観測1 『喪われた夢』
――――目を覚ますと、そこは真っ黒な世界だった。
気怠さを感じながらも体を起こして、周囲を見渡す。何もない。
上も下も左も右も、どこを見ても黒で構成されている。地平線の彼方まで真っ黒だ。
「ここは……どこ……?」
目覚めてすぐに口から飛び出た言葉はそれだけだった。
意識もまだぼんやりとしていて、頭が上手く回らない。
「えっと、僕は……」
訳も分からず、ぼやけた視界を元に戻すために目を擦った。
そのまま目線を下へ向けると、自分の手があって足が見えた。
胸やお腹といった自身胴体を見るが異常はない。
灰色の余り目立たないような服を着ているだけだった。
もう一度周囲を見やる。本当に誰もいない。
ここには僕しかいないようだ。
「だれだっ……け?」
頭が真っ白になっている。
自分が何者で今まで何をしていたのか、何も出てこない。
経歴や年齢、挙げ句の果てには自分の名前でさえも。
脳が漂白されて、全部洗い流されたような感覚がした。
それがとても怖いことだと気づくのに時間はかからなかった。
「——やっと起きたんだね……ねぼすけハイト」
「……え?」
誰かの声が聞こえた気がした。
しかし、先ほど周囲を見回した時には、誰の姿も見当たらなかったはずだ。
幻聴の類だろうか。
「……ほんとにねぼけてるの? こっち見て」
どうやら幻聴ではないらしい。
声のした方を見るとと、そこには背の低い小さな少女が立っていた。
その少女は恐ろしく整った顔立ちをしている。
真紅の髪とほんの少しだけ光の灯った瞳がとても印象的だ。
大きな白い布を一枚身に纏っただけの淡白な装いで、首には太陽を模した首飾りをかけて、その姿はまるで喪服のような……いや、まるで死装束を着込んでいるようにも捉えられた。
異様に神秘的な雰囲気を放ち、その佇まいからは一種の気品のようなものが感じられた。
まるで精巧に造られた人形のようだ。
ちなみに見覚えは全くない。
「えーと、どちらさま?」
知らない人が現れた。
気の抜けた声でそう言うと、少女はトコトコと近づいてきて、そのまま僕を抱きしめた。
いや、身長差を踏まえると、抱きついてきたという表現の方がいいかもしれない。
「え、あの……なに?」
突然のことに驚いて、内心がこぼれた。
しかし少女は気にすることなく、僕に肌を寄せてくる。
——少女の体はとても冷たかった。
「グッドモーニング——ハイト」
「ぐっ……ぐっどもーにんぐ?」
十秒ほど抱きつかれ、離れたかと思うと、少女は透き通った美しい声でそう口にした。
とっさのことに、僕は反射的に言葉を返した。
「意識は問題ないみたいだね。よかった、ハイトが無事に目を覚ましてくれて」
「……ごめん、頭が追いついてない。ハイトって僕のこと、かな?」
分からないからそう尋ねると、少女はあからさまに動揺して、目を揺らした。
「——そうだよね。やっぱり何も覚えてないよね……」
いきなりあったとはいえ、目を合わせてそんな悲しげな声をされると、思わず焦ってしまう。
「えーと……なんかごめん。よかったら教えてくれると助かるけど……」
思わず謝ってしまったが、先ほどから目の前の少女は僕のことを知っているような口ぶりだ。
一方的に話が進むのは怖い。
まずは彼女のことを知ろうとした。
「……ハイトはアナタの名前、わたしは——」
紅髪の少女の口が止まった。
どこか躊躇うような態度だ。
しかし、そのまま何もなかったかのように続けて口を動かして——、
「アマルタ」
そう名前を告げた。
「ハイトにアマルタ……ごめん、覚えてない。きみの反応を見る限り、覚えてないとまずいんだろうけど」
「ううん、いいの。——仕方のないことだから」
少女の名乗りを聞き、僕ことハイトは再び困惑の顔を浮かべることしかできなかった。自分の名前を教えられたというのに、側からみれば酷く鈍い反応だと自分でも思う。僕の胸の内を吐露するなら、本当に他人事に近い。
仕方のないことだとアマルタは言うが、記憶のない自分からすれば、大変困る。
「じゃあ、アマルタ——」
「まって、ハイト。ひとまず目が覚めてすぐだし、そこら辺を散歩しない?」
「散歩? あー……ここで?」
アマルタはうんと頷く。
再度繰り返すことになるが、ここは本当に真っ暗で何もないところなのだ。
散歩というより、脳みそを空っぽにして歩くような場所と思ってもいい。
景色を楽しめるような要素がどこにもないからだ。
「歩きながらでも、質問には答えられるから」
「でも、まずは僕自身の説明とかをしてくれないと……」
「時間がないの。——ハイト、おねがい」
アマルタがじっとこちらを見つめる。
それは明らかな懇願だった。
見た目のせいもあるが、お願いを聞いてもらうまで意固地になった子供みたいだった。
「……よく分かんないけど、分かったよ」
ひとまずアマルタの提案に乗っておくべきだろう。
このままじゃ埒が開かないし、なによりここにずっといては頭がおかしくなりそうだ。
「ハイト——ありがとう」
そう言うと同時に、アマルタが優しく微笑んだ。
アマルタからすれば、それは何気ないことだったのだろう。
でも僕はそれを見て、ようやく安堵できた。
こんな訳も分からないところでいきなり現れた少女。
正直に言えば怖いし、警戒していた。
でも、悲しそうな声を出したり、こうして優しく微笑む姿を見ていると、年相応の女の子だということが、いやでも理解できた。
——アマルタはしっかり生きているのだ。
「それじゃあハイト立って、案内するから」
そんな胸の中の葛藤を知ることもなく、アマルタは僕をせかして立たせた。
地面に手をつくと、普通の地面と違って、とても気味の悪い感触が伝わってくる。
それでもなんとか立ち上がることはできた。
「しっかりついてきてね」
アマルタに呼ばれ、僕はそのまま彼女の後ろをついていく。
ここがどこなのか分からないけど、とりあえず地獄でないことを祈ろう。
そう思うことだけが、冷静さを失わないための唯一の方法だから。
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