【15-4】鴇鳴岡(4)

見掛けに寄らず狡猾で慎重な冥蛇だったが、朱峩が放った嘲笑うようなその一言で、怒りの余り我を忘れてしまう。

彼は手にした板斧を猛然と振り回して、朱峩を一呑みにする勢いで襲い掛かるのだった。


冥蛇が旋風の如く振るう板斧は、当たれば肉を割き、骨を断つ程の威力を秘めていた。

その猛威でこれまで歯向かう者をことごとく屠って来たのだ。


しかし此度は勝手が違っていた。

相手が武の頂点に屹立する<武絶>朱峩だったからだ。


あの<七耀>の<土>、厳竪げんしゅが振るう双鐗の連撃すら軽やかに躱して除けた朱峩である。

力任せに振り回す冥蛇の板斧など、彼の躰をかすることすら出来なかったのだ。


息切れして冥蛇の手が止まったのを見た朱峩は、軽く両手首を打って板斧を取り落とさせた。

そして愕然とする冥蛇に笑いかける。


「待ってやるから、さっさと拾ってかかって来い」

最早朱峩は、完全に冥蛇をなぶっていたのだった。


それが解って再び頭に血を登らせた冥蛇は、慌てて板斧を拾うと、再度朱峩に襲い掛かって行く。

しかしその無謀な突進は軽々と躱され、棒で足を払われて、無様に転がされてしまうのだった。


地面に這いつくばった冥蛇は、その時初めて恐怖を感じていた。

今自分が相対している敵が、尋常の者でないことに漸く気づいたのだ。


そして冥蛇は慌てて立ち上がると、意味不明の喚き声を上げながら、門に向かって闇雲に駆けだそうとする。

しかしそれを許す朱峩ではなかった。


彼は冥蛇の背中に向けて一歩踏み出すと、首筋に棒で突きを入れた。

その一撃で冥蛇は意識を刈り取られ、そのまま地に倒れ伏したのだった。


全てが終わったのを見届けて、護衛士たちと羅先が朱峩の元に集まって来る。

しかし今目の当たりにした彼の武威の凄まじさに、皆が言葉を失くしていた。


やがて地面に転がる冥蛇の巨躯に目を向けながら、虞兆が朱峩に問い掛けた。

「朱峩殿、この者をどうされるつもりなのだ?

役人に突き出すのか?」


「いや、それは止めておこう。

役人と裏で繋がっていることも考えられるからな。


この二人については俺に考えがある。

それよりも手下どもの死体だが、姫に見せる訳にもいくまい。


誰か従僕たちを呼んできてくれんか。

あの厨人どもの死体と一緒に、裏庭に埋めさせよう。


あの連中にも、少しは罪滅ぼしをさせんといかんからな。

それから姫には、全部終わったから、安心して床に就くように言ってくれ」


朱峩のその言葉に護衛士の憮備むびが頷き、屋敷内に駆け込んでいった。


その後姿を見送った朱峩は、冥蛇の巨躯をおもむろに担ぎ上げると、胡床に縛られたままの丁項の頭を軽く小突きながら、

「こいつを裏まで運んで来てくれんか」

と虞兆に向かって言った。


虞兆が不得要領に頷くと、今度は羅先に向かって、

「出来るだけ丈夫な縄を見つけて、裏に持って来てくれ。

それから婢妾たちを呼んで来てくれ」

と頼んだ。


羅先はその言葉に頷くと、朱峩は冥蛇を担いで裏庭へと歩いて行く。

虞兆と顧寮こりょうは慌てて丁項を胡床ごと持ち上げ、彼の後に続くのだった。


裏庭に出た朱峩はそのまま裏門を潜ると、鬱蒼と茂る木々の間に踏み込んだ。

そして屋敷を出て、十間余りの場所に生えた巨木の前で立ち止まる。


朱峩は暗闇に聳え立つその木を見上げながら、

「丁度良い枝ぶりだな」

と呟いて、冥蛇を地面に放り出した。


その拍子に冥蛇は呻き声を上げたが、まだ朦朧としているらしく、起き上がる気配はなかった。

そこへ虞兆たちが胡床に縛られた丁項を、息を切らしながら担いで来た。


「そいつはそこに置いて、羅先が来るのを待とう」

虞兆たちは相変わらず要領を得なかったが、彼の言葉に黙って頷いた。

そして三人が束の間無言のままで待っていると、姜芭たちを連れて羅先がやって来た。


羅先はこれから朱峩が何をしようとしているのかを察しているらしく、

「姫様もついて来ると仰ったのですが、お止めしました」

と言いながら、朱峩に縄を手渡した。


「姫は慈悲深いからな」

朱峩はそう一言呟くと、手にした縄で冥蛇の巨躯を手際よく縛り上げてしまった。


そして胡床に縛られて項垂れている丁項を一瞥すると、

「そいつはそのままでよいか」

と、また一言呟くのだった。


周りに集った者たちが見守る中、朱峩は冥蛇を縛った縄を巨木の枝に掛けると、一気に引き上げる。

そして縄の端を幹に縛り付けて固定し、冥蛇を枝から吊り下げてしまった。


その様子を見ていた丁項は、次は自分の番であることを察して、必死で泣き叫ぼうとするが、猿轡を咬まされたままでは、それも明瞭な声にはならなかった。


そして朱峩は丁項の醜態に委細構わず、胡床に縄を掛けると冥蛇の隣に吊り下げた。

その時一同は、彼が何をしようとしているのか、漸く悟ったのだった。


朱峩が棒の先で冥蛇の軀を小突くと、漸く彼は目を覚ます。

そして自分が置かれている状況が理解出来ずに、足をばたつかせて暴れ始めた。


しかし彼を縛った縄は頑丈で、彼が吊るされた太い枝もびくともしない。

その無様な様子を見上げながら、朱峩は冥蛇たちに嘲笑を浴びせる。


「無駄な足搔きは止せ。

幾ら暴れても縄は切れんぞ。


お前たちは以前ここの主夫婦を枝に吊るして、生きたまま禽獣の餌食にしたそうだな。

俺はそれをそのまま、お前たちに返してやろうというだけだ。

なにも不思議はあるまい」


その言葉を聞いた冥蛇と丁項は一斉に喚き始めたが、猿轡に邪魔されて声にならない。

それを面白そうに眺めながら、「許して欲しいか?」と朱峩は二人に語り掛ける。


冥蛇たちはその言葉を聞いて、必死で首を縦に振った。

しかし朱峩の口から返ってきたのは、冷厳な拒絶の言葉だった。


「駄目だな。

お前たちを許す訳にはいかん。


ここの主たちも、木に吊るされながらお前たちに命乞いをしたのだろう。

しかしお前たちはそれを許してやらなかった。


違うか?違わんだろう?

そうであれば、俺がお前たちを許さねばならん道理など、欠片もないではないか。


まあ、お前たちの悪運が強ければ、通りすがりの誰かが気づいて、助けてくれるかも知れんぞ。

それまでせいぜい頑張ることだな」


そう吐き捨てると、朱峩は虞兆たちに振り返った。

「さて、こいつらの醜態も見飽きた。

そろそろ屋敷に戻って寝るとするか」


そう言って後も振り返らずに立ち去る朱峩に、慌てて虞兆たちが続く。

一人残った姜芭は必死で縄を振り解こうと暴れる賊どもを睨みつけると、頬を伝う涙を拭って、朱峩たちの後を追うのだった。

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