【18-2】弑逆(2)
その日の
耀都湖陽にある耀王室王宮は新月の闇に包まれ、暗く静まり返っていた。
この世を統べる神たる<耀祖神>を祀る耀王室は、既に四十六世八百余載の長きに渡って中原を統べる唯一王として君臨してきた。
しかし昨今ではその権威にも影が差し、諸侯による専断が日に日に増しつつあるのだが、それでもここ耀都内は平穏であったのだ。
その平穏に慣れたが故に王宮内の綱紀は緩み、近衛の兵の挙措にもどこか
それ故、耀王の弑逆を画する<七耀>の<日>
外宮を囲む外郭を軽々と乗り越えた賀燦は、内郭に沿って内宮へと通じる道をひた走る。
そして内禁門の楼閣を、僅かな手掛かりだけでするすると上っていく。
その驚異的な体術は、<七耀>の頭たる<日>ならではのものだった。
屋根伝いに正寝殿に至った賀燦は、扉の左右に侍立する衛士の姿を認めた。
辺りに衛士以外の人影がないことを確かめると、賀燦は背に負った短槍を引き抜く。
彼の槍は穂先が鋭利な幅広の造りになっており、刺斬両方の機能を兼ね備える、必殺の凶器だったのだ。
賀燦は内郭の屋根から音もなく飛び降りると、槍を横薙ぎにして右に立った衛士の首を刈り取り、そのまま一気に間合いを詰め、残る衛士の胸を貫き通した。
衛士たちは彼の超速の武技の前に、声を発する間もなく倒れ伏すのだった。
そして賀燦は倒れた衛士たちには目もくれず、扉を開け正寝殿内へと忍び入った。
殿内は静まり返っており、灯りの乏しい廊下は薄暗かった。
賀燦は
その間に行き会った運悪しき宦官一人と宮女一人は、彼の存在に気づく間もなく槍で命を刈り取られ、目立たぬ場所に打ち捨てられたのだった。
そして賀燦は遂に王の寝所に辿り着く。
中には静かに寝息を立てる者以外、人の気配はなかった。
無論賀燦が耀王の尊顔を知る由もないのだが、後宮内にいる男が唯一人であることは自明だった。
寝台脇に立った彼は、静かに寝息を立てる耀王を見下ろす。
――果たして弑逆を犯すのが、我ら<桔>の民にとって逃れられない道なのだろうか?
賀燦はそう考えて一瞬躊躇した。
八百余載に渡って中原に君臨してきた王家の至尊を、今まさに手に掛けようとしているのであるから、当然のことと言えよう。
しかし
胡羅氾は次に<七耀>が
あの残忍な男であれば、必ずそうするであろうと賀燦には分かる。
それだけに彼は、弑逆という重大な決断を下さざるを得なかったのだ。
そのことは彼ら桔族にとって、いや、多くの中原の民草にとって、王侯の命などより家族や朋友の命の方が貴いという、悲しくも切実な思いを物語っていた。
そして全ての迷いを振り切って、賀燦は利槍の穂先を振り下ろすのだった。
その一撃が後の乱世の端緒となることを、その時彼は知る由もなかった。
――王を弑した我は、恐らく終わりを全うすることは出来ぬだろう。
――それでもやはり、子らの命には替えられぬ。
一瞬の瞑目の後、賀燦は<七耀>の頭、<日>としての沈毅な顔を取り戻し、静まり返った房室内を見回す。
そして壁際の机上に置かれた錦繡の
近寄ってその嚢を手に取った賀燦は、それが王家の璽の一つであると認める。
彼はその璽を弑逆の証として持ち去ることを決断し、懐に忍ばせた。
賀燦は王の亡骸に向かって今一度瞑目すると、静寂に包まれる房室を後にする。
そして正寝殿を音もなく走り抜け、一陣の風となって王宮から去って行くのだった。
闇に包まれた耀都の街並みを駆け抜け、賀燦が太子邸に辿り着いたのは
邸内からは騒然とした気配が漂ってくる。
恐らく明早朝の太子出駕に備えて、近衛の兵たちが慌ただしく支度を整えているのだろうと察した賀燦は、王宮から持ち出した璽を、錦繡の嚢に入れたまま邸内に投げ入れた。
そして中で騒擾が巻き起こるのを確認すると、音もなく太子邸から走り去って行った。
彼が太子に謁見することなく立ち去ったのは、王の弑逆を確認した後、剋冽が必ず彼の口を封じようと待ち構えていることを予見していたからだ。
賀燦にはその陥穽から軽々と抜け出す自信があったが、太子と胡羅氾との間に無駄な軋轢が生じるのを避けるために、敢えてそうしたのだった。
湖陽の船溜まりに係留された胡羅氾の軍船に戻った賀燦は、すぐさま出航を命じる。
商船に偽装したその船は、静かに夜の耀湖へと出航していった。
――趙の姉弟は曄姫の奪取に成功したであろうか。
船上で耀湖を吹き抜ける夜風をその身を晒しながら、賀燦は別任務に就いた<水火>に思いを馳せる。
しかし彼は<水火>の二耀が、奮闘虚しく朱峩の手に掛かって果てたことを、まだ知らなかった。
一方太子剋冽は賀燦が残した王の璽を手にして、哄笑を上げていた。
賀燦の口を封じることは出来なかったが、間もなく王位が手に入ると確信したからだ。
そして
剋冽は百余名の近衛兵と共に、自慢の
向かう先は王宮である。
剋冽が外廷に達した時、中は早朝にもかかわらず参内した廷臣たちで騒然としていた。
既に父王の死が廷臣たちに知れ渡っていると察した彼は、有無を言わさず近衛を廷内に入れ、それに守られて玉座に就いた。
そこへ宰相の
「殿下。外廷に兵を入れ、
しかし剋冽は冷酷な眼で彼を見下ろすと、手に持った錦繡の
「欽永、父上が亡くなったのであろう。
何故、太子たる余に知らせぬ」
その言葉を聞いた欽永は、何故太子がその秘事を知っているのかを咄嗟に理解出来ず、言葉を失くしてしまった。
そして剋冽は彼の束の間の動揺にすかさず付け込んだ。
「欽永、これが何か分かるか?
これは父上より賜った伝国璽だ。
父上は生前余に国を譲ると約束され、秘かにこの璽を送られたのだ。
分かるな?
余が次代の王である。
その余に父の崩御を知らせぬとは、どのような料簡か?
さては貴様。混乱に乗じて、何ぞ悪事を企んでおろう」
そう決めつける剋冽に、欽永は返す言葉を見つけられず、呆然となってしまった。
そして次に剋冽の口から発せられた言葉に、慄然とすることになる。
「この国賊を引き出して、
彼の命を受けた近衛の兵は、あまりのことに喚き声を上げる欽永を廷前で斬首し、その首を門前に晒したのだった。
その後剋冽は百官を集め、目を血走らせながら宣言する。
「今この時より余が四十七世の王じゃ。
先ずは先王の喪を発する」
その宣言がその後四百載に及ぶ中原乱世の幕開けとなることを、剋冽自身も知る由もなかったのだった。
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