判断が任せられている。

 先に少し外へ出て飲み物でも買いに行くとしよう。ホテル内でも自販機はあったが、割高だし、外へ出歩きたい気分でもあった。

 ホテルから近くのコンビニまでは10〜15分くらい歩く必要がある。高校の頃から使っている、薄くて、それでも防寒性のあるダウンジャケットを羽織って外へと出ると、寒さが一気に体へ伝わってくる。夜は一段とまた冷えるのだ。

 浴衣を着たカップルやアルコールが入って陽気になった学生、おじさんの集団を横目に見ながら目的地へと向かう。

 コンビニでは適当に飲み物やついでにお菓子を買った。用も済んだのでさっさとホテルへと戻ろうとしたが、ホテルに置いてあった地図を思い出した。確かこの先が、温泉街の中心であり、この街名物の石段街があったことを思い出す。さらに10~15分ほど歩くことにはなるのだが、どうせ帰ってもやることはないため、行ってみることにした。

 小さい頃の記憶しかないが、石造りの階段が365段あり、その傍には昔ながらのお店が立ち並んでいたはず。少年だった俺にとっては、あまり面白いものではなかったかもしれない。記憶も曖昧なため、余計に行きたいという気持ちが高まった。

 石段街入り口へと近づくと道が開けてきて、人も多くなった。思ったより明るいなと感じながら、歩みを進めると驚いた。

 真新しく整備された石段の中心に温泉だろうか、お湯が流れており、下の広いスペースにはフォトスポットとしてモニュメントみたいなのもある。こんなに綺麗だっただろうか。オレンジ色のライトが至る所にあり、落ち着いた雰囲気を作り出し、昔ながらの旅館や景観の情緒を崩さないような配慮も見られる。

 流れるお湯へと近づくとやはり温泉のようだ。上を見上げると、石造りの階段が延々と続いている。流石に365段登ろうとは思わないが、せっかく来たんだし、途中まで登ることにした。

 少し登っていくと良い匂いが鼻を通るのを感じた。玉こんにゃくが売られていた。こんにゃくは群馬の名産品だ、多くの観光客が玉こんにゃくを片手に石段を登っているのに気づいた。小さい女の子は熱々なこんにゃくを、火傷しないようにはふはふしながら口の中へ頬張る。実に美味しそうな表情だ。将来CMはこの子に任せるべきだろう。

 階段を登り続けると、今度は洒落たカフェのようなお店が見えた。室内にはテレビもも置いてあり、それを見ながら片手でホットワインを楽しむ大人たちが複数いる。歴史あるお店もあればこうして時代に沿ったお店も作られている。観光客離れは、観光地にとっては死活問題。古き良き歴史を大事に、はその通りなのだが、現実を見ればそうも言ってられない。集客するためにも、進化しなければならないのだ。

 周囲には射的屋もあるが、そういえば小さい頃にやった記憶がある。あの頃は楽しくて夢中になっていたな。大人でも十分に楽しめる娯楽ではあるが、今の俺ではきっと楽しめないだろう。パチンっと放たれた弾が景品に当たって倒れたのだろうか、大盛り上がりの若い男女の集団がいる。彼らにとってきっと良い思い出になるに違いない。

 そろそろ中盤くらいに来ただろうか。運動不足の俺の足は、悲鳴を上がりつつある。息も切れ切れだ。これは体力作りしないと将来が大変そうだな。子供たちが元気に階段を駆け上がっていく姿を見ると、自分が情けなくなる。

 最初は一番上まで行く予定はなかったが、なんだかここまで来たら変わらない気がして、結局最後まで登ることにした。最上段にある神社へ続く階段が結構急で俺の足へ追い打ちをかけたが、なんとか辿り着くことができた。神聖な雰囲気の中、お参りで行列をなす人々もいれば、あれは甘酒だろうか、登り切って体力を消耗した体へ栄養を送るために甘酒を求める人々で往来していた。

 せっかく来たのだから参拝でもしていこうかと財布出そうとしたが、そもそも持ってきてないことに気づいた。今はキャッシュレスの時代、スマホ一つでなんでも買えちゃう時代。当初はコンビニだけ行こうと思っていたから、スマホ一つ身軽に出かけたのだった。流石にキャッシュレスで参拝はできないので、滞在時間もそこそこにきた道を戻ることにした。

 下る方もなかなか大変で、足の別の筋肉を使うし、急なところは滑り落ちる可能性もあるから慎重に歩みを進めた。しかし帰り道の石段街は、来た時とはまた違った景色だ。石段街に加えて、星々が輝く夜空、遠くには月に照らされた山々があり、ちらほらと家の明かりのようなものも見える。歴史と自然が融合した、美しい眺めだ。昼間だったら、青空と青々とした山が共存する別の景色も楽しめるだろう。

 そんな景観を見ながらやっとこさ先ほどの玉こんにゃくが売られていた場所まで戻ってくると、見覚えのある顔があった。

 緋色で、毛先を少し遊ばせたミディアムショート、よく見ると鼻立ちもクッキリしている整った顔だ。周りの優しいオレンジ色のライトがその女をぼんやり照らす様は、少し幻想的に見える。そこに浴衣姿とあるから尚更だ。片手に熱々の玉こんにゃく。ハフハフと熱そうにしながら口いっぱいに頬張り、美味しそうな表情を浮かべる。CMが来てもおかしくはないな。

 そんな高崎緋彩が俺の目の前にいる。ここで気づかれたら何か言われるかわからないし、何より幸せそうな今の時間を邪魔するわけにもいかない。

 そっと通り過ぎようとしたが、アイスを持って走ってきた子供の女の子とぶつかり、アイスがズボンへとべっとりついてしまった。母親がすみませんと何度も謝罪とティッシュやハンカチあらゆるものを使ってズボンについたアイスを拭き取ろうとしてくれた。


 「全然大丈夫っすよ。安物ですし、自分で拭くのでそのままで。」

 「いや、でも流石に申し訳ないです・・・」

 「ホントにホントに大丈夫ですから。お子さんも待ってるのでどうぞ行ってください。」


 最後まで何度も謝って、子供にも謝らせて、申し訳なさそうに母と子はその場を後にした。俺はしゃがみ込んで、持っていたハンカチでアイスを拭き取る。結構しっかり目についたから、ハンカチもぐしょぐしょだ。そして、このちょっとした騒動によって気づかれない訳もなく、高崎緋彩の方に視線を移すと案の定目が合った。

 ゆっくりとこちらへ近づき、俺と同じ目線でしゃがみ込んできた。フワッとシャンプーの香りが鼻腔を通り過ぎた。いきなりの接近で少しドキッとしたが、高崎緋彩は「はぁー」っとやむないように息を吐き出し


 「ちょっとあっち来て。」


と石段から少しそれた広いスペースのベンチを指差した。


 「いや、俺は––––––」

 「いいから。」


 大丈夫、という言葉を遮り、高崎緋彩はベンチの方へと向かう。ここでまた同じ言葉を繰り返すことになれば、あの女の怒りを買うことになりかねないと思い、やむを得ず指示に従うことにした。

 高崎緋彩がベンチに座ると、1人分の間を空けて同じベンチへと座る。

 無言でスッと差し出されたのは未開封のポケットティッシュだ。


 「使っていいよ。」


 決して目を合わせようとはしないが、高崎緋彩なりに気を使ってくれているのだろうか。ここは素直に受け取ることにする。


 「ありがとう。」


 間違っても手に触れないようにそっとティッシュをもらい、ズボンに付いた残りのアイスを落とす。その間、互いに何かを喋るわけでもなく、無言の時が過ぎていた。

 不気味だ。この女の行動には一貫性がないように見える。

 昨日は初めましての俺にいきなりビンタを食らわし、今日のBBQでも険悪なムードが途中まで漂っていたが、何かを俺に伝えようとしおらしい姿を見せた。けれど、レクリエーションで一緒になっても一言も話さず、目も合わさずで関わるなオーラを出していたかと思えば、今のこの対応だ。


 「くしゅんっ」


 横から小さくくしゃみの音が聞こえた。よく見ると浴衣に薄手のアウターを羽織ってるだけで、昼間ならまだ良いかもしれないが、寒さが増したこの時間帯にはちと厳しそうだ。


 「風邪ひくぞ。ホテルに戻ったらどうだ?」


 鼻をさすりながら


 「あんたに言われなくてもわかってる。」


 とぶっきらぼうに言い、すっと立ち上がったが、逡巡してまた座り直した。何がしたいのか。


 「お前、一人で来たのか?」

 「そう、みんなどうでもいい話ばっかりするし。」

 「どうでもいい?」


 右肘を膝について頬杖をつくようにライトアップされた石段を眺めている。


 「どの男子がかっこいいとか、彼氏いるのとか。」

 「女子はそういう話好きだよな。」

 「男子だってそうでしょ、どうせあの子は可愛いとか勝手にランク付けしてるんでしょ?」

 「まぁ、確かにそうかもな。でも、俺もそういうのは得意じゃない。」


 短い言葉のキャッチボールの後、再び沈黙が流れる。高崎緋彩は、その沈黙を破るように、ふーっと息を吐き出し、意を決したように言葉を紡ぐ。


 「あんたさ、なんで怒らなかったの?」

 「怒る?何にだ?」

 「そんなの・・・昨日のことに決まってるでしょ。」


 自分で言っておきながら少し恥ずかしそうな表情を浮かべる。


 「・・・自覚はあるんだな。」

 「何よその言い方。それでどうなの、怒りを感じなかったの?」

 「うーん、怒りは感じないな。俺にはそういう感情が欠落してるし。」


 高崎緋彩は、俺の答えに悲しげなで、同情するように目を少し細めた。


 「そう、あなたもそう言うのね。」

 「あなたも?」


 言い方に何かが含まれているのはすぐにわかった。誰かと比べている。


 「私ね、あなたみたいな人、嫌い。他人を何もかも見透かして、でも自分のことはどうでもよくて達観しているようなあなたが。」

 「俺がどういう人間なのか、お前はわかったのか?」


 頬杖をついていた手をベンチに置き、後ろへ体重をかけるようにして、夜空を見上げた。


 「少し、ね・・・言っておくけど、あなたとは初めましてではないから。あなたは覚えてないでしょうけど。」


 俺と高崎緋彩は既にどこかで顔を合わせていたことがあるのか?


 「え、だけどBBQの時、前橋先輩に詰められた時完全否定してたじゃないか。」


 あの時同時に否定したことを思い出す。


 「そりゃあの場面ではね。どうせあったことあるなんて言ったら、根掘り葉掘り聞かれるに決まってるじゃない。」

 「確かにな、で、その、なんだ、どこでお会いしたことが?」


 もちろん俺は覚えてるわけもないので、恐る恐る尋ねた。


 「まずは中学1年の時のソフトテニス合同練習会。そこで初めてあなたと会った。」

 「あれか、東中ひがしちゅうとの合同練習会か。あの時にいたのか。」

 「そう、その時はただあなたのことを不思議に思ってた。」

 「何を不思議に思うんだ?」

 「だって感情を表に出さないんだもの。ポイントをとっても喜ばないし、ミスしても悔しがらないし。ただスカしてるだけのナルシストなのかと思った。」

 「いや、そんなつもりでは・・・」


 周囲から見れば当時の俺なんてそう思われてもおかしくはなかったかもしれない。


 「2回目は、中学3年の最後の県大会の会場。私は2回戦負けで不甲斐ない結果を残した。自分の情けなさに苛立って、泣いてた。その時、通り過ぎの男に「そんなに悔しいならやめればいいのに」って言われたの。顔を見た時、あなただと気づいた。すごいムカついた。なんで知らないやつにそんなこと言われなきゃいけないのかって。私の努力を否定するようなことをそう簡単に言えるのかって。それで気づいたの、あなたはナルシストではない。感情を持たない代わりに、相手を見透かして人の感情を馬鹿にするようなやつなんだって。私の知ってる人は、あなたみたいに直接言ってくることはないけど、心を読み取るみたいに私を理詰めしてくる。」


 高崎緋彩は、とめどなかった。俺が何か言葉を挟むことを許さず、淡々と言葉を吐き出し続けた。


 「だから、あなたが昨日講義室に入ってきた時、正直驚いた。そして湧きあがったの。心の中であの怒りが。そして相も変わらず、自分には何もない、半ば諦めているような無色透明な目と合った瞬間、私はあなたの元に向かってた。」


 高崎緋彩のいうことは正しかった。中学時代は、確かに誰とも一線を引いて過ごしてきた。思春期と相まって、態度として如実に出ていたと思う。周りの目を気にしないような、空気を読めない発言。それで少し問題になったこともあったのは事実。

 そういう背景があって、妹である月乃は危機感を感じたらしい。兄として、男として、人間として尊厳を保つために、改めなければならないと。だから、高校に入る前からコミュニケーションの取り方だったり、相手の気持ちを察知することを妹流で叩き込まれた。そのおかげもあってか、今は空気は読める、ようになっているはず。

 だが、当時の話を聞くに、明らかに俺が悪い。言動については記憶がないのだが、彼女の心に傷をつけたのは確かなのだろう。


 「すまなかった。」


 言い訳も補足も何も添えず、ただ一言、事実の対する謝罪の言葉を伝える。

 高崎緋彩はゆっくりと立ち上がり、淡いオレンジ色に照らされた石段街を眺めみる。空白の時が流れ、彼女は俺の方へと向き直る。その瞳は、初めて見た時の烈火に燃えるような怒りの感情はなかった。ただ、真っ直ぐに、でもどこか悲しみを湛えながら俺を見据える。


 「私も、ごめんなさい。」


 何に対しての謝罪なのかは、尋ねなくても分かる。俺と同じようにただ一言、罪を償う言葉を発するだけ。そして互いのその償いの言葉に対しての返答はなかった。許す許さないの話ではなかったのかもしれない。何か喉の奥でつっかえるような、そんな異物感があって、それが言葉として発するための空気の流れの邪魔をする。


 「私、先に戻るから。」


 くるっと背をむけるが、すぐには立ち去ろうとしなかった。俺が何か言葉を発するのを待っているのか、それとも高崎緋彩自身が何かをまた言葉にしようとしてるのか。しばしの沈黙の後、彼女は歩き始めた。

 彼女が俺の視界から完全に消えたのを確認して、安堵の息を吐く。長い時間だったように思えた。俺にとって、異性と話すこと自体がほとんど経験がなかった。あんなに長く会話をしたのは初めてかもしれない。いや、そもそも会話だったのか俺には判別できないが、異性と二人でいたのは、月乃以外ではこれが初めてだった。しかもただの世間話ではなく、少し拗れたややこしい内容だった。振り返れば振り返るほど不思議な時間だった。

 ブルっと体が震えた。流石に体も冷えてきた。ゆっくりと立ち上がり、先ほどまで高崎緋彩が眺めていたであろう景色を眺める。淡い橙色で照らされた石段、寒さを和らげるような暖かみを感じる。幻想的で綺麗だ。またこの景色を見れるときが来るだろうか。その時は、もっとこの雰囲気を楽しめるだろうか。柄にも無くそう思いながら、来た道を戻るのであった。


 

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