第26話 過去と向き合うとき

 春の日差しがようやく和歌山市に穏やかに降り注ぎ、薄桃色の桜が風に舞っていた。新は、大学のキャンパスを後にし、心地よい風に髪を撫でられながら、春の匂いが漂う道を歩いていた。しかし、平和な風景とは裏腹に、新の心は揺れていた。ポケットの中には、数日前に届いた一通の手紙があった。差出人の名前を見た瞬間、彼の胸にざわめきが広がった。それは、かつて優子の心を奪った男、昴からだった。

「会いたい。話がしたい。どうか、時間をくれないか」

新は封を閉じたまま手紙をしまい、すぐに見なかったことにしようと思った。けれども、心のどこかで分かっていた――この過去からは逃げられないと。彼は深く息を吸い、心の中で覚悟を決めた。

その晩、新は健太と小さな居酒屋に向かい合って座っていた。テーブルには飲みかけのビールと枝豆が置かれているが、二人の間にはどこか張り詰めた空気が漂っていた。新は手紙を取り出し、健太に見せながら、ためらいがちに口を開いた。

「…昴が謝りたいって。どうするべきか、正直わからないんだ」

 健太は眉をひそめ、真剣なまなざしで新を見つめた。「辛い決断だな。でも、あいつが本当に悔いているなら、話を聞いてみる価値があるかもしれない。もちろん無理はするな。優子の気持ちを最優先に考えるんだよ」

 その言葉に新は少し肩の力を抜き、ゆっくりとうなずいた。過去の影を清算するため、昴と向き合うことを決めたのだ。

 数日後、新は昴が指定した喫茶店に向かった。静かな街角に佇む古びた店で、窓からは淡い陽光が差し込み、暖かな木の香りが漂っている。新が店内に入ると、窓際に昴が座っていた。少し痩せたその姿に、彼は何かしらの覚悟を感じ取った。昴の前には、白い一輪の花が置かれており、まるで彼の心を映すかのように静かに佇んでいる。

「久しぶりだな」

 昴は静かにそう言った。新も慎重に席に着き、相手を探るように目を向けた。「話があるんだって?」

 昴は目を伏せ、一瞬躊躇った後、深く息を吐き、言葉を選びながら話し始めた。「まずは…謝りたかった。君たちに迷惑をかけ、優子を裏切ったことを、心から悔いている」

 その言葉に新の胸は苦しみで締めつけられたが、昴の言葉の一つひとつが真摯に響き、新は彼の誠実さに不意に心の一部がほぐれていくのを感じた。「どういうつもりで、今さら俺たちの前に現れたんだ?」と新は緊張を隠しながら問いかけた。

 昴は肩の力を抜き、静かに顔を上げた。「自分を変えるために更生プログラムを受け、過去を振り返り続けたんだ。どうしても…君たちに直接謝らないと、次に進めない気がして」

 昴の話を聞きながら、新は記憶の奥底にあった痛みが浮かび上がるのを感じた。しかし同時に、彼の必死な姿がかつての自分とは異なることを実感していた。「謝罪を受け入れるかどうかは、僕一人じゃ決められない。優子にも聞くべきだと思う」と新は冷静に答えた。

 昴は目を潤ませ、低くうなずいた。「もちろんだ。彼女にも謝りたい。もし許されるなら、直接会わせてほしい」

 新は慎重に考え込んだが、昴の瞳に真実を感じ、決意を固めた。「わかった。優子が同意するなら…会う機会を作るよ。ただし、無理強いはしない」

 それから数日後、夕暮れの川沿いの公園で、新、優子、昴が対峙することになった。赤い夕陽が二人の顔を淡く照らし、川面には細やかな波が煌めいている。三人はしばらく黙って立ち尽くし、遠くで鳥の鳴き声が響く。新は深呼吸をし、優子を見つめた。

 昴がゆっくりと口を開く。「優子さん、本当に申し訳なかった。あなたを傷つけ、自分の欲で裏切ったことを一生忘れない。心から…許しを請いたい」

 優子は静かに目を閉じ、彼の謝罪を受け止めている様子だった。そして、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。「私も、あなたとの時間で学んだことがたくさんあったわ。過去の出来事も今では大切な経験だと思っている。だから…あなたが反省し、前に進もうとしているなら、応援したい」

 優子の言葉に昴の目から涙が零れ落ちた。「ありがとう。これからは真っ当に生きていくことを誓うよ」

 その姿を、新は静かに見守っていた。優子の瞳には、強さと優しさ、そして一つの決意が宿っていた。昴との出会いも別れも、彼女にとっては成長の一部だったのだ。新は彼女の強さに心を打たれ、そっとその手を握りしめた。

「これで本当に過去が清算できた気がする」と新は静かに言った。「これからは、君と一緒に未来を築いていこう」

 優子は涙ぐみながら、新の手をしっかりと握り返した。「ありがとう、新。あなたとなら、前を向いて歩いていける気がする」

 昴は二人を見つめ、深く頭を下げて去って行った。彼の背中が夕陽に消えると、周囲には静けさが訪れ、二人は穏やかな気持ちで川沿いを歩き出した。過去の痛みを乗り越え、未来への一歩を踏み出したその瞬間、二人は確かに新たな強さを手に入れていたのだった。

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