第1話 良太朗会社を辞める

  一


 あの日良太朗りょうたろうは、定時になったところで荷物をまとめ、鞄を片手に部長の席へと向かって歩き始めた。周りを見ても部長も含めて、定時上がりなんていない。

 部長の席にたどり着いた良太朗は、手に持っていた封筒を部長に差し出す。封筒にかかれている文字は退職届の三文字。


「お世話になりました。辞めさせていただきます」


「は? 今忙しいんだ。そんなしょーもない冗談に付き合ってる暇はない」


「本気ですよ」


「ふざけるなよ! そんなもの認められるか! お前みたいな役立たずは言われた通り馬車馬のように働いていれば良いんだ。そもそも──」


 部長は唾を飛ばしながら、引き止めというか怒りを爆発させている。だけど、良太朗の仕事を辞める意思は揺らがない。

 良太朗がまだ学生だった頃は、景気が厳しくて就職先を選べなくてこの会社に入った。それ以来、有給なにそれおいしいの? というようなブラックな状況でも、十年近くにわたって会社に貢献し続けてきたつもりだ。

 良太朗が仕事を辞める決意を固めたのは、先日亡くなった父親のことが原因だ。倒れた父親の見舞いに行くために、何度有給の申請をだしても受理してもらえなかった。おかげで父親を看取ることができなかったことが決定打になった。


「お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ」


「そうだぞ、置いてやってるだけでもありがたく思え」


 騒ぎを聞きつけたのか、いつの間にかやってきていた社長も一緒に怒鳴りつけてくる。一族経営の小さな会社だから、なにかというと社長も乗り込んできては怒鳴るのだ。社長の一族は従業員を、ストレス解消の道具か何かだと考えているのかもしれない。

 良太朗の代わりがいくらでもいるなら、父親の見舞いに行かせてくれればよかったのだ。そうできない。良太朗が居ないと会社が回らないということではないか。さらに置いてやっている。という上から目線にもう我慢の限界だ。


「代わりがいくらでもいて、置いてもらっているくらいの相手からの申し出なんですから、黙って受け取ってくださいよ」


「な、貴様──」


 良太朗の一言に、部長と社長は更にヒートアップして怒鳴り散らす。同僚たちは火の粉が降り掛かって来ないように息を潜めて様子を見ている。


「早く帰りたいので受け取って貰えませんか?」

 

「なんだと。どうしても辞めると言うなら、退職じゃなくて懲戒解雇にするぞ? どこにも雇ってもらえなくなるぞ?」


「そうですか、じゃあ労基に相談することにしますね。このやりとりのことや、今までのパワハラなんかをまとめて」


 これ以上は時間の無駄だと感じた良太朗は、二人に背を向け帰ろうと動く。それを見た社長は慌てた様子で良太朗を引き止める。


「ちょっとまってくれ! 冷静に話し合おうじゃないか。ここじゃなんだから、別室で」


「どんなに長くても、一〇分程度ですむのであればいいですよ」


 応接室に移動した良太朗と社長たちの話し合いはあっさりしたものだった。会社側が完全に白旗を上げて終了。特に驚いたのは、諦めるつもりだった有給を消化後に退職ということになったことだ。代わりに労基にはなにも言わないでくれと、土下座する勢いで社長たちに頼まれた。別室へ移動したのは、同僚たちに話を聞かれたくないという姑息な理由だったようだ。


 最後の出社日になっても誰にも別れを惜しまれることもなかった。良太朗の会社勤めはあっさりと終わりを迎えた。思えば同僚たちとプライベートな関係を持つことはなかった。少ない休日は外出する気にもならなくて、部屋に籠もって本を読むか配信で映画をみるくらいだった。そんなわけで、本当に仕事上の付き合いしかなかったのだから当然なのかもしれない。


   *


 離職票をもらった帰り道、通い慣れたいつものコンビニに立ち寄った。良太朗は条件反射のように向かった栄養ドリンクの棚の前で苦笑する。いつも飲んでいた超強力栄養ドリンクを手に取ってみる。パッケージの箱には、これでもかとばかりに生薬の名前と効能が書かれている。


「またそんなの飲んでまでお仕事ですか? 体に良くないですよ?」


「うぉっって店員さん。驚かせないでよ……」


「店員さんじゃなくて、りこ! 天川あまかわりこっていうちゃんとした名前があるんです。何回同じことを言わせるんですか」


「ごめんごめん天川さん」


「天川さんだと家族みんな天川さんなので、〝りこ〟って呼んでくださいって。これもいつも言ってますよね?」


 天川りこは、このコンビニのアルバイト店員だ。明るい茶色の髪をショートに揃えた元気な娘で、いつも楽しそうに働いている。縦縞のコンビニ制服もよく似合っているし、美少女と言って間違いないだろう。

 持ち前の明るさで良太郎とも話をする機会が多い。小さめの身長もあいまって、イメージとしては柴犬がぴったりだ。


「今日もそのドリンクと何かお弁当ですか?」


「いや、今日はこのドリンクは買わないよ。つい癖でね」


「癖で栄養ドリンクって、どんだけ不健康な生活してるんですか……」


「ブラックな職場だったからねえ。コレを飲まないとダメだったんだよ。おかげでこの棚の配置も完全に覚えているし、なんなら目隠しでもこのドリンクを探り当てられるくらいにはね……」


 呆れるりこに、良太朗は笑いながらドリンクを棚に戻す。


「でも、それも終わり。なんせ仕事を辞めたからね」


「仕事辞めたんですか? もしかしてヘッドハンティングとかされちゃったんですかー?」


「いやいや、まさかそんな。ただ辞めただけだよ」


「次の仕事はどうするんですか?」


「とりあえず暫くの間は、田舎に帰って実家で農業でもやろうかなと考えてるよ」


「じゃあ、もう会えなくなる感じですね」


「まあ実家までは新幹線や飛行機の距離だからねえ。さすがに飛行機でコンビニ通いは……」


 りこは少し考える素振りを見せたあと、真剣な様子で良太朗の目をじっと見つめる。


「もう少しでシフトが終わるので、そのあと少しだけ話をする時間を貰えませんか?」


「あ、ああ……。暇だし別に構わないけど……」


 買った弁当をイートインで食べながら時間を潰す。しかし、りこは良太朗のような中年に一体何の話があるというのだろう。もしかしてずっと好きでした的なのか? いやいや、さすがにそれはないと言い切れる。そうなると話の内容がさっぱり思い浮かばない。良太朗は付け合せとして入っているブロッコリーを箸で避けながら、色々と考えてみるがどんなに考えても答えが出ることはなかった。


「おまたせしました」

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