第2話 妹には敵わない。

 講義室は静まり返っている。さっきまで騒いでいた10人グループでさえも、言葉を発するのを憚られている。全員何が起こったのか、その現実を認識するのに時間がかかった。みんなの視線は、一点に集中。俺と俺に平手打ちをかましたこの女だ。

 普通、こういう状況になったらどうするのが正解なのだろうか。

 こちらもやり返す?

 「何すんだよ!」と言葉を発する?

 「親父にも殴られたことないのにっ」と一度は言ってみたい有名セリフを口にする?

 泣く?

 俺にはどれも正解とは思えず、そもそもこの女に言われたことすら理解できず、ただ呆然と女の燃え盛る瞳の中にいる哀れな自分を見ることしかできなかった。


 「ちょっと緋彩ひいろ!何してんの!?」


 同じグループにいた女子が、女の元へ駆け寄り腕をぐいっと引っ張った。

 待て、緋彩?こいつが緋彩か?名簿にあった、俺の後ろの学籍番号の「高崎緋彩たかさきひいろ」か?

 

 「ふんっ」


 自分がやったことに対して謝るでもなく、肯定するわけでもなく、ただ鼻を鳴らして元いた席に戻っていく。フワッと漂う柔軟剤の香りは、本当にあの女から発っせられているものなのか疑うくらい現実味がない。

 ようやく周囲も状況を理解し、「あいつなんかしたんじゃないの?」「めっちゃ痛そー」「いきなりビンタって(笑)」とあちこちで囁き声が聞こえる。

 どれも共感できる。何しろ俺が一番わからないのだから。


 その後は何事もなかったようにオリエンテーションは進んだ。大学の説明、教員の紹介、明日から始まるフレッシュマンキャンプについて。

 フレッシュマンキャンプは聞き馴染みがない人がいると思うが、要は新人交流会みたいなものだ。それが明日から2日間かけて行われるという。

 予定把握のために、それなりにしっかり聞いてはいたが、さっきの高崎緋彩から発せられた言葉が頭を反芻する。


「あなたの眼、その全て見透かすような透明な眼、気持ち悪いから私に向けないで。」


 言い得て妙、高崎緋彩は全ての感情が欠如した俺の心理状況を透明と表現した。自分は無感情だと今までは思っていたが、色がない、と指摘される方が確かに納得できる気がする。

 感情は色で表せられることが多々ある。赤なら怒りや情熱、青なら寂しさや悲しみ、黄色なら喜びや楽しさ、そういった色を無くした俺はまさに透明なんじゃないか。

 そして透明の厄介なところは色が付けられないところ。白いキャンバスがあればそこに色を足して、描いて、何かを形成することができる。でも、透明な俺にはそもそもそのキャンバスすらなく、ただ透過するだけ。

 こう考えると、高崎緋彩の発言は的を得ていると言っても過言ではない。実際、今もあの出来事に対して怒りも悲しみも湧かないのだから


 オリエンテーションが終わり、皆帰路へ着く。いくつかのグループは早速遊びに行くようだ。俺はもちろん直帰。

 外は日が落ち始め、青かった空をオレンジ色に染める。4月の群馬はまだ寒さが残るため、足早に麦畑の横を歩く。麦畑と言っても、穂はまだフレッシュな新緑だ。

 

 ポロんっ、とスマホが鳴った。メッセージの相手は三日月のアイコンマーク、妹の月乃つきのだ。

 

 月乃「おにぃ友達できた?」


 妹は俺の性格も無感情なことも知っている。分かってて聞いてくるあたりタチが悪い。


 透「兄を舐めてるのか?できるわけないだろう。」


 すぐに既読がつく。


 月乃「やっぱりそーだよねー。期待はしてなかったよ。」

 透「じゃあ聞くな。」

 月乃「一応ね。なんかやらかしてはない?」

 透「やらかし———」


 さっきまで調子良かったフリック入力が止まった。と同時に、足早だった歩調もゆっくり減速していき、歩みも止まってしまった。「やらかした」と返信しようとしたが、よくよく考えると俺はやらかしてはない。何もやっていない。ただ、あの女が勝手に平手打ちをしてきて、あたかも俺が何かをやらかしたかのように見せかけられただけだ。

 

 透「やらかしてはないぞ。ただ平手打ちされただけだ。」

 月乃「は?」

 月乃「おにぃ・・・」

 月乃「それを世間では、やらかした、と言うんだぞ。」

 透「そうなのか?でも俺は何もやってないぞ?」

 月乃「おにぃがそう思ってなくても、何かしてなきゃ普通平手打ちなんてしないでしょ。」

 透「まぁ確かにそうだな、何か、したのかもしれない。」

 月乃「おにぃは自覚がないからね。まぁでも、おにぃが何をして、どうなっても私は味方だからさ、安心したまえよ。」

 

 そう、月乃は、こんな俺でも見放すことなく、渋川透の妹でいてくれる。なぜか第一の理解者でいようとしてくれる。

 これが、俺が月乃を一線を引かないで済む数少ない人間の一人である所以なのだ。


 透「そうか、それは頼りになるな。」


 えっへんとふんぞり返った月乃が好きなゲームのキャラクタースタンプが送られてきたので、俺はそれ以上は何も返さないことにした。いつもの終わり方だ。

 かじかみ始めた指がほんのり暖かくなるの感じ、再びアパートへと歩みを始める。

 太陽も沈みかけの黄昏時、冷気を帯びた風が麦畑とカサカサと音を奏で、俺の右頬を労わるように優しく撫でる。右頬の痛みはもう消え去ったが、微かに残る熱感は、指先に感じる暖かさとは違うもの。この違いを俺は理解できるようになるのだろうか。

 

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