【24】伽弥の帰還

その日曄公の公女伽弥は、漸くにして曄の都蓮京れんけいに辿り着いた。

漸くという言葉が似つかわしい、苦難の旅であった。


思えば耀王の第二王子儸舎らしゃに嫁すために耀湖を渡ったのが二月前。

耀都を命からがら脱して、二国を跨ぐ千里の道を踏破してきたのだ。


この長い道程の中で伽弥は様々な人と出会い、様々な出来事と遭遇した。

そのなかで彼女の心は、曄を立った時とは比べものにならない程、大きく成長していた。


そして今再び蓮京の地を踏んだ伽弥は、この先待ち受ける苦難を乗り越え、自身の望む国を造らんとする不退転の決意を胸に抱いていたのだ。


帰参の復命のために曄公に拝謁した伽弥は、父の無残な憔悴振りを見て心を痛める。

穏健温良な曄公にとって、国内外で巻き起こる波乱の数々は重荷でしかないだろうと、伽弥は父に憫察びんさつの情を向けるのだった。


儸舎との婚儀を果たさず耀都を脱した経緯いきさつについて復命した伽弥は、労いの言葉を掛ける父の元を辞して、公宮内にある祖母朱莉しゅりの閑宅をおとなった。


朱莉の暮らす棟は公宮の外れにある庭園内に建てられた小さな離れ屋で、周囲を四季折々の花で囲まれた清閑な別邸であった。

伽弥が虞兆を伴って訪れると、屋内には季聘と朱峩、そして上官昧が朱莉を囲んで屯していた。


「朱峩殿から聞きました。

苦難の旅でしたね。

さぞや辛い思いをしたでしょう」


帰郷の復命を行った伽弥に、朱莉から掛けられた言葉は温かい音色に包まれていた。

その声を聞いただけで、伽弥は何故か大きな安堵を覚えるのだった。


「辛い旅ではありましたが、喜びも大きかったです。

公宮の中にいては、とてもお会い出来ないような素晴らしい方々と、知己を得ることが出来ました。

それが私にとって、何にも替え難い宝となりました」


明るい口調で応じる伽弥を見て、朱莉は満足げに頷く。

「伽弥は心が強くなりましたね。

それがありありと見て取れます」


「そうでしょうか。

私は今も先々への憂心で押しつぶされそうです」


「以前の伽弥であれば、とうに押しつぶされていたでしょう。

されども今の伽弥には、その憂心に抗って撥ね退けようとする強い心が育っています。


そなたを耀に遣るのは気が進みませんでしたが、返ってそのことが曄にとっての幸いとなりましたね。

これも<耀祖神>様のお導きでしょう。

さて」


そこまで言って言葉を切った朱莉は、その場の一同を見回した。

笑顔を消した朱莉を見て、皆に緊張が走る。


「それではこの先の国事について話を進めましょう。

そなたが曄を立て直すことに身を捧げようとする決意は、朱峩殿や季聘から聞きました。


そして胡羅氾こらはんの陰謀を悉く潰した今、彼の者がいつ暴挙に出るやも知れません。

事は急ぎますが、そなたは父上、曄公をどう見ましたか?」


その問いに伽弥は少し悲し気な表情を浮かべる。

「お父様は、大変お疲れの様に見えました。

私が耀に赴く前よりも、さらにお顔の色が優れないようでした」


「そうですね。

そなたの見立て通り、あの子は曄公という重みに押しつぶされようとしています。


元々そなたの父は仁弱の質。

国を背負って立つには、心が弱すぎたのです。


それでも周囲に人を得ていれば、国を保つことが出来たのでしょうが、朝廷内では摩遷ませんに、外では胡羅氾に圧迫され、息も絶え絶えという様子です。

とても先に待ち受けている激浪に耐えることは出来ないでしょう」


伽弥に語り掛ける朱莉の眼は、これまでに見たことにない強さを帯びていた。

それは<国母>として、先代曄公の政を支えてきた為政者の眼であった。

そして伽弥は祖母のその強い視線を、高ぶる気持ちを抑えつつ真っ向から見返す。


「伽弥。そなたには公位に上る気持ちはありますか?」

朱莉の口から出たその衝撃の言葉にも、伽弥は動じなかった。

「お婆様。私は公になるつもりはありません」


「何故です?

これまで女公が国を治めたためしはいくらでもあります。

そなたが公位を継ぐことに、公家からも王室からも異論が出ることはありますまい」


「いえ、違うのです。

私は国に還る途次で、お父様を支えて国政を立て直そうと考えておりました。


しかしお婆様の仰せの通り、お父様はこれ以上の公位の重みには、耐えられないとお見受けします。

ですので公位を去暝きょめい(伽弥の弟)に襲わせてはいかがでしょうか?


私がもし公位に就けば、摩遷や胡羅氾、引いては新王となった剋冽こくれつから、誹議謗言ひぎぼうげんが沸き起こるのは眼に見えております。

彼の者どもに、そのような口実を与えるのは上策とは申せますまい。


それにお父様の長子である去暝が国を継ぐのが道理というもの。

弟はまだ幼いですが、としに似合わぬ仁愛と理知を秘めていると、私は見ております。

次代の国主としては適任でしょう。


ただし去暝がまだ加冠かかん(成人)の齢に至らないことを事由として、私が摂政となり国政に当たろうと思います。

私が摩遷や胡羅氾の矢面に立って国を平らかにし、やがてそれを去暝に引き渡せば、公位の正統も保たれるというものでしょう」


伽弥のその決意を聞いた朱莉は、莞爾とした笑みを浮かべた。

「大きくなりましたね。

伽弥のその言葉を聞いて、この国の行く末に光明が差した心持ちです」


「しかし私に決意はありますが、どのように摩遷や胡羅氾と対峙すべきかが分かりません。

季聘殿によれば、<保耀講>なる方々が私を援けて下さるとか。


お婆様、季聘殿。

私がまず何を為すべきかを、お示し頂けませんでしょうか」


伽弥のその言葉に、朱莉と顔を見合わせた季聘は、おもむろに口を開いた。

「まずは摩遷の一党を朝廷からいましょう。

そのための算段は、実は<保耀講>の中で、時を掛けて練っております」


そこから季聘が語った方策を聞いて、伽弥はその緻密さに驚嘆するとともに、<保耀講>が国中に拡がっていることを知って、この上もない心強さを感じるのだった。


「そして胡羅氾ですが。

こちらは予断を許しません。

自前の軍を握っていますので、摩遷の様には行かないでしょう」


季聘のその懸念を聞いて、それまで無言を通していた朱峩が口を開く。

「そちらは俺が引き受けよう」

その言葉を聞いた伽弥が「まさか」という顔を向けると、朱峩は苦笑を浮かべて彼女を見返した。


「勘違いするな。

以前にも言ったが、俺が胡羅氾を殺してもこの国のためには左程の意味はない。


ただ彼奴が妄動せぬよう、領内を少し荒らしてやるだけだ。

一載くらいは軍を動かせぬよう、甚振ってやろう」


そう言って太々しい笑みを浮かべる朱峩の言葉を、誰も大言壮語とは受け取らなかった。

それは彼の超絶の武勇への、一同の信頼の証と言えるだろう。


「あなたはいつも、そうやって独行するのですね」

そう言って笑う朱莉に、朱峩は苦笑を返す。

「その方が俺にとっては気が楽ですのでね」


そして朱峩は、朱莉の後ろに控えている上官昧に言葉を掛ける。

「これからはお前が常に傍に侍って、姫を守るんだ。

虞兆たちは男だから、そういう訳にもいかんからな」


「お任せ下さい。

私は伽弥様が大好きになりました。

必ずお守りします」


背筋を伸ばすようにして朱峩に応える上官昧を見て、朱莉が笑顔になる。

「小昧は本当に明るいですね。

一緒にいると、とても心が和らぎます」


「何を言っている。

こいつは俺が連れ歩いている頃は、いつも暗い顔で口も殆ど聞かなかったんだ。

三載前に朱莉殿に預けてから、随分と変わったようだがな」


その言葉を聞いて伽弥たちは驚きの表情を浮かべた。

朱莉だけが笑顔で頷いている。


「あれはお師匠様がいけないんです。

厳しいばかりで、私の言うことなど、少しも取り合ってくれなかったではありませんか。


朱莉様はとても優しくて、いつも私の言葉を笑顔で聞いてくれました。

だから私も気持ちが明るくなったのです」


そう言って口を尖らせた上官昧に、朱峩は突然腰に差した剣を鞘ごと抜いて放り投げた。

それを受け取った上官昧は目を丸くする。


「それはお前にくれてやろう。

その剣で姫を守るんだ」

「師匠、でもこれは」


「最早、俺には無用のものだ。

お前が持っていればよい」

「でも」

二人のそのやり取りを、伽弥たちは不審げな顔で見ている。


「まだまだ未熟だが、俺がその剣を使う相手がいるとすれば、お前だけだろう」

「お、お師匠様と戦うなんてあり得ません」


「そうだな。

だから俺には無用ということだ。

これからも修行を怠らず、それを使いこなせるようになってみよ」


そう言って朱峩は伽弥たちに目を向ける。

「さて、それでは早速、胡羅氾の奴に一泡吹かせに行くとしよう。

あちらで羅先を待たせているのでな」


そう言い残すと、朱峩は後も振り返らずに朱莉の閑宅を後にするのだった。

そして上官昧は、師から受け取った剣を抱いたまま呆然としている。


「小昧。その剣はそれ程大切なものなのですか?」

伽弥が不審気に声を掛けると、彼女は円らな瞳に涙を滲ませながら肯いた。


「この剣は<鷂鳴剣ようめいけん>と言って、武林観の至宝と言われた名剣なのです。

お師匠様が武林観の観主さまから頂いたものなのです。


これを振ると、はしたかの鳴く音がするのです。

そんな大事な物を貰うなんて」


「それは朱峩殿が、そなたに大きな期待を寄せている証でしょう。

謹んでお受けしなさい」

そう言って優しく諭す朱莉の言葉に、上官昧は剣を抱きしめながら、ぽろぽろと涙をこぼすのだった。

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