第18話 大阪の夜—街の灯りの下で

 大阪の夜空が街を包み込み、梅田の通りは無数のネオンライトに照らされて輝いていた。屋台から漂う香ばしい匂いと、頬に触れる秋の冷たい空気が入り混じり、賑わいと静けさが同時に感じられる。新は隣を歩く優子に目をやり、彼女がスマートフォンの地図アプリを見つめ、少し不安げに顔をしかめていることに気づいた。

「本当にこのお店で合ってるの?」優子がスマホを見ながら尋ねた。「なんだか道に迷った気がするけど…」

 新は優しく笑って彼女を見つめ、「大丈夫、心配しないで。大阪で一番美味しいしゃぶしゃぶはメイン通りから少し外れたところにあるんだ。きっと気に入るよ」と答え、彼女を静かな路地へと導いた。「それに、隠れた名店を見つけるの、君の好きなことだろ?」  優子は小さく笑った。「そうね。でも、今日はなんだか…まあ、なんでもないよ」と視線を落として言葉を濁した。

 徐々に遠ざかる喧騒に二人の足音だけが響く中、新は普段明るい優子が今日はどこか元気がないことに気づき、胸に小さな不安がよぎった。薄暗い街灯の下、彼女の表情はほんの少し曇っている。 「何かあったの?」小さな古民家風の店の前で立ち止まりながら、新は彼女に尋ねた。提灯の柔らかな明かりが「和」の文字を揺らし、温かく二人を迎えている。

 優子は一瞬迷うようにしてから新を見つめ、「大学とアルバイトの両立が思ったより大変でね…新しい仕事も任されて、ずっと頭の中がいっぱいで…」と小さな声で打ち明けた。 「そっか。僕も授業と公務員試験の勉強で結構いっぱいいっぱいだけど、今日は忘れてゆっくりしよう。お互い、少し休息が必要なんだよ」と新は頷きながら微笑んだ。

 優子もほっとしたように笑い返し、「ありがとう。ここに来て良かった」と少し顔を上げた。

 二人が暖簾をくぐると、店内は木の温もりに包まれ、ほのかに漂う出汁の香りがどこか懐かしい安心感を与えてくれる。窓際の席から見える庭には竹が揺れ、静かな音楽が店内に流れていた。都会の喧騒が嘘のように消え、二人だけの穏やかな時間が流れている。 「どれも美味しそうで迷っちゃうね」と優子がメニューを見つめる。 「このお店の和牛は絶品らしいけど、季節限定のコースもあるって」と新が囁くと、優子は楽しそうに「じゃあ、季節のコースにしようか」と提案した。

 注文を終え、二人は湯気の立つお茶に手を伸ばし、ほっと一息ついた。新は思い切って話を切り出す。 「さっき言ってた悩み、もっと聞かせてくれてもいいよ。僕で良ければ」  優子は一瞬迷ったものの、静かにうなずき、カップを見つめながら小さな声で話し始めた。 「実は、バイトで新しいプロジェクトのリーダーを任されたの。それが不安で…。大学の授業や人間関係もあるし、上手くやれる自信がなくて…」彼女の瞳が微かに潤む。

「君なら大丈夫だよ。これまでも色んなことを乗り越えてきたじゃないか。困ったことがあったら、遠慮なく言ってほしい」と新は穏やかに答えた。

 優子はその言葉に励まされたように微笑み、「ありがとう、そう言ってもらえるだけで気が楽になるわ」と小さく息をついた。

 その時、店員が彩り豊かな前菜を運んできた。新鮮な野菜や薄切りの和牛が美しく盛り付けられ、二人は思わず見惚れた。

「わあ、すごい。こんなに綺麗だと食べるのがもったいないくらいね」と優子が感嘆する。  新は箸を手に取り、「まずは野菜から入れて、ゆっくり楽しもう」と促した。

 鍋の中で野菜がふつふつと煮え、和牛をさっと湯にくぐらせると、口の中でとろけるような味わいが広がった。二人は食事を楽しみながら、少しずつ心を開いて話し合い、笑い合った。新はふと真剣な表情になり、「実は僕も公務員の試験が思ったよりも大変でね。でも、君と話すと元気が湧いてくるよ」と打ち明けた。

 優子は彼の言葉に驚き、「そうだったんだ。いつも支えてもらってるけど、私ももっと支えられるようにしたいな」と、そっと新の手を握った。

 食事が終わる頃、三味線の静かな音色が奥から響いてきた。二人は音に耳を傾け、しばし無言で心地よい旋律を楽しんだ。

「素敵な音色だね」と優子がそっと囁く。

「本当だ。なんだか心が洗われるような気がする」と新も頷いた。

 店を出ると、秋の夜風が二人の頬を撫でた。大阪の街のネオンが一層鮮やかに川面に映り、光がゆらゆらと揺れている。

「少し歩こうか」と新が提案すると、優子は微笑みながら頷いた。川沿いの道を二人並んで歩き、しばらくして優子が足を止めた。

「新、今日は本当にありがとう。あなたが隣にいるだけで、どんな不安も消えていくように感じる」と言う。

 新は彼女の目を見つめ返し、「僕もだよ。君がいてくれるから、毎日を頑張れるんだ」と優しく応えた。

 その瞬間、遠くで花火が夜空に咲き、鮮やかな色が広がった。二人は驚きつつも、その美しさに息を呑んで見入る。

「偶然だけど、なんだか祝福されている気がするね」と新が笑うと、優子も「うん、特別な夜になったね」と嬉しそうに微笑んだ。

 家路に向かう電車の中で、優子は新の肩にもたれながら、「これからも、こうして一緒に笑い合っていたい」と小さく囁いた。

 新は彼女の手を優しく握り返し、「もちろん。どんな時も、僕らならきっと乗り越えていける」と静かに答えた。

 車窓の外、大阪の夜景が流れ、遠くの光が星のように瞬いていた。二人の心には、新たな希望と強い絆が刻まれ、未来への想いが胸の中で穏やかに膨らんでいた。

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