【22-3】保曄講(3)

伽弥が祖母の朱莉しゅりから会うように勧められた相手は、畦斗けいとの邑内に暮らす季聘きへいという人物だった。


初め護衛隊長の虞兆ぐちょうは伽弥の身の安全を思い、旅亭に季聘を呼び出すことを主張した。

朱莉の勧めとは言え、得体の知れない人物の元に伽弥を遣ることに、大きな危惧を感じたからだった。


しかし伽弥は、

「こちらからおとなうのが礼でしょう」

と言って譲らない。


さらに朱峩と上官昧じょうかんめいの二人が同道して、彼女の護衛に就くことになったため、護衛士一同も季聘宅周辺の警戒に当たることを条件に、こちらから出向くことに同意したのだった。


季聘の住まいは邑内の外れにある、小さな書肆だった。

表に立て掛けられた古びた標板には<古義堂>の文字の脇に、<小えん塾>という文字が小さく書き足されていた。

恐らく主は書肆の傍らで私塾を営んでいるのだろうと、伽弥はその標板を見て思うのだった。


上官昧が戸を開けて訪いを入れると、主の季聘はすぐに戸口まで出てきて伽弥たちを迎えてくれた。

どうやら彼女は伽弥が訪れることを、予め季聘に知らせていたようだ。


主にいざなわれて入った屋内には、様々な書が所狭しと積まれていた。

その様子を見まわして驚きの声を上げる伽弥に向かって、季聘は拱手の礼をする。


「公女様自ら拙宅まで足をお運び頂くとは、恐縮でございます。

巷間の閑人、季聘と申します」


「こちらこそ大勢で押しかけて、さぞご迷惑なことでしょう。

曄の公女、伽弥と申します」


慌てて礼を返した伽弥に胡床を勧めた季聘は、自身も伽弥と向かい合って席に着く。

そして朱峩と虞兆は伽弥の後ろに並んで席に着き、上官昧は朱峩の後ろに佇立した。


痩身に渋い萌黄色の平服を纏った季聘は、伽弥が想像していたよりもずっと若く見えた。

色白の相貌には温和な笑みを湛え、薄墨色のその瞳は思わず吸い込まれそうになる程の静寂を保っている。


「さて、本日ご来臨頂きましたのは、どのようなご用向きでしょうか?」

季聘にそう問われた伽弥は、やや困惑しながら答える。


「実は明らかな用があって、来たわけではないのです。

私の祖母の朱莉から、季聘殿を訪って話をするよう、上官昧を通じて言われたのです。

甚だ曖昧な用件で申し訳ありません」


そう言って頭を下げる伽弥を、季聘は慌てて手で制した。

「その様なお気遣いは無用です。

そうですか。

朱莉様が」


「祖母をご存じなのですか?」

季聘の言葉に驚いて伽弥が問うと、彼は小さく頷いた。


「はい、よく存じ上げております。

私、蓮京れんけいの<えん塾>で二載の間学ばせて頂きました。

その折に朱莉様の知己を得たのです」


「ああ、それで<小鷰塾>なのですね」

季聘の言葉に合点のいった伽弥は呟いた。


<鷰塾>というのは、朱莉が国内の有為の若者を徳育するために設立した私塾であったからだ。

朱莉の齢が高くなり今は閉塾されているが、五載前まではそこで学ぶ者たちを受け入れていた筈だった。


「朱莉様の意図は測りかねますが、恐らくは伽弥様の今後に関わることではないかと推察いたします。

伽弥様は耀王の第二王子に嫁すために、耀に招かれたにもかかわらず、大変非道な扱いを受けられたとか。


先ず公女様が耀を出られて、ここに至るまでの出来事について、お聞かせ頂けますか?

それを伺った後、私から申し上げたき儀がございます」


季聘のその言葉に伽弥は少し不審を覚えたが、声の響きに詐謀が感じられなかったので、素直に頷くと静かな口調で語り始めた。


耀で太子剋冽の配下に追われ、鬼而きじなる暴漢に襲われて護衛士三名を失ったこと。

その場を朱峩に救われ、侠客蒙赫もうかくの助けで湖陽の東門から辛うじて脱したこと。


こうでは辺境伯阿宜あぎの策謀に落ち、あわや胡羅氾こらはんの船に攫われそうになったこと。

ちょう鴇鳴岡ほうめいこうで兇賊冥蛇めいだ一味に遭遇したこと。


晁の墨塞ぼくそくで出会った璃倮りら教信徒杜亜とあから聞かされた悲しい過去。

独枩嶺どくしょうれいまみえた叛徒、渠深きょしんから感じた大いなる信義。


曄の辺境の廃邨に放棄されたままだった、罪なき民の無残な遺骨。

そして旅の途中で伽弥たちを襲った、<七耀>の者たちから感じた深い絶望の思い。


その一つ一つを淡々と語る伽弥の眼には、いつしか涙が滲んでいた。

それは旅の辛さを振り返っての涙ではなく、旅の途中で出会った人々が抱く思いに触れ、己の至らなさを痛切に感じてきたことによる悔恨の涙であった。


季聘は伽弥の口から紡がれる旅の模様に黙って、聞き入っている。

伽弥の後ろに座る虞兆は、眼を閉じて湖陽で失った部下たちに思いを馳せていた。


上官昧は伽弥の話に同情して涙ぐんでいる。

ただ一人朱峩だけが、伽弥の話に聞き入る季聘を静かな眼で見ていた。


伽弥の話を聞き終えた季聘は、

「伽弥様も、皆さまも、大変な思いをされました。

私如きが同情を口にするのも、烏滸がましい程です」

と言って深々と頭を下げたのだった。


「いえ、それよりも、私にはこの旅で得るものが大きかったのです」

そう言って笑顔を浮かべた伽弥は、居住まいを正すと、季聘に語り掛ける。


「私は朱峩様から、お婆様がこの国を立て直すことを、私に託そうとされているとお聞きしました。

初めそのことを聞いた時は、とても私如きにその様な重責が果たせる訳がないと恐れたのです。


しかし耀から逃げ、暉や晁の様子を見聞する中で、違う思いが心に込み上げてきました。

私にも公女として、為すべきことがあるのではないかと。


私に何が出来るのかは、今でも判然としません。

そのことを分別するには、私には知らないことが多すぎるからなのです。


こうしてお話をしていて、私は今漸く気づきました。

お婆様は季聘殿から、この国の様子についてお聞きしろと思われたのではないかと。


この国のことを知らずして、国を立て直すなどとは思いもよらぬことです。

季聘殿、どうか私にこの国の様子について、教えて頂けないでしょうか?」


そう言って深々と頭を下げる伽弥に、季聘は慈愛のこもった眼で頷く。

そして彼も居住まいを正すと、おもむろに語り始めた。


「伽弥様のお心は、痛い程分かります。

それにお応えするために、私の知る限りのことをお話ししましょう」

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