【15-1】鴇鳴岡(1)

曄姫ようき伽弥かやの一行はちょう国内を曄に抜ける道の半ばまで到達していた。

途中幾つかの街を通り、荷駄を狙う破落戸ごろつきどもに行く手を遮られることが三度あったが、その都度護衛士たちがこれを退けている。


ここまで主従が一人も欠けることなく到達できたことに、伽弥は心の中で安堵すると同時に、これから先に待ち受けているかも知れない危険を思い、気を引き締めるのだった。


その日食時しょくじ(午前八時)に前泊地を立った主従は、やがて周辺に民家のない、緩々ゆるゆるとした上り坂に達していた。

時刻は晡時ほじ(午後四時)に近くなり、終日歩き通した一同には漸く疲労の色が見え始める。


一行の先頭を歩いていた護衛隊長の虞兆ぐちょうは、一旦隊列を停めて休憩を命じると、最後尾にいる朱峩しゅがに駆け寄った。


「朱峩殿、この坂がどこまで続いているかご存じか?」

「俺もこの道を通るのは初めてなのだ。

見る限りまだまだ登りが続くようだが」


二人して行く手を見ると、確かに朱峩の言う通り、緩やかな上り坂がかなり先まで続いていた。

道の両側は鬱蒼とした森に囲まれている。


「今宵はここに留まって野営すべきだろうか。

幸いこの辺りは平坦な場所もあるが」

「土匪を警戒するのであれば、周囲を見渡せる場所の方が、都合がよいがな。

さて、どうしたものか」


そうやって二人が話し合っている最中さなか、坂の上から速足で下って来る人影が見えてきた。

それは朱峩が偵探の任を依頼している羅先らせんだった。


羅先は一行に会釈しながら隊列の後方に至ると、朱峩と虞兆に告げた。

「この先五里程登った所に、かなり大きな人家が一軒ございます。

人家の先は下りとなっており、恐らく次の邑に繋がっているかと」


「その家の周辺に、他の家はないのか?」

「ございませんね。

その家を超えて少し先まで進んでみましたが、一軒も見当たりませんでした」


朱峩と羅先のやり取りを聞いていた虞兆が、

「朱峩殿、その家に今宵の宿泊を依頼してはどうだろうか?」

と提案する。


それを聞いた朱峩は束の間考えを巡らせていたが、「まあ、よいだろう」と言って虞兆に肯く。

すると羅先は、「では私が先に行って話をつけておきましょう」と言い残して、足早に坂を上っていくのだった。


その後姿を見送った虞兆は、

「羅先殿は何をしている御仁なのだろうか?」

と朱峩に尋ねた。


その問いに朱峩は笑いを含みながら答える。

「今は旅の賈人をしているが、元は偸盗ちゅうとうだ」


「偸盗ですと?」

「驚くのも無理はないがな。

今は正道に戻っているから気にするな」


そう言って朱峩は笑うと、

「そろそろ出立した方がよいぞ。

愚図愚図していると日が暮れてしまう」

と言って虞兆を促したのだった。


虞兆はその言葉にはたと顔を上げると、慌てて護衛士たちに出立を命じた。

そして自身も速足で列の先頭に向かって駆け去って行く。

朱峩はその後姿を、苦笑を浮かべながら見送るのだった。


それから半刻余り緩やかな坂を登ると、街道の脇に周囲の樹木を切り開いて建てたと思われる、広壮な屋敷が見えて来た。

一行が屋敷に近づくと、大きく開かれた門前に羅先が一人佇んでいる。


羅先は屋敷の前に辿り着いた朱峩と虞兆に向かって、

「一夜の宿を、屋敷のご主人に受け入れて頂けました」

と、笑顔で告げた。


それを聞いた虞兆は、早速豨車きしゃの戸を叩いくと、中に乗る伽弥に向かって、事の次第を説明する。


長い時を豨車に揺られるのは、矢張り身に応えるのだろう。

虞兆の話を聞いた伽弥は豨車を降り、安堵した表情を浮かべるのだった。


一行が羅先に導かれて門を潜ると、中で数人が彼らを迎えてくれる。

前に立って笑顔を浮かべているのは、初老の温和そうな気配の男だった。


「屋敷のご主人の丁項ていこう様です」

羅先が短く紹介すると、丁項は一行に向かって腰を折り、伽弥たちも慌てて礼を返す。


「今宵の宿をお貸し頂けるとのこと。

誠にありがとうございます。

されど突然大勢で押しかけて、さぞやご迷惑で御座いましょう」


伽弥が謝辞を述べると、丁項は首を横に振りながら、彼女に笑顔を向ける。


「迷惑などと、とんでもない。

広いだけが取り柄の陋屋ろうおくで御座います。


曄までの長旅とお聞きしましたが、さぞやお疲れのことでしょう。

大したお持て成しも出来ませんが、今宵はゆっくりとお過ごし下さい」


丁寧に労りの言葉を述べると、丁項は背後に立った従僕じゅうぼくたちに、伽弥たちを案内するよう指図した。

一行は四頭の豨を車から外して従僕の一人に預けると、他の者たちに導かれて屋敷の中に足を踏み入れた。


充てがわれた房に落ち着いて旅装を解いた伽弥は、胡床に座り大きく溜息をつく。

長旅の疲れが、流石に彼女の身に応えているのだ。


その時屋敷の婢妾ヒショウが、茶を乗せた盆を捧げ持ってきた。

伽弥が礼を述べると、そのはしためは無言で目礼して去って行く。


――この屋敷の者たちは主の丁項殿を除いて、皆無口で表情がないのは何故でしょう?

伽弥は不審に思いながらも茶を口にする。

熱い茶が彼女の疲れた体に染み渡っていった。


それから間もなく伽弥一行は、屋敷の者たちが整えてくれた夕餉の席に着いていた。

正面の主の席には丁項が座り、その左右の席に伽弥たちが向かい合うようにして並ぶ。


丁項の右側には伽弥が、そしてその正面に朱峩が座り、伽弥の隣には虞兆が着席した。

そして丁項が眼で指図すると、屋敷の婢妾たちが卓上に菜肴さいこうを盛った皿と酒椀を並べていく。


「何分急なことでしたので、粗餐しかご用意することが出来ず、お恥ずかしい限りです」

そう言って頭を下げる丁項に、伽弥は恐縮して答えた。

「私たちこそ急に大勢で押しかけましたのに、夕餉までご馳走になりまして、誠にありがとうございます」


「この辺りは鴇鳴岡ほうめいこうと呼ばれておりまして、禽獣が多く棲んでおります。


本日は偶々山獐さんしょう(鹿に似た獣)が罠に掛かりましたので、何とか膳を賑わすことが出来ました。

田舎臭い菜肴ではございますが、存分にお召し上がり下さい」


丁項はそう言って酒椀を手に取ると、伽弥たちにも笑顔で勧める。

そして一同が椀を手にした時、それまで無言だった朱牙が口を開いた。


「主に訊きたいのだが、この酒に毒は入っておらんだろうな?」

突然の彼の暴言に、伽弥たちは目を丸くして驚く。


「毒などと、ご冗談を」

丁項は顔を引き攣らせて笑い、伽弥は「朱峩殿、無礼ではありませんか」と彼を睨んだ。

しかし朱峩は丁項に射るような視線を向けたまま、彼女に応えた。


「無礼は承知だ。

しかしこの屋敷には、どうも胡乱な気が漂っていてな。


この付近は匪賊が猖獗しているというのに、山間の孤屋に僅かな男手だけで何事もなく暮らしていけるものかな。


そう思うと、どうしても疑いが生じてしまうのだ。

この屋敷の主は賊と結託しているか、或いは賊そのものなのではないかとな」


その言葉を聞いた丁項は顔を蒼褪め、「何を無茶なことを」と言って絶句した。

伽弥たちも互いに顔を見合わせる。


「そして主が先程<鴇鳴岡ほうめいこう>と口にしたのを聞いて、旅の噂で聞いた話を思い出したのだ。

鴇鳴岡の孤屋に住む賊は、旅人に毒を盛って荷を奪うとな」


そう言って後、朱峩は口元に冷笑を浮かべながら、自分の前に置かれた椀を丁項の前に押し出した。


「まあ、あくまでも噂だ。

しかしそれを知った限り、用心せん訳にはいかんだろう。


だから主よ。

俺に出されたこの椀の酒を、飲んでみてくれんか?」


すると丁項の顔から笑いが消え、見る見る険しい表情が浮かんだのだった。

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