【18-1】弑逆(1)

耀都湖陽にある太子剋冽邸。

耀国太子剋冽こくれつは曄の辺境伯胡羅氾こらはんの使者である<七耀>の<日>、賀燦がさんと面会していた。


この頃剋冽の不機嫌は頂点に達しつつあった。

その理由の一つは、弟の儸舎らしゃから奪おうと目論んでいた曄姫伽弥かやに、まんまと逃げおおせられてしまったことだ。


そして時を同じくして湖陽内を暗躍した<暴漢>によって、配下の直属兵の半数以上を失ってしまったのだ。


祖母から父王に談判してもらい、最近になって漸く元の兵数に戻すことが出来たのだが、再び<暴漢>による襲撃を受ける恐れがあることから、彼が日々の楽しみにしていた湖陽内の巡察は断念せざるを得なかった。


「その男は朱峩という者で、曄姫と共に現在晁国内を曄に向かっております」

賀燦から<暴漢>の名を告げられた剋冽は、手にした酒杯を床に叩きつける。


「胡羅氾にそいつを捕らえて、王都に送るように申せ!

曄姫もだ!」

「それは必ずお伝えいたします。

ご安心を」


荒れ狂う剋冽に頭を下げながら、賀燦を思った。

――このような下劣な者を、王にせねばならんのか。

此度の胡羅氾からの使命を思い、彼の胸中には遣り切れない思いが沸き起こる。


このまま剋冽の元を辞して去ろうかとも考えたが、胡羅氾に捕らえられている<七耀>のをはじめとする、きつ族の里人たちの命を考えると、それは到底出来ないことであった。


「それで、今日は何の用だ?」

剋冽は賀燦に酔眼を向けて吐き捨てた。


「主胡羅氾より、太子殿下に重大なご提案を持って参りました。

何卒御人払いを」

賀燦にそう言われた剋冽は一瞬顔を顰めたが、すぐに思い直すと、護衛の一人を残して近習たちを退出させた。


「この者は余の腹心だ。

気にせず重大な提案とやらを申せ」

それに頷いた賀燦は淡々とした口調で、驚天動地の計略を語り始める。


「失礼ながら申し上げます。

現在太子殿下は、非常に難しいお立場に在られると愚考致します。


耀王様が太子殿下を差し置いて、第二王子に国をお譲りになるご心算であることは、民草の口の端にまで上るほどと聞き及んでおりますが、いかがでしょうか?」


その言葉を聞いた剋冽の顔が怒りに引き攣る。

しかし何かを喚こうとする彼の機先を制して、賀燦は話を続けた。


「無論その様な不条理が罷り通ることは、王室の社稷を揺るがしかねない忌々ゆゆしき大事。

決してあってはならぬことと、胡羅氾は申しております。


耀王様が国の正道を踏み外してしまわれないのは、偏に国母様(剋冽の祖母)のご諫言の賜物とお聞きします。


しかし不吉なことを申し上げるようで恐縮ではございますが、国母様もご高齢に在らせられますので、いつまで太子殿下の後ろ盾として扶助いただけることか」


「そんなことは、お前に言われずとも分かっておるわ!

だからと申して、余にどうせよと言うのだ!」


「そこで主胡羅氾からのご提案でございます」

激高する剋冽に反して、賀燦がさんの声音は徐々に静けさを増していく。


「太子殿下は真実、王になることをお望みですか?」

「無論だ。余以外に王たる資格のある者はいない」


「では殿下が王になることを阻む者は誰でしょう」

「そ、それは余の父である。

お前も先程そう申したではないか」


「ならば答えは出ております」

その意味を理解した剋冽は、「お前、まさか」と言った後、続く言葉を失ってしまった。


「さようでございます。

殿下が王になるためには、耀王陛下を弑し奉るほか道はございません。


そして私であれば王宮に忍び入り、陛下のお命を縮めることが可能です。

それが主胡羅氾からのご提案でございます」


「お、お前何を言っておる。

お前も胡羅氾も、気が狂っておるのか?

父上を弑するなど出来る訳がないであろうが」

賀燦から告げられた衝撃的な提案に、剋冽は身震いした。


「では坐して王位を、弟君に譲る道を選ばれますか?

王となった弟君のくつを舐めて、惨めな余生を送られますか?」


その問いは剋冽の胸に深く突き刺さった。

玉座から己を見下ろす儸舎らしゃの顔を想像すると、怒りと屈辱で胸が張り裂けそうになる。


それだけではない。

弟が王になれば、必ず兄である剋冽を誅殺するだろうと思った。

何故ならば、自分が王になれば、必ず同じことを弟にすると思うからだ。


百官の前で辱められ、群衆の前で首を撥ねられる己の姿を想像すると、恐怖で狂いそうになる。


そこには己が為して来た数々の悪行を悔恨する心など、微塵もなかった。

剋冽の心を包んでいるのは、決して弟儸舎らしゃに王位を譲ってはならないという思いだけだった。


そしてそのことを成し遂げるためには、目の前にいる賀燦がさんという男が口にした胡羅氾の提案――父王の命を縮める以外にないと思えてきたのだ。


剋冽は血走った酔眼を賀燦に向けた。

「お前が父上を弑すと言ったな。

そんなことが本当に出来るのか?」


「殿下が王宮内の造りをお示し頂ければ、容易いことでございます」

賀燦は表情すら変えずに剋冽の懐疑に応じる。


その太々しいとさえ思える態度に、賀燦の自信の程を見た剋冽は、彼から目を逸らせて考え込んだ。

狂猩きょうしょうと恐れられる彼にとっても、父である王を弑逆することは躊躇わざるを得ないのだ。


しかしいくら考えを巡らせても、剋冽の脳裏には未来への明るい展望は見えてこない。

己を押しのけて王位に昇った儸舎らしゃの、増上慢な顔しか浮かばないのだ。


剋冽の心に、幼い頃から抱いていた弟に対する激しい憎悪が沸き起こってきた。

そもそも伽弥を拉致しようとしたのも、儸舎に対する嫌悪が誘引したことだったのだ。


彼の中で怒りに染まった憎悪が膨らみ始める。

それは<弑逆>への恐れを掻き消す程、剋冽の心を黒く染め上げていった。


そして剋冽は怒りに我を忘れ、遂に決断を下すのだった。

「それではお前に耀王の殺害を命じよう。

決してしくじるなよ」


「ご安心下さいませ。

万が一躓った場合でも、殿下の名が表に出ることは決してありません」


己のめいに表情を消したまま応じる賀燦の不気味さに気圧されつつも、剋冽は彼に酔眼を向けて質した。

「それで胡羅氾こらはんは見返りに何を望んでいるのだ?」


「主胡羅氾は曄の公室を覆し、曄公たらんと欲しております。

殿下が王として即位された暁には、主の公位をお認め下さいますよう、お願い申し上げます」


「一介の辺境伯が公位を狙うとは、欲深いことだな。

しかしその程度の見返りであれば差し支えない。

聞き届けて遣わす」


己の強欲を差し置いてのその言葉に、賀燦は心中で失笑したが、それはおくびにも出さず肯首するのだった。


「それでお前はいつ決行するつもりなのだ?」

剋冽の問いに賀燦は、「今宵」と短く応じた。


「今宵だと?

それは性急すぎるのではないか?」

その答えに剋冽は驚きを隠せなかったが、賀燦は表情すら動かさない。


「ことは王位継承に関わる大事でございます。

故に躊躇しておれば、思わぬ所から綻びが生じる恐れがあります。


私は今宵王宮に忍び入って、陛下のお命を縮め参らせますので、殿下も明朝速やかに兵を率いて登殿し、玉座を占めて下さいませ。


時を置けば廷臣どもが寄り集まって、悪事を為すやも知れません。

くれぐれも遅滞なきよう、お願い申し上げます」


そう言って深々と頭を下げる賀燦を、剋冽は何か恐ろしい獣を見る思いで見ていた。

そしてその恐怖を振り払うように、まなじりを決して立ち上がる。


「大言を吐くではないか。

よかろう。


お前の言に従って、明日登極してやろう。

しかしお前が今宵、王を弑することに成功したと、余はどうやって知るのだ?」


「王を弑したあかしを、必ずお屋敷までお届けしましょう。

殿下が弑逆に関与したことが知られぬよう密かにお届けし、私はそのまま姿を消しますのでご心配には及びません」


それを聞いて安心した剋冽は幼少時代の記憶を頼りに、内禁門から後宮のある正寝殿へと至る内宮ないぐう内の道筋を、詳細に語って聞かせた。

賀燦はそれを書き留めることもなく、その場で記憶に刻み込むだった。


「それでは私は支度に取り掛かりますので、これにて辞去させて頂きます。

胡羅氾様の公位認定の儀、よろしくお願い申し上げます」


賀燦はそう言って深々と頭を下げると、踵を返して退室していった。

そして剋冽はその後姿を見送ると、近侍する腹心に明朝の出撃準備を命じるのであった。

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