【26-1】朱峩の暗躍(1)

摂政伽弥による、宰相摩遷ませんとその側近の<九扶>たちの更迭という衝撃的な報は、波濤となって蓮京れんけい官衙かんがへと広がり、やがて地方へと波及して行ったのだった。


伽弥は摩遷弾劾のための朝議の直前という際どい時機を見計らって、金吾府と近衛の都尉、そして国軍の将を入れ替え、その傘下に置いていた。

これは季聘きへいら<保耀講>一党によって、以前から綿密に練られていた企謀であったのだが、蓮京の三軍を抑えることで摩遷たちの反攻を防ぐ手立てとして、大きく奏功したのだった。


尤も、王都三軍にも地方軍にも密かに<保耀講>の人脈が張り巡らされていたことや、摩遷によって任命された軍の将領たちに、配下からの人望がなかったことも策が成就した由縁といえただろう。


伽弥は金吾を使って摩遷一党の一族郎党を捕縛させると同時に、彼らの邸宅、別宅を悉く接収させ、その蓄財を全て没収させたのだった。

これによって摩遷たちはあらゆる権威権力を失い、為す術もなく司空(司法官)の弾劾に屈せざるを得なくなった。


昨日まで栄華の極みを誇っていた、摩遷一党の凋落振りを目の当たりにして、蓮京官衙の吏僚たちは戦慄することになった。

それは自身がこれまで手を染めてきた汚職収賄の罪過を顧みて、新朝廷からの追及の手が及ぶのを恐れてのことだった。


しかし摂政伽弥による、「曄の再建のために尽力するならば、旧悪は不問とする」という仁令を聞くに及んで、皆一様に胸を撫で下ろすとともに、新公体制の先行きを注視し、如何に今後の官界を生き延びて行くかということに腐心するであった。


その日公室内廷には曄公去暝きょめいと摂政伽弥に招集された、新朝廷の重鎮たちが顔を揃えていた。

その顔触れは、曄公の大傅に任じられた季聘、宰相糜思敬びしけい、司空蔡興さいこう、近衛軍将校から国軍都尉に昇格した虞兆ぐちょうの兄虞絡ぐらく、同じく金吾都尉に昇格した華儀かぎ、そして近衛軍都尉となった虞兆の面々だった。


華儀から摩遷一党が蓄えていた財貨の夥しさを聞いた伽弥は、大きく溜息をつく。

それは二載分の国の税収を優に超えていたからだ。


「貯めに貯めたものですね。

如何に大きな負担を民に強いていたことか。

それ程の財を、何に使うつもりだったのでしょう」


呆れ顔で呟いた伽弥は、一同の顔を見回す。

「さて、接収したこの財貨をいかがしましょう?

無論国費として必要な分は残すとして、余剰分をどうしたものか」


その問いかけに大人たちが「はて」と考え込んだ時、去暝が口を開いた。

「民から余計に取り立てたのであれば、民に還せばよいではありませんか」


それを聴いた皆が、一様に瞠目する。

そして伽弥は莞爾とした笑みを浮かべて、年若い新公に応えた。


「民に還すと言われましたか。

それは卓抜な思し召しです。

皆、いかがか?」


伽弥の問い掛けに、一同に成り替わって応えたのは季聘だった。

「思いもよらぬことです。

何と言う仁愛でしょう。

我らに何ら異存はございません」


「では早速に手配して下さい。

新公の大徳を知らしめるに、これ程時宜を得た仕儀はないでしょう」

伽弥の言葉に、糜思敬が大きく頷いた。


そして姉に褒められた去暝は、含羞がんしゅうを含んだ笑みで応える。

一方の伽弥は、まだ加冠かかん(成人の意)に達しない弟が示した、思いもせぬ仁愛の心に驚嘆するとともに、国の先行きに明るい兆しを見た思いだった。


そして新朝廷の英断は、それまで酷税に喘いでいた民に、驚嘆を持って迎えられることになる。

一度収めた税が戻ってくるなどという、荒唐無稽とも言える話など、これまで聞いたこともなかったからだ。


やがてその驚嘆は、新公への威望へと変わっていく。

そしてこの時から、民の心に微かな希望の光が灯ったのだった。


伽弥たちの内議は国防へと移っていく。

「公都の三軍は掌握しましたので、次は地方軍の整備に掛かるべきかと」

そう発言したのは、国軍都尉虞絡だった。


「整備とはどういうことであろうか?」

虞絡は去暝の言葉に頷くと、地方軍の改革について論じ始めた。


「まず地方軍の軍管区を再編しなければなりません。

今の軍管区は摩遷らの思惑で、かなり歪になっております。


それをより妥当なものに再編する必要があります。

そして軍管区の再編に併せて、将領の刷新が必要と推察します。


現在の地方軍の将は皆、摩遷らにまいないしてその地位を得た者ばかり。

軍の経験もない者すらいる始末です。


それ故一部の隊を除いては、調練すらまともに行われていません。

早急に立て直さねば、胡羅氾の軍に対抗できぬかと」


「それ程軍は弱体化しているのですか。

それは由々しきことですね」


伽弥の懸念に虞絡は大きく頷いた。

「胡羅氾の軍が決して強い訳ではありませんが、今の地方軍の為体ていたらくでは対抗するのは難しいでしょう」


「ではあまり時もありませんので、すぐに手を付けることにしましょう。

新しい将領の心当たりはあるのですね?」


伽弥が念を押すと、虞絡はまた一つ大きく頷いた。

「ご心配には及びません。

この時を待って己と配下を鍛えていた者どもがおります」


その答えに伽弥が頷くと、糜思敬が二人の話に割って入った。

「胡羅氾の方は、何も手を講じなくてよろしいのでしょうか?

確か朱峩と申す御仁が、胡羅氾を抑えに掛かっているとお聞きしましたが、果たして一人でどれ程のことが」


「それについては懸念には及ばないでしょう。

朱峩殿が口になさったことですから。

小昧、いかがですか?」


それまで伽弥の後ろに侍立して、所在なさげに皆の話を聞いていた上官昧は、突然名指しされて目を丸くする。

そして慌てて伽弥の問い掛けに答えた。


「お師匠様なら心配ないのです。

あの人は無茶が大好きなのです。


無茶をさせたら、この世であの人の右に出る者はいないのです。

きっと今頃胡羅氾領内で、喜んで暴れ回っているのです」


きっぱりと言い切って自分の言葉に頷く上官昧を見て、伽弥は思わず笑ってしまった。

「その様な凄い方なら、私も会ってみたいものです」

去暝のその呟きに、伽弥は「きっと会えますよ」と言って、優しい笑顔を向けるのだった。


そして上官昧が断言したように、胡羅氾領では朱峩の暴威が吹き荒れていた。

彼が先ず狙ったのは軍営で、領内各地にある駐屯地を襲い、指揮官たちを次々と抹殺していったのである。


胡羅氾軍一の武勇を誇った将軍白捗はくちょくですら、朱峩の前では鎧袖一触で首を刎ねられたのである。

その麾下の将校如きでは、到底彼の武威に抗する術がなかったのは、理の当然と言えるだろう。


そうして軍の指揮系統を奪った朱峩が次に狙ったのは、領内各地の官庫であった。

彼は官庫を守る守備兵を蹴散らすと、次々と庫を開いて、中の食料を近隣の民の取るがままにしたのだ。


胡羅氾の酷薄な収奪に喘いでいた領民たちは、開かれた庫に群がって奪われた食を取り戻していった。

やがて領内全体にその噂が広がり、兵たちは朱峩の襲撃を恐れる一方で、民は彼の来襲を待ち侘びるようになったのである。


そして朱峩の暗躍は領民たちから胡羅氾への恐れを拭い去り、その代わりとして領主の暴虐への怒りと反抗心を植え付けていった。

軍による暴圧で治安を保ってきた胡羅氾領内に、今まさに不穏な空気が漂い始めたのである。


その空気を察した胡羅氾の怒りは、積もり積もって頂点に達しようとしていた。

その日も白捗の後任である将を呼びつけ、朱峩への対応を厳命したのだった。


胡羅氾の怒声を浴びた将が退出した後、その場に残った腹心の喬容きょうようは溜息と共に主に進言する。

「あの者では朱峩への対処は難しいかと。

何しろ白捗でさえ相手にならなかったのですから」


その言葉を聞いた胡羅氾は、益々不興を募らせる。

「白捗も口ほどにもない」


「油断している不意を突かれたとの報告もありますが」

そう言って主の怒りをいなした喬容は、容儀を改めて胡羅氾に上申した。


「軍を用いなくても、朱峩とやらを殺せば済むだけの話です。

そのために人を呼び寄せましたが、御目通りが叶いますでしょうか?」


その言葉に興味を示した胡羅氾が即座にそれを許すと、喬容は外に控えさせた者たちを房内に呼び寄せた。

入って来たのは、如何にも兇猛そうな面構えをした三人の男たちだった。


「この者たちはれん人で、暗殺を生業とする兄弟です。

幾ら朱峩なるものが腕達者だとしても、三人で掛かれば殺すのは造作もないでしょう」


三人の面構えに頼もしさを覚えた胡羅氾は、少し機嫌を直して問い掛けた。

「名を何という?」

すると頭立つた一人が、底冷えのするような声色で彼に答えた。

「我ら曽家の三兄弟、えんこうじんと申す」


曽兄弟の放つ兇悪な眼光にやや気圧されながら、胡羅氾は言葉を続けた。

「相手は武林観の<武絶>といわれた男だぞ。

倒す自信はあるのか」


「我らが掛かって、これまで命を長らえた者はおりません。

その中には武林観の者も含まれます」


その返事を聞いた胡羅氾は、膝を打って喜んだ。

「頼もしいことを申すではないか。

よかろう。

朱峩の首を持参すれば、それなりの褒美をとらせよう」


「その言葉お忘れなきよう。

必ず朱峩の首を携えて見せましょう」


不敵に笑って立ち上がった三人は、最早雇主を振り返ることもなく房を後にする。

その姿を見送りながら、胡羅氾と喬容の主従は顔を見合わせて、ほくそ笑むのだった。

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