第25話 再び歩き出すとき
小雨が降り続く午後、新はカフェの窓際に座っていた。冷えたコーヒーを前に、彼はぼんやりと外を眺めていた。ガラスを伝う雨粒が、彼の心情を映し出しているかのように、静かに滑り落ちていく。街の喧騒も雨音にかき消され、カフェの中には薄暗く重い沈黙が流れていた。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。新は手元に目を落とし、画面に表示された名前を見て息をのんだ。優子からのメッセージだった。
「突然ごめんなさい。話したいことがあるの。少し時間をもらえるかな?」
彼女からの連絡は、別れてから初めてだった。新の心には、不安と期待がない交ぜになった感情がざわめき始める。彼は短い返事を打ち込んだ。
「わかった。夜の六時に駅前のカフェで」
送信ボタンを押し、新はふと窓の外を見た。降り続く雨の音だけが耳に残り、彼は無意識に冷たいカップに手を伸ばした。
約束の時間まで、数時間があった。新はカフェを出て、傘を持たずに雨の中を歩き始めた。冷たい雨粒が顔に当たり、足元のアスファルトには水たまりが広がっている。その水面に映る空を見つめ、心の奥底に押し込めていた思い出が浮かんでは消えていった。
ふと彼の目に、小さな古本屋が入った。新は引き寄せられるように中へ入り、色褪せた背表紙が並ぶ棚をぼんやりと眺める。彼の目に『再生の物語』と題された一冊が飛び込んできた。気づくと、新はそのページをめくり、ある一節に心を奪われていた。
「過去に囚われることなく、未来を見据えることで、新たな道が開ける」
その言葉は、疲れた心にしみ渡るようだった。新はその本を手に取り、店を出た。雨はやや小降りになり、辺りにはかすかな光が射し始めていた。彼は濡れた街路を歩き、約束のカフェへと向かった。
カフェに着くと、ドアを開けるたびに外の冷気がわずかに流れ込む。新は席に座り、温かいコーヒーを注文した。落ち着かない心を抑えようと、先ほどの本を開き、またあの一節を読み返した。
やがてドアが開く音がして、彼は顔を上げた。優子が立っていた。少し痩せたように見え、濡れた髪を直しながら新に向かって微笑んでいる。彼女の瞳には、複雑な光が宿っていた。
「久しぶりね」と彼女は席に着いた。
「本当に久しぶりだね」と新はぎこちなく微笑んだ。お互いの前にコーヒーが運ばれ、しばらくの間、二人は黙ったまま、目の前のカップに視線を落とした。
先に沈黙を破ったのは、優子だった。「元気にしてた?」彼女の声は小さく、どこか儚げだった。
「まあ、何とかね。君は?」新は彼女の目を見つめ返した。その目の奥には、疲労と迷いの色が浮かんでいる。
優子はカップを両手で包み込み、言葉を探すように深く息を吐いた。「……実は、昴さんと別れたの」
彼はその言葉に一瞬、心臓が止まったように感じた。自分を捨てて選んだ彼との別れ。新の中でさまざまな思いが渦巻いたが、彼はそれを口に出すことはなかった。
「そう……だったんだ」新は静かに尋ねた。「何があったの?」
優子はかすかに肩を落とし、震える声で話し始めた。「彼には、過去があったの。前科があったって知った時、すごく怖くて……信じたかったけど、信じられなかった」
新は黙って彼女の話を聞いていた。彼女の目には深い悲しみと後悔が滲んでいる。
「辛かったんだな」彼はそっと言葉をかけた。
優子は小さく頷き、涙をこぼさないように視線を下に落とした。「私、こんなことになるなんて思わなかった。新を傷つけてまで選んだ人が、こんな形で終わるなんて……」
新は自分の中に沸き上がる感情を抑えようとした。怒り、哀しみ、そしてまだ心に残っている優子への思い。それらが彼を揺さぶり、心は決して平静ではなかった。
「俺に、何かできることはあるかな?」しばらくの沈黙の後、彼は優しく尋ねた。
優子は顔を上げ、彼をまっすぐに見つめた。「……もう一度、やり直せないかな?」
その言葉に、新は胸の奥で言いようのない感情が膨れ上がるのを感じた。彼女の声には、本心からの願いが込められているようだった。だが、彼の心の中にはまだ癒えない痛みが残っていた。
「正直、まだ傷ついているんだ」新は率直に言葉を続けた。「君が去った時、すごく辛かった。でも……もう一度信じてみたい気持ちもある。だから、一度、時間をくれないか。お互いに考えるための時間を」
優子は少し寂しそうに微笑みながらも、静かに頷いた。「わかった。待ってるから」
二人はその後、しばらく懐かしい思い出を語り合ったが、どこかぎこちない空気が漂っていた。カフェを出ると雨は上がり、街は夕陽に包まれていた。優子は「じゃあ、またね」と微笑み、駅へと向かった。新は彼女の背中を見送りながら、深い溜息を吐いた。
数日後、新は健太に会って相談を持ちかけた。健太は何も言わず、ただ新の話を静かに聞き、最後に一言だけ言った。
「お前は、どうしたいんだ?」
その言葉に新は心を揺さぶられた。自分が本当に望んでいるのは、再び彼女を受け入れることなのか、それとも過去を断ち切ることなのか。深く考えた末に、彼は答えを見つけた。
再び優子と会う夕暮れ、新は少しの迷いもなく、彼女にこう告げた。「もう一度、君とやり直したい。でも、お互いに努力が必要だと思う」
優子は涙を浮かべながら頷き、「ありがとう、新。これから一緒に前を向いて進んでいこう」と微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます