【26-2】朱峩の暗躍(2)
胡羅氾領との境界付近にある、とある曄公領の小邑。
その邑内の旅亭にある食堂で朱峩と
「確実とは言えませんが、かなり見込みの高い場所だと思われます」
慎重な羅先の物言いを聞きながら、朱峩は静かに頷いた。
「嘗て<討伐>で攻め滅ぼした廃邨に隠すとは、考えたものだ。
思えば
「しかしあの邨には、何もなかったと思いますが」
朱峩の言葉に羅先は怪訝な顔をする。
「目晦ましだろう。
一か所だけ見回ればいかにも怪しまれる。
関係のない廃邨を数か所、巡察の名目で回って、本来の趣意を隠していたのであろう」
「成程、あり得ますね。
しかし手が込んだことをするものです」
「それだけ露見するのを恐れているのだろうな。
臆病者の胡羅氾らしい」
朱峩はそう言った後、羅先に真剣な眼差しを向ける。
「お前はもうこれ以上胡羅氾には関わらず、蓮京に行ってくれ。
そろそろ素性が露見してもおかしくない頃だ」
「蓮京ですか」
「そうだ。
蓮京で
あの男も抜け目なく諜報を為しているとは思うが、念のためだ。
そして後二月程で頃合いになると伝えてくれ。
敏い男だから、それで察するだろう」
「承知しました。
朱峩様は、また胡羅氾領に行かれますか?」
「そうだな。もう少しかき回してやろうと思う」
「朱峩様のことですから滅多なことはないと思いますが、くれぐれも無茶はなさらないで下さい」
そう言って心配気な表情を浮かべる羅先に向かって、朱峩は苦笑を返した。
「小昧なら、『お師匠様の無茶は、今に始まったことではないのです』などと、小賢しい口を利くだろうな」
その言葉を聞いた、羅先は思わず吹き出してしまった。
上官昧ならば、いかにも言いそうなことだと思ったからだ。
「小昧はこのまま姫の元に置かれますか」
「その方があれにとっては幸せだろう。
俺といても流浪が待っているだけだからな」
「朱峩様はこれからも旅をされるのですね?」
「此度は朱莉殿の頼みとは言え、長く関わり過ぎた。
そろそろ気儘に旅をしたくなってきたな。
次は中原の果てまで足を延ばすか」
そう言って遠い眼をする朱峩に、羅先は笑いかける。
「私はこれからも付かず離れず、つき従わせて頂きますよ」
「相変わらずお前も物好きな奴だな」
朱峩はもうそれ以上は何も言わず、「さて、そろそろ出立するか」と言って席を立った。
羅先も頷いて立ち上がると、朱峩に一礼する。
そして二人は、それぞれの向かう先に旅立って行くのだった。
その数日後、朱峩の姿は胡羅氾が邸宅を置く
この邨は胡羅氾麾下の主力軍の兵站基地となっており、領内各地から徴収された兵糧や武具が貯蔵されている枢要の地だった。
それだけに警備は厳重で、邨民の殆どは邨垣外に居を移され、垣内には千を超える兵士のみが駐留していたのだ。
夕刻垣門の前に立った朱峩は、「枢要の地にしては緩んでおるな」と呟く。
垣門の警備兵の様子に緊張感がなく、どうやら寒さに耐えきれず酒を飲んでいるようだったからだ。
平然と門に歩み寄って来る朱峩を最初に見咎めた兵が、不審に思い彼を制止しようとした時。
朱峩の手から指弾が放たれ、その兵はもんどりうって仰向けに転がった。
門内に卓を広げて酒を飲んでいた幾人かが、酔った朋輩が倒れたと取り違えて笑いさざめく中、朱峩が疾風の勢いで駆け抜けていく。
そして彼が通った後には、声を上げる間もなく鉄棒の一撃で首をへし折られ、頭蓋を砕かれた門衛たちの死骸が転がっていたのだった。
門衛たちが警鐘を鳴らす間もなく、易々と垣門を通り抜けた朱峩は、悠々とした足取りで邨内へと向かった。
既に秋の日は落ち、邨内は兵士たちの屯営から洩れ出る灯りのみの昏さだった。
やがて朱峩は誰にも見咎められることなく、兵站が保管されている庫の前に立った。
さすがにその周辺には灯りが灯され、庫扉の前には警護の兵が二人ずつ佇立している。
四棟ある庫の前に立つ、警備兵の間の隔たりはほぼ十間。
朱峩は警備の人数と間合いを見定めると、速やかに行動を起こすのだった。
灯りの合間の闇に紛れ、最初の庫の前に立つ二人に指弾を浴びせて倒すと、そのまま前を通り抜けて次の兵たちに襲い掛かる。
そして朱峩の棒の一撃を浴びて、声もなく倒れ込んだ二人をそのままに、三つ目の庫の警備兵に駆け寄り急所に必殺の突きを繰り込んだ。
四つ目の庫の警備兵は漸く異変に気付き防備の構えを取るが、朱峩が投じた守備兵の戟で刺し貫かれて仰向けに倒されてしまった。
そして残る一人は、倒れ伏す朋輩の姿に唖然とする間に、駆け寄った朱峩の棒撃を受けて声もなく地に伏したのだった。
こうして兵站が保管されている四つの庫は、瞬く間に朱峩によって制圧された。
周囲に静けさが戻る中、朱峩は燭台から松明を抜き取ると風上に回る。
そして庫のあちこちに火をかけ、燃え上がるのを見定めると、悠々と小邨を後にするのだった。
垣門を出た朱峩は、背後の邨内が激しい紅蓮の炎に染まるのを見定める。
――これで後二月ほどは、軍を出すことは叶うまい。
朱峩はそう見極め、口元に渋い笑みを浮かべる。
そして邨を焼き尽くす炎を背にして一里余り歩いた時、正面に道を遮って佇立する気配を感じたのだった。
立ち止まった朱峩は、その気配に向かって声を掛ける。
「何か用か?用がないなら道を空けろ」
するとその気配の主は前に進み出てきて、底冷えのするような声で朱峩に応えた。
「武林観の朱峩だな。
俺は曽垣というものだ」
「その曽某が俺に何の用だ?」
「胡羅氾に頼まれて、お前の命を貰いに来たのさ」
その言葉を聞いた朱峩は、思わず失笑を漏らす。
「近頃は出来もせぬことを口にする輩が増えたものだ」
「己惚れるなよ。
俺は武林観の者を、これまでに二人始末しているのだ。
お前とてその連中と同じ末路を辿らせてやる」
朱峩の言葉に激高した曽垣は、そう吐き捨てた後、
「お前、<
確かお前が持っていると聞いたが」
と、不審げな声で質した。
「あれは弟子にくれてやった。
もう手元にはないよ」
「何?その弟子とは誰だ?」
「それを聞いてどうする」
「俺はあの剣を手にして最強の名を手にするのだ。
お前が持っていないのであれば、その弟子とやらから奪ってやろう」
曽垣のその言葉を聞いた朱峩は、哄笑とともに言い放つ。
「身の程知らずも大概にしろ。
お前如きの
朱峩に嘲られた曽垣は一気に怒気を膨らませる。
「今すぐその大口を塞いでやる」
長剣を抜き放った曽垣に対して、朱峩は「下」と呟いた。
そして手にした黒棒を、寒気を切り裂くように一振りするのだった。
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