第23話 強敵

 秋の深まりとともに冷たい風が街に吹き抜ける夜、新は和歌山大学のキャンパスを出て、駅に向かって歩いていた。視線を落としたままふと車の窓に映る自分の顔を見ると、疲れ切った目がそこにあった。最近、公務員試験の勉強が続き、疲労は心にまでしみ込んでいる。まるで出口のないトンネルに迷い込んでしまったかのようだった。

 新はポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を見る。すでに夜の八時を回っている。その時、未読のメッセージが目に入った。送り主は優子だった。

「新、少し話したいことがあります。今夜、時間を取ってもらえるかな?」

 読み終えると胸がざわついた。いつもと違う彼女の調子に、不安がふくらむ。「どうしたんだろう」最近は勉強に追われ、彼女との時間を疎かにしてしまっていた。焦りが胸を締めつける。

「もちろん。どうしたの? 何かあった?」

 返事を打つ指先がわずかに震えた。数分後、優子から再びメッセージが届いた。

「直接会って話したいの。できれば、静かな場所で……」

 新は眉をひそめ、少しだけ心を引き締めた。彼女が直接話したいと言うときは、何か重大な話があるときに違いない。

「わかった。じゃあ、いつもの河川敷で九時に会える?」

「うん、待ってるね」

 スマートフォンを握り締め、冷たい風が頬を刺すのを感じた。静かで肌寒い夜、月明かりに照らされて色づいた街路樹の葉が足元に積もっていく。新は気持ちを落ち着けるように深呼吸し、夜の闇が包む駅へと向かった。

 電車に揺られながら、新は流れる街の灯を眺め、心の奥に渦巻く思いに向き合った。最近、自分は彼女を大切にできていただろうか。優子が何か悩んでいても、それに気づけず、自分のことで精一杯だったかもしれない。彼女の笑顔と共に過ごした時間が脳裏をよぎり、切なさが胸に迫った。

「俺は……彼女に何をしてあげられたんだろう」

 河川敷に着くと、夜空の星がひっそりと輝いていた。新は遠くで聞こえるギターの音を耳にしながら、川辺で一人座る優子の背中を見つけた。彼女の横顔には、いつもの笑顔とは異なる寂しさが漂っている。

「待たせてごめん」と新が声をかけると、優子は振り返り、かすかに微笑んで「ううん、私も今来たところ」と静かに言った。

 二人は隣り合わせに座り、川のせせらぎが流れる静かな時間に身を委ねた。ふと優子が口を開く。

「新……急にこんな話をしてごめんなさい。でも、伝えなきゃいけないことがあるの」

 新は胸の奥が強く締めつけられるのを感じながら、視線を優子に向けた。

「何でも話して。聞いてるから」

 優子は息を深く吸い込むと、顔を伏せたまま言葉を探すように続けた。「実は……私、他に好きな人ができたの」

 一瞬、頭が真っ白になった。彼女のその一言が、冷たい刃のように心に突き刺さる。どこかで冗談であってほしいと願いながらも、その言葉の重みを感じ取っていた。

「……そう、なんだ」

 何とか声を絞り出すが、思いも寄らない現実が重くのしかかる。優子は目に涙を浮かべながら、新を見つめ続けていた。

「ごめんなさい、新。あなたを傷つけたくなかった。でも、自分の気持ちに嘘をつけなかった」

 新は拳を握り締め、こらえきれない悲しみと痛みを押し殺した。「その人は、どんな人なんだ?」

「昴(すばる)さん……ボランティアで知り合った人。自分の信念を持っていて、何か一緒に頑張れる気がするの」

 優子の瞳には微かに光が宿り、彼の名前を口にするたびにその光が増しているように見えた。新はその様子を見つめながら、心にあふれる無力感を抑えた。彼女は既に新しい希望に向かって歩き始めている。

「そうか……俺には、君にそう思わせられる何かが足りなかったんだな」

「そんなことないの。新は私にとって本当に大切な人。でも、昴さんと出会って、自分のやりたいことに気づいたの」

「本当に、俺じゃダメなのか?」

 新の声は静かに震え、優子は目を伏せ、力なく首を横に振った。「ごめんなさい……」

 新は深い息を吸い込み、自分を冷静に保とうとした。「わかったよ。君の気持ちを尊重するよ。ただ……その昴さんに一度会わせてくれないか。彼がどんな人なのか知っておきたい」

 優子は驚いたが、少し考えた後、頷いた。「わかった、伝えておく」

 その後、二人は言葉を交わさぬまま、別々の道を歩き出した。冷たい風が頬を刺す中、新はただ無心に歩き続けた。

「どこで間違えたんだろう」

 心の中で自問を繰り返すが、答えは見つからない。ただ、自分の無力さだけが胸に広がっていく。

 数日後、新は約束のカフェに向かった。静かな雰囲気の窓際には、優子と昴が並んで座っている。昴は背が高く、落ち着いた雰囲気を纏った青年だった。新は緊張した面持ちで席に着いた。

「初めまして、新さんですね」昴が頭を下げた。

「はい。今日は時間を取ってくれてありがとうございます」

 新は直球で切り出した。「優子から話は聞きました。彼女を本当に幸せにする自信があるんですか?」

 昴は少し表情を引き締め、「はい、彼女を本当に大切に思っています。共に夢を追いかけ、支え合っていきたい」

「夢、ですか?」

「ええ。優子さんは海外での教育支援に興味を持っていて、私もそれを支えたいんです」

 新は知らなかった。優子がそんな夢を抱いていたことを。

「そうだったのか……」

 新は思わず目を伏せ、そして優子を見つめた。「頼む、彼女を支えてやってくれ」

 昴は深く頭を下げた。「もちろんです。新さんには本当に感謝しています」

 新は席を立ち、そっとカフェを後にした。外に出ると、冷たい雨が降り始めていた。心の中で何かが溶け出し、雨と共に流れていくようだった。

 その夜、新は親友の健太に電話をかけた。「……話を聞いてほしい」

「今から会えるか? いつものバーで待ってるから」

 バーに入ると、暖かな照明と静かな音楽が迎えてくれた。健太は新の話を黙って聞き、静かに頷いた。「お前、よく頑張ったよ。でも、自分を責めることはない」

「俺は彼女の気持ちに気づけなかった……」

「大切なのは、これからだろ。お前にも夢や目標があるんじゃないのか?」

 新は小さく頷いた。「そうだな……これを機に、自分の道を見つめ直したい」

「それでいい。俺も応援する」

 新は夜空を見上げ、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。「ありがとう」

 これまでとは違う静けさが心に満ち、新たな未来に向かって歩き出す準備が整いつつあった。

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