【12-3】伽弥の危機(3)
耀湖畔の一角にある
そこでは今まさに朱峩と、<七耀>の<土>
厳竪が振るうは重さ二十斤の
その制空圏に入ったものは、人も物もその猛威になぎ倒され、破壊されてしまうのだ。
現に彼が横薙ぎに振るった鐗の一撃を受け、
しかし厳竪の技量は鉄鐗を竹竿のように揮う、単なる膂力任せでのものはなかった。
通常人が左右の腕を同時に使う時、必ずと言ってよい程どちらかの手の動きに意識が縛られ、もう一方の動きが引きずられてしまう。
つまり争闘時に左右の手を同時に使おうとすると、操者の意識が向いた方の手の動きに、もう片方の手の動きがどうしても同調してしまうものなのだ。
もし無理矢理左右の手に違う動きをさせようとすると、どちらか片方の動きが一瞬遅れるか停止してしまうのだ。
それは人が左右の手で、同時に違う文字を書けないことが如実に表しているだろう。
しかし厳竪は厳しい鍛錬の末に、左右の手を互いの縛りなく自由自在に動かすことが出来た。
これは彼に相対する敵にとっては、脅威そのものとなったのだった。
二十斤の鉄鐗の威力だけでも凄まじいのに、二つの鐗が予測不能な動きで襲い掛かって来るのだ。
掠るだけでも致命傷となり兼ねない打撃の嵐に晒されれば、並の者であれば為す術もなく打ち倒されてしまっただろう。
しかしその超絶の武技も、朱峩には通じなかった。
彼は厳竪が休みなく繰り出す変幻自在の双鐗の連撃を、まるで風に靡く薄絹の如く、軽やかに
武林観の上位者は修行によって<
<散眼>とは戦闘時に天地人の三目を自在に別方向に動かし、通常では得られないような広い視野を作り出すことを言う。
加えて朱峩は動体視力が異常に発達していたため、高速で飛び回る
その結果彼は相対する者の眼や筋肉の動きを瞬時に捉え、次の動作を正確に予測することが出来るのだ。
それが彼を<武絶>たらしめている
次々と繰り出す攻撃が全て空を切り、さすがの厳竪も攻め疲れたのか、一旦後ろに飛び下がると朱峩を睨みつけた。
その呼吸は荒く、肩は激しく上下している。
一方の朱峩は涼やかな顔で飄然と立ち、息の乱れもない。
「もう終わりか。
<七耀>も名ばかりだな」
彼は口元に微笑を浮かべて厳竪を煽った。
しかし朱峩の武威の一端を目の当たりにした厳竪は、既に冷静さを取り戻し、容易にその挑発に乗らなかった。
「ふん、さすがに<武絶>と呼ばれるだけのことはあるな。
<金>が倒されたのも当然か。
しかしわしの役目は、寸刻でも長く貴様をこの場に足止めすること。
今頃曄姫は<木>、いや、
そう言って
朱峩は彼のその言葉を聞き咎める。
「阿宜だと?
それはここの領主のことを言っているのか?」
その詰問に対して、更に不敵な笑みで返したのが厳竪の答えだった。
「成程、小賢しくも図ったものだな。
どうやらこれ以上、お前と遊んでいる訳にはいかんようだ」
その一言を置き去りにして、朱峩は一陣の
彼は厳竪との間を一気に詰めると、手にした鍛鉄の黒棒を自在に繰り出して、変幻の打突を見舞う。
一方の厳竪は双鐗を駆使してその打撃を打ち払おうとするが、全てを防ぎきることが叶わず、身に幾つもの痛撃を受けてしまった。
それでも豪勇<七耀>の<土>は屈することを知らず、捨て身の一撃を朱峩に向けて繰り出したのだった。
しかしそれは朱峩の目論見通りだったのだ。
百戦錬磨の彼は、厳竪が双鐗を振りかぶった僅かな隙を突いて、棒の一撃を彼の両手に見舞うのだった。
厳竪はその神速の打撃を防ぐことが敵わず、手にした双鐗を取り落としてしまう。
棒の痛撃で両手の拇指を、一瞬にして打ち砕かれたからだった。
拇指を失い、最早鐗を握ることが出来ないと悟った厳竪は、無手で猛然と朱峩に打ちかかる。
しかしその捨て身の攻撃もあっさりと躱され、両膝に棒の一撃を受けて地に転がされてしまった。
痛みと屈辱に耐えながら、厳竪は自分を見下ろす朱峩を睨みつける。
「何故止めを刺さんのだ?
わしを
しかし彼を見る朱峩の顔には、何故か憐憫の情が浮かんでいる。
「別にお前を嬲るつもりはない。
ただ、ここを立ち去る前に、一つ訊いておきたいことがあってな」
「訊きたいことだと?」
「そうだ。何故お前たち<七耀>はそれだけの力を持ちながら、
朱峩のその言葉に、厳竪の顔から表情が消えた。
そしてその眼の奥には、深い絶望と諦観が宿っていたのだ。
「それは言っても詮無いことだ」
そう言って朱峩から顔を背けた厳竪は、やがて静かな笑みと共に再び彼に向き直った。
「最後に貴様のような男と、手合わせ出来てよかったよ」
その言葉を口にすると、彼はそのまま前のめりに倒れ伏せた。
<七耀>の<土>、剛勇
「自ら毒を呷ったか。
先日の<金>と言い、その覚悟だけは誉めてやろう」
地に倒れた厳竪を見下ろして、朱峩は呟く。
それが彼からの手向けの言葉なのだろう。
その時、「朱峩様」と声を掛ける者がいた。
そちらに目を向けると、
彼の元に歩み寄った朱峩は、「世話を掛けたな」と礼を言って那駝の手綱を受け取った。
「朱峩様、お急ぎ下さい。
曄姫様はどうやら、この地の辺境伯に攫われたようです」
羅先の言葉に、朱峩は肯いた。
「そのことは、この男から聞いた。
姫を攫った連中が、どこに向かったか分かるか?」
「湖畔の船止めに向かったようです。
この街道をまっすぐ進んで下さい」
朱峩は再び頷くと、羅先に何事かを耳打ちした後、那駝に飛び乗る。
そして駝首を返すと、街道を風のように駆け去って行くのだった。
残された羅先は、地に横たわった厳竪に手を合わせた後、離れた場所で呆然と坐したままの
そして彼女に手を貸して助け起こすと、無事を確認して再び倒れた厳竪の傍に戻った。
そして懐から小刀を取り出し、厳竪の
「何故そのようなことをなさるのですか?」
施麻の問いに羅先は、「朱峩様からのご依頼なのです」と照れ臭そうに答えた。
そして、
「この人の埋葬を近隣の方にお願いしたら、曄姫様の元までお送りしますよ」
と言って、彼女に笑いかけるのだった。
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