第36話 喜びと不安の狭間で

 春の光が新宮市の病院の窓から柔らかく差し込み、白いカーテンを揺らしていた。その穏やかな朝の光の中、新と優子の心は重い不安に包まれていた。優子は妊娠が進むにつれて体調を崩すことが増え、ついに医師から入院を勧められてしまった。彼女は笑顔を作っているものの、どこか疲れが見え隠れしている。新は職場のプレッシャーと妻の看病を抱え、心身の限界を感じていた。

 仕事に追われる日々が続き、いつものように夜遅くまで病院に足を運ぶ新。病室の窓の向こうでは、東京の空に冷たい星が輝いている。帰る間際、廊下に座り込み、疲れた表情を浮かべていた新のそばに、見覚えのある看護師が近づいてきた。穏やかな口調で声をかける。

「ご主人、大丈夫ですか? 最近、本当にお疲れのご様子ですね」

 その優しい声に、新は思わず小さくため息をつく。「ありがとうございます。なんとか踏ん張ろうとは思っているんですが…」

 看護師は新の肩にそっと手を置き、「優子さんもご主人のことを心配していますよ。どうか無理をしすぎずに。たまには、彼女の前で笑顔を見せてあげることも大切です」と微笑んだ。

 新は驚きながらも、その言葉に小さな救いを感じていた。「ありがとうございます。つい、自分のことばかりで…。明日から少しでも笑顔を見せられるようにします」と、照れくさそうに答えた。

 病院を後にした新は、今夜もまた仕事の書類を片付けるつもりだったが、家のリビングでふと足を止め、ソファに腰を下ろしてみた。静かな部屋で一人、頭を抱え込んでいると、スマートフォンが鳴り、母からのメッセージが届いた。「新、無理をしすぎないでね。あなたが健康でいることが一番大事だから」と、短くも温かい言葉がそこにあった。新は画面を見つめ、心の中で決意を固めた。

 翌朝、新は出勤前に、優子の手をしっかり握って別れを告げた。「今日も一日、君のためにがんばるよ。帰りは早めに顔を見に来るから」

 優子は新の手を握り返し、穏やかな表情で「ありがとう。無理しないでね」とささやいた。その声は、彼女が日々感じている不安と、新への信頼が交じり合った温かい響きだった。

 職場では、プロジェクトのプレッシャーが重くのしかかり、新は意識を集中させようとするが、優子の姿が脳裏をよぎり、心の奥に小さな痛みを覚える。そんなとき、同僚の美咲が声をかけてきた。「最近、本当に頑張ってるよね。何か手伝えることがあれば言ってね」

 新は彼女の親切に感謝し、少し悩んだ末に美咲に相談を持ちかけた。ランチタイム、二人は近くのカフェに入り、彼はプロジェクトの負担について打ち明けた。美咲は親身に話を聞き、「少し分担して進めましょう。仕事もプライベートも支え合いが大事だよ」とアドバイスをくれた。

 夜、新が帰宅すると、優子が温かいお茶を用意して待っていてくれた。新は感激しながら「ありがとう。君がいてくれるから、どんなに疲れても心が和らぐよ」と優子の手を握りしめた。彼女もまた、新の手を優しく握り返し、少し涙を浮かべながら微笑んだ。「私も、あなたがそばにいるから頑張れる。ありがとう、新」

 新はその言葉に勇気をもらい、二人の間に芽生える新たな命のために、自分が今すべきことを胸に刻んだ。

 数週間が経ち、優子の体調も次第に安定し始めた。ある晴れた午後、二人は静かな公園を訪れた。満開の桜が風に揺れ、花びらが舞い散る中で、優子は新に向かって微笑みながら、「私たち、もう少しお互いの時間を大切にしようね」とささやいた。

 新は優子の言葉に深く頷き、彼女の手をしっかりと握り返した。「そうだね、これからは君と赤ちゃんのために、もっと時間を大事にするよ」

 その日、夕陽が公園を美しく染め上げる中、二人は寄り添いながら静かに未来について語り合った。これからの日々に対する不安もあるが、それ以上に大きな希望が二人の胸には芽生えていた。

 新と優子は手を取り合い、桜の花びらが舞う中で、まだ見ぬ未来に一歩ずつ歩みを進めていった。

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