【19-1】独枩嶺(1)

耀王が崩御し、太子剋冽こくれつが第四十七世の王として即位した頃。

曄姫伽弥かやとその一行は晁国西端の小邑せつに辿り着いていた。


㸅を出て西の独枩嶺どくしょうれいを超えれば、そこは曄の地である。

漸く故国を目前にする所まで到達したことで、一行は心の昂揚を覚えるのだった。


思えば伽弥の婚儀のために訪れた湖陽の地で、太子剋冽から理不尽な襲撃を受けたことが、この旅の始まりであった。

朱峩と巷間の侠客蒙赫もうかくの助けを借りて耀都を逃れて以来、こうちょう二国を渡る千里の道を、彼らは踏破してきたのだ。


湖陽においては三人の護衛士を失い、暉の銑翆せんすいでは<七耀>と辺境伯阿宜あぎの謀略によって、伽弥があわや拉致されそうになる危機に見舞われたのだった。


この晁国内においても、鴇鳴館ほうめいかんの兇賊冥蛇めいだ一味を討伐し、墨塞ぼくそくの邑では<七耀>の<水火>の襲撃を退けた。


その他にも数々の艱難辛苦を乗り越えて、漸くここまで達したのである。

一同の感慨が一入ひとしおであったのも、無理もないことであろう。


しかしこの先にも梟雄胡羅氾こらはんの魔手が待ち受けていると思い、各々が心の昂揚を抑えて、気を引き締め直すのだった。


㸅の旅亭で旅装を解いた一行は、揃って夕餉の卓に着いていた。

この夕は日頃偵探の役割を担って、伽弥たちとは別行動を取っている羅先らせんも、朱峩の計らいで食事を共にすることになった。


一同が卓に着くと、間もなく皿に盛った菜肴さいこうが小物たちの手で次々と運ばれてくる。

羅先が予め食堂の者に言い含めておいたもののようだ。


皿が卓上に並んだのを見極めて、朱峩が口を開いた。

「羅先。お前はこの辺りの出自だったな。

皆にこれの食べ方を教えてやってくれんか」

その言葉に笑顔で頷いた羅先は、得々と語り始める。


「この大皿に乗っておりますのは、てい(食用の四足家畜)の腿肉を軽く素揚げにして、その後じっくりと蒸したものです。


薄切りにしたものにこの付けだれをたっぷり浸けて、副菜と一緒に胡麻の大葉で包んで食べるのが定法です。

付けだれは酸味と辛みが効いて美味しいですよ」


それを聞いた護衛士たちが、思わず唾を飲み込む。

その様子を笑顔で見ながら羅先は続けた。


「この苙來湯りゅうらいたんていの骨をじっくり煮込んで灰汁を取った後、苙と冬葫とうごをたっぷり加えて、塩と梔椒ししょうで味付けしたものです。


そのままでもいけますが、この|花豆ともち麦を蒸して煉り合せた蒸餅を汁に浸して食べると、また違った美味しさがあります。


さあ皆さま。

熱いうちに召し上がって下さい」


その言葉を待ちかねたように、護衛士たちは一斉に箸を動かして菜肴に手を付ける。

伽弥や侍女たちも異国で味わう滋味豊かな菜肴に、舌鼓を打つのであった。


そして皆の腹がくちて夕餉に満足したところで、護衛士の憮備むびが羅先に向かって切り出した。

「羅先殿は、朱峩殿とは長いお付き合いなのですか?」


その問いに微笑した羅先は、

「そうですね。

かれこれ十載あまりになりますか」

と言って朱峩に笑顔を向けた。


朱峩はそれに苦笑で応え、

「もう十載になるのか」

と口にする。


「どのような経緯いきさつで朱峩殿と出会ったのですか?」

二人の言葉を聞いた憮備は、尚も興味深げに尋ねた。

その問いに羅先は、苦笑を浮かべながら述懐し始めるのだった。


「既に朱峩様から聞かれていると思いますが、その頃私は偸盗を生業としておりました。

今思えば、詰まらない稼業に手を染めていたものです。


中原の国々を行商姿で巡りながら、大家たいかに忍び入っては盗みを働いていたのですが、その頃には心のどこかでんでいたのでしょうね。

何事にも投げやりになっていたのですよ。


このままではいずれしくじって、獄に落ちることになるだろうと思っていた時、朱峩様をお見掛けしたのです。

あれはけいの東端、曄との境にある邑でした」


懐かしむように語る羅先の言葉に、一同は思わず聞き入っていた。

朱峩は口元に苦笑を浮かべているが、別段話を遮る気もないようだ。


「私は曄に向かう途中、その邑に立ち寄ったのです。

そして街中を歩いておりますと、人が集まって何やら騒いでいる場に出くわしたのでございます。


何事かと思い私が覗いてみますと、豨車きしゃの前に女が一人倒れていて、その傍らに童女が立っているのが見えました。


そしてその二人に向かって、男が何やら喚いていたのです。

童女はその声に怯えたのか、言葉を失くして立ち竦んでおりました。


後で聞いた話では、その豨車は邑主のもので、倒れていた女は後ろから来た車を避けることが出来ずに、轢かれてしまったようでした。

女は娘を車から庇ったのですね。


そして二人に向かって喚いていたのは、邑主の御者だったのです。

車駕にきずがいったと、親娘に怒鳴りつけていたのですよ。


しかし母親の方は既に絶命していたらしく、動く気配もありませんでした。

それでも御者は母親の遺骸を蹴って怒鳴り続けていました。


そこに割り込んだのが朱峩様でした。

周囲の者から事情を聞いた朱峩様は、あの鉄棒でいきなり御者を弾き飛ばしたのです。


そしてその場にしゃがんで母親の様子を確かめると、厳しい表情で立ち上がりました。

その後この方が、何をされたと思われますか?」


そう言って羅先はくすりと笑う。

そして朱峩は、気まずそうな顔で横を向いた。


「朱峩様は鉄棒を振り上げると、車駕を叩き壊してしまったんですよ。

中に乗っていた邑主は、何が起こったのか分からなかったらしく、壊れた車の中で言葉を失して呆然としていました。


私は驚きましたねえ。

あんな無茶をする方を見たのは、初めてでしたから。


朱峩様が母親の躰を担ぎ上げ、泣いている子の手を引いて立ち去って行かれるのを見た私は、思わず後をついて行っていました。

そして私を何かの役に立てて頂けるよう、お願いしたのです。


何故かこの人について行きたいと思ったんですね。

もう偸盗を働く気など消え失せていました。


それ以来、旅の行商を生業にしながら、付かず離れず何か用のある時に使って頂いているのです。

今回ご一緒に旅をさせて頂いているのも、その様な訳なのです」


そう言って話を締めくくった羅先に、伽弥が尋ねた。

「その親娘はどうなったのでしょうか?」


「母親の方はやはり駄目でしたので、朱峩様が邑人に貨を与えて埋葬させました。

そして娘の方はその後幾載かの間、朱峩様が連れて歩いたのです。


上官昧じょうかんめいというその娘は、どうやら武芸の才能があったらしく、朱峩様が旅の間に仕込まれて、めきめきと上達したようです。

今は曄のさる御方の元で暮らしております」


「朱峩様に弟子がおられるのですか?」

羅先の言葉に驚いた伽弥が呟くと、朱峩は「不詳の弟子だがな」と憮然として応える。


そして表情を引き締めると、皆に向かって、

「さて、余談はさておき。

この先の話をしようか」

と切り出した。


「この先の独枩嶺どくしょうれいには山賊が巣食っているらしい」

朱峩の言葉を聞いた一同に緊張が走った。

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